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十津川と新十津川

山と谷しかない免租の村

十津川村役場-民俗資料館-2

   【役場周辺でさえも平地がわずかしかない】

 奈良県十津川村は、熊野古道・小辺路の取材で2015年に訪れた。
 全国一広い(672平方キロ)村だが、山と谷の連続で平地はわずかしかない。明治の大水害前の田の面積は235町(235ヘクタール)。ひとりが1年間で食べる量のコメがとれるのが1反(10アール)とされるから、当時の人口(1万2862人)の5分の1しかまかなえない。だから江戸時代は年貢が免除されていた。
 司馬遼太郎の「街道をゆく 十津川街道」によると、昭和のはじめまで人が死ぬと、お悔やみに来る人は「コメヨウジョウもかないませず」と、遺族にあいさつした。米のかゆを食べさせる栄養療法もかなわずに亡くなってしまって……という意味だった。「十津川郷にあっては、太古以来ほんの30年ほど前まで、これ(トチの実)が主食のひとつだったのである」とも司馬は記した。米がきわめて貴重だったのだ

 十津川郷の山の民の団結は強く、「文武館」という「藩校」のような学校をつくり、幕末の争乱では、全村の男が薩長の保護のもと京都で活躍し、戊辰戦争で奥州まで転戦した。それらの功で、明治初年には全村一戸のこらず「士族」になった。

明治の大水害


谷瀬の釣り橋-5

   【深い谷だらけの十津川は吊り橋が多い】

 1889(明治22)年8月15日に降りはじめた豪雨は来る日も来る日も降りつづけた。18日、山と谷を揺るがす轟音が響き渡り、あちこちの山が数百メートルにわたって崩れた。土砂が谷をせき止めてそこかしこに湖ができ、水が逆流して上流の田畑をのみこむ。せき止めていた土砂が崩れると、濁流が下流の集落を飲み込んだ。
 当時の十津川郷は6カ村で2403戸人口1万2862人だった。この水害で、死者168人、全壊・流失426戸、半壊184戸を数え、水田の5割、畑の2割が失われた。
 困窮した人々を救うため、東京在住の十津川出身者たちは北海道移住を政府に要請し、村民に移住を説得した。水害から2カ月後の10月、600戸2489人が3グループにわかれて故郷を後にした。その多くが、熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)と高野山を結ぶ、熊野古道・小辺路の急峻な峠道をたどった。峠からふるさとを振り返って泣いて別れを告げたという。

厳冬の北海道へ

 移住を決意した十津川の人々は、高野山を経て大阪に出て、神戸港から船に乗って北海道・小樽港に上陸した。
 越冬する空知太(滝川市)に向かって出発したのは10月末だった。最後の50キロは泥だらけで馬車が使えず歩くしかない。老人や子どもは囚人に背負われて移動した。
 150戸の屯田兵屋に1戸あたり4世帯が同居。燃料は生木で煙がもうもうと立ちこめてだれもが目を痛めた。悪性のかぜが流行し、翌年の夏までに96人が死亡した。「ヤマトの移住民、空知の肥だよ」と囚人たちが歌うほど、悲惨な生活だった。
 でもなぜ、春を待たずに、晩秋に北海道に渡ったのか。
「……翌春まで移住を待つとすれば、わずかな義捐金に頼るか、親戚縁者などに身を寄せる以外になく、いったん団体を解散すれば集団の統制が乱れ、移住を決意した者のなかにも、しだいに落伍者がでるというおそれがあったからと推察される」と「新十津川百年史」は記している。
 極限状況にあった12月、人々は「移民誓約書」をつくった。
 家族以外の2人以上の酒宴をしない。村内に飲食店を開かない。衣服はなるべく木綿を用いる……といった内容だ。
 十津川郷は勤王の歴史があったがゆえに移住にあたって破格の恩義を受けた、その恩義にこたえなければならないと指導者たちが信じて起草したという。

開拓

 冬を越えて1890(明治23)年6月、石狩川の右岸の入植地に入り、森を切り開いた。十津川では林業に従事していたから伐採作業はお手の物だ。昼間は木を切って笹や草を刈り、耕す。夜は木や笹や草を燃やして処分した。
 道庁から2年間食糧の支給を受けたから開墾に主力を注ぎ、最初の年は、年内に収穫できるソバや大根をつくった。2年目からは、麦、トウモロコシ、アワ、キビ、大豆、馬鈴薯、カボチャなどを植えた。アマニ油で知られる亜麻(アマ)の耕作も拡大した。
 1892年から水稲の試作がはじまる。その後の水害で亜麻や畑の野菜が壊滅的な被害を受けたが、水稲は無事だったことから、1902年ごろから水田が急速に広がった。

20210824新十津川水田とそば (7 - 14)

       黄金色の稲穂とソバの花が競演する穀倉地帯に

廃仏毀釈の影響?

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 穀倉地帯になっている新十津川町を2021年8月上旬に訪ねた。
 札幌から特急ライラックに乗り、広大な田畑が広がる平野を走り、滝川駅でおりた。「スマイル」という駅前再開発ビルは3月に閉鎖され、駅前は静まりかえっている。
 新十津川は4キロほどの距離だから歩くことにした。
「ムツゴロウの無人島記」や「動物王国」を読んで北海道にあこがれ、高校時代に2週間旅した。大学時代は1カ月間、ヒッチハイクで全道をまわったのを思い出した。
 悠然と蛇行する石狩川を大きな橋で渡っていると、ツクツクボウシの声が響き、肌寒い風が吹き抜ける。気温は22度。2週間もすれば冷たい風が吹き、2カ月たてば雪が降りはじめるだろう。あれほど雄大な自然に魅了された北海道が、今は荒涼として見える。開拓民の寂しさの一端がわかるような気がする。
 広大な平地を生みだした石狩川を渡ると新十津川町だ。「家を持つなら新十津川町に」という看板がある。新築だと最大200万円、中古は100万円の助成があるという。

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 開拓記念館の近くに「出雲大社」があった。
 奈良県の十津川村は、明治初期の廃仏毀釈がとりわけ苛烈だった。
 村内にあった53の寺はすべて破壊され、仏像や経典類は廃棄された。ほかの地域と異なり、現在にいたるまで当時の寺は再興されていない。
 その理由は、江戸時代の寺請け制によって腐敗した仏教への反発に加え、十津川郷全体で、神道系のひとつの教派に属することを強制し、離脱を許さなかったことがあるという。郷全体で一致団結することで政治力を発揮してきた歴史がその背景にある。新十津川町の開村当時の移住民はすべて出雲大社教の教徒だった。1892(明治25)年には出雲大社教の千家尊愛管長が新十津川を訪れている。
 私は半日町内を歩きまわったが、神社はあるが寺はない。明治の廃仏毀釈によるものだろうかと思ったが、あとで調べると町内には6つの寺があった。
 実は、十津川出身者は次々に離村し、奈良県出身世帯は1920(大正9年)には395世帯(15.7%)、1930(昭和5)年には246世帯(10.7%)に減り、富山県出身者を下回っていた。1949年には、入植当時からとどまっている世帯は84戸になっていた。

明治生まれの酒蔵

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 開拓記念館は、コロナのまん延防止等重点措置の適用地域からの客は入館できなかった。開拓の足跡を求めて歩いていると、土地改良区の記念碑を見つけた。
 1890年6月に移住した当初は畑作だったが、水稲の試作がはじまり、1902(明治35)年ごろから各地に私設水利組合が設立された、と記されている。
 金滴酒造という酒蔵も訪問してみた。赤煉瓦や石造りの建物だが、正面には酒蔵を象徴する杉玉がぶら下がっている。
 1906(明治39)年、有志81人で「新十津川酒造株式会社」として創立した。「十津川衆は、よく酒を飲む」といわれたが「おどれらでまくろう酒は、おどれらでつくらんか」と、当時としては珍しい法人組織で発足した。酒を造るということは、稲作が軌道に乗っていたことを示していた。
「郷の心」という酒は、十津川村の酒米と新十津川町の酒米で3000本限定で2021年5月に発売した。「町民還元酒」と表示され四合瓶1本1000円という安さだ。辛口で料理の味のじゃまをしない酒だった。

消えた鉄路

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 JR札沼線の新十津川駅跡に行ってみた。
 札沼線は札幌市の桑園と、留萌本線の石狩沼田駅間111.4キロを結んでいたが、1972年に新十津川駅と石狩沼田間34.9キロが廃止され、新十津川が終着駅になった。運行本数が減り、2016年からは新十津川発の列車は午前9時50分の1本になり、「日本一終発が早い駅」となった。
 北海道医療大学―新十津川間(47.6キロ)は2020年5月6日に廃止されることになったが、直前の4月15日、新型コロナウイルスの感染拡大で、沿線利用者を対象にしたラストランを4月27日に繰り上げると発表された。ところが翌16日に北海道が緊急事態宣言の対象地域となり、定期列車の最終運行が4月17日に繰り上がり、住民向けのラストランは中止された。最終運行の繰り上げが発表されたのは16日の夜だった。
 金滴酒造では札沼線のキハ40系気動車をかたどった酒を販売するなどして、盛り上げようとしてきた。「廃線を前日に聞いてショックでした」と酒蔵の男性は語った。
 空知中央病院という6階建ての病院の目の前に新十津川駅跡がある。
 駅舎は撤去され、線路とホームだけが残っている。
 ツクツクボウシと秋を告げる虫の声だけが、雑草に覆われて静まりかえったホームに響き渡っていた。

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