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金星人が降臨した京の異界・鞍馬

 遠野のカッパ淵【記事はこちら】をたずねたあと「遠野物語」を読みかえした。人々は河童や妖怪の存在を前提として生きていた。つまり河童は「存在」したのだ。「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で内山節は、自然や神々、死者とつながる能力が「キツネにだまされる能力」であり、そういった能力が衰弱してキツネや妖怪といった異界の存在が消えたと説いた。
 でも、大阪歴史博物館の「異界彷徨―怪異・祈り・生と死―」【記事はこちら】では、絶対的な「死」があるかぎり異界が消えることはないと結論づけられていた。

絵馬発祥の貴船

 身近な異界で思いうかぶのは学生時代に何十回もおとずれた京都の鞍馬だ。伊勢や熊野、出雲などとならんで全国の有名な「聖地」として読売新聞に掲載されていたこともあった。

 6月はじめ、叡山電鉄の貴船口駅におりた。貴船川の新緑の渓谷を20分ほどさかのぼると川床(かわどこ)があらわれる。谷川の水面の30センチほど上に床をもうけ、そこで会食するのは京都の夏の一番のぜいたくだ。1994年ごろ京都で新聞記者をしていたとき、大企業の幹部との懇親会で何度かきたことがある。今は、外国人観光客が5000円、6000円の「ランチ」をあじわっている。

 石段をのぼった貴船神社は新緑のカエデがあざやかにきらめいている。「絵馬発祥の社」と称する。歴代天皇が、雨乞いには黒馬、晴れの祈願には白馬や赤馬が奉納した。その後、馬のかわりに板立馬が奉納されるようになり、「絵馬」の原型となったと書いてある。
 馬のかわりに土馬や木馬が登場し、さらに簡略化されて板に馬をえがく絵馬が出現した。もっとも古い絵馬は大阪市の難波宮跡から出土した飛鳥時代(7世紀中頃)のものだから、貴船が「発祥」というのは事実ではない。

平安の恋愛フェチ 和泉式部

 上流500メートルにある奥宮にむかう。
 ひとつの株から2本の杉がならびたつ「相生の杉」は樹齢1000年。

 縁結びと関係ある「結社(ゆいのやしろ)」には、天磐船という舟形の巨石があり、御神体かとおもったら、山奥で出土したものを1996年に奉納されたという。境内には和泉式部の歌碑がある。

ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる

(恋になやんでいたら、沢の蛍も私の体からぬけだした魂ではないかと見える)

 さらに奥宮の手前の小さな川は「思ひ川」と名づけられている。夫の愛をとりもどそうとした和泉式部が、ここで身を清めて奥宮を参拝したという。
 和泉式部は恋愛のことしか頭になかったようだ。熊野古道でも和泉式部は存在感をはなっていた。
 山の尾根にある伏拝(ふしおがみ)王子は、3つの川の合流点にある熊野本宮大社の旧社地を遠望できる。この場所に和泉式部の供養塔がある。和泉式部はここで月のさわり(月経)になった。けがれた身では本宮に行けないとなげき、伏して拝んで歌をよんだ。

 晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき

 その夜、熊野権現が夢枕にたち、歌をかえした。

もろともに塵(ちり)にまじはる神なれば月のさはりも何か苦しき

 これによって和泉式部は参拝することができた。
 この伝説は、ハンセン病の患者でも生理中の女性でも「貴賤(きせん)男女の隔てなく」「浄不浄をとわず」うけいれる熊野の神の寛大さをアピールするため、熊野信仰をひろめた時衆の念仏聖がつくりだしたらしい。
 藤原道長から「浮かれ女」と評された恋愛フェチの和泉式部は、そんな宣伝にぴったりのキャラだったのだろう。

山奥で「海上安全」

 奥宮は広々としている。「御船形石」は岩を積み上げて舟の形にしている。ここの小石を携帯すれば「海上安全」の御利益があるという。

 神武天皇の母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)が「黄船」にのって浪速から川をさかのぼり、ここに上陸して水神をまつったという伝承がある。「貴船」の起源は「黄船」という説もあるそうだ。
 こんな山奥で「海上安全」というのは不思議だが、そういえば、熊野古道の山奥の音無川の渓流わきにも「船玉神社」があった。

左が船玉神社、右が玉姫稲荷。夫婦神という説も

 直線で30キロもはなれた、熊野川河口の鵜殿村(紀宝町)の船乗り海上安全の守護神としてあがめ、5月3日の例祭には船舶関係者が参詣するという。宮城県釜石市の御船祭の船歌のなかに「紀の国の音無川の水上に、船玉十二社大明神、ホホヨー、ハアヨイハアーヨイ」という歌詞がある。江戸末期から明治にかけて流行した端唄「紀の国」からとったものだが、この神社の信仰の全国的な広がりを示している。
 山と海は信仰をとおして昔からつながっていた。船をつくるためには木が必要だからか、海の生態系を維持するには健全な森が必要であることを経験的に知っていたのか……信仰にはエコロジー的な「知恵」が想像以上にふくまれているのかもしれない。

金星から降臨した魔王がひらいた鞍馬山

 貴船川をわたり、「鞍馬寺西門」で拝観料500円をはらって登山道にはいる。

 15分ほどのぼると奥の院魔王殿だ。
 魔王サマトクマラが650万年前、地球救済のため、金星からこの場所におりてきて、僧正ガ谷にすむ鞍馬天狗となったとされている。

写真にすると…つまらん

 社殿の前の手水舎に青くかがやくガラスのような不思議な柱がたっている。宝石かと思って近づくと、水の流れだった。風がなくゆらがないから、たえず落下してながれているのに、透明の柱に見えたのだ。
 福岡伸一の「動的平衡」によると、エントロピーの法則によって、形あるものはすべてこわれるが、生物は、自然にこわれるよりはやくみずからをこわしつづけることで再生し、平衡状態をたもち「形」を維持しているという。「形」を維持するにはうごきつづけなければならない。物質なんてこの水の「柱」のようなものなのだろう。
 仏教は、あらゆる現象は実体がない「空」であり、関係性のなかで、絶えず変化しながら発生する「出来事」であるという。最先端の量子力学も物質を「粒子であるけれど波(=出来事)でもある」とする。
 動的平衡も量子理論も般若心経もおなじことを言っているんだなぁ……魔王降臨の地で水の柱をながめながらしばし妄想した。

葬式をきらう修験の聖地

 牛若丸は幼いころ、鞍馬天狗のもとで修行した。鞍馬から奥州平泉へ出奔する際、名残を惜しんで背比べをしたという「背比べ石」や、非業の死を遂げたあと鞍馬にもどってきた魂を遮那王尊としてまつった義経堂……。森の散歩道は伝説だらけだ。

のぼりつめた尾根周辺は、木の根がうねうねと地表面をはい、「木の根道」とよばれる。岩盤にはばまれて根っこが地中にのびることができずに形成された。
 近くには「大杉権現社」がある。樹齢1000年という護法魔王尊影向の杉(ごほうまおうそんようごうのすぎ)をまつっていたが、その木は1950年の台風で折れ、2018年には拝殿も倒壊してしまった。

 周囲はピンとはりつめたような空気がただよい、若い女性が一心に手をあわせている。「大杉苑瞑想道場」とよばれるのは、この場所に霊気をかんじるからなのかもしれない。地中の岩体によってつくられた木の根道と巨木のあるこの場所が鞍馬の信仰の原点だったのではなかろうか。
 1976年に移築したという与謝野晶子の平屋建ての書斎をへて、15分ほどで鞍馬寺の本殿金堂までおりた。1971年築だから建物には歴史をかんじない。とりあえず参拝して、「地下」があるのを思いだした。

 左右にある格子戸を開けて階段をくだると、真っ暗な空間に無数の燈籠のあかりがうかぶ。床から天井まである棚に、小さな壺がずらりとならんでいる。はじめてきたときは骨壺かと思ってギョッとしたが、壺には髪の毛がおさめられている。
 宗教にまったく興味がなかった学生時代、木の根道をあるいてもハイキングとしか思えなかったが、この本殿の地下だけは、暗闇にうかぶ無数の灯が宇宙の星のように思えて、仏教というより、アニミズム的な厳粛な空気をかんじた。
 鞍馬寺は山内に寺と神社が混在し、神仏習合の雰囲気を今ものこしている。ここは修験の聖地だったのだ。

 修験の山は葬式をきらう。五来重によると、山伏や僧侶が亡くなると、鞍馬寺ではなく、8キロほど南の、小野小町終焉の地とされる小町寺(補陀落寺)で葬儀をいとなんできた。鞍馬の村人の葬儀もまた、8キロほどはなれた寺でもよおしていたという。

帰りの叡山電車

老いさらばえた小野小町の髑髏

 1カ月後、補陀落寺をたずねた。叡山電鉄の市原駅をおりると、山にかこまれた市原野の里だ。
 かつて一帯は周辺の村々の埋葬地であり、死者を葬る惣墓(そうばか)があったという。駅から800メートルほど鞍馬街道を南下した篠坂峠は、江戸時代に山をけずって切通しにしたらしい。その山の斜面に補陀落寺(小町寺)など4つの寺がかたまっている。
  小野小町は六歌仙のひとりだが、出生も生いたちも不明で、彼女の墓は秋田や宮城、愛知、滋賀、熊本など全国各地に散らばっている。この里の小町寺は彼女の生家であり、老いさらばえた彼女が息絶えた場だとつたえられている。

 在原業平が市原野を通りかかったとき、ススキのなかから

 秋風の吹くにつけてもあなめあなめ(秋風の吹くたびに、ああ目が痛い)

 という和歌の上の句がきこえた。ススキの根元をみると、野ざらしの髑髏の目の穴からススキが生えており、それが風になびくごとに人の声のようにきこえていた。その髑髏が小野小町のものだと知って哀れに思い、「小野とは言はじ薄生えけり」と下の句をつけた……。以来、穴目の芒とよばれているという。(この伝説の舞台は奥州である、という説も)

 境内には、「十三本檜」とよばれる銘木や、「小野小町姿見の井」、小町の供養塔などがある。本堂には「小野小町老衰像」がまつられているという。


 境内は石仏や五輪塔や墓が林立している。一帯が「死者の里」であったことがよくわかる。
 そんな墓地の一角に「鞍馬寺の大和尚の墓」もならんでいた。

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