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京都ボヘミアン物語⑦バブル前夜、もてないくんの壁はチークタイム

小学校6年のとき、畑正憲の「ムツゴロウの無人島記」や「ムツゴロウの動物王国」に夢中になった。中学生になると「ムツゴロウの青春記」「結婚記」を読んだ。

青春記

 ムツゴロウさんは中学2年で奧さんになる人とつきあいはじめ、校舎の屋根裏でキスを経験していた。
「ぼくも中学2年までには恋人をつくってキスをする!」
 そう決意したのだが、なにもないまま中学3年間は終わった。高校は男子校で、文化祭でのフォークダンスでであった子に「つきあってください」と一度だけラブレターを書いたけどふられ、それ以外はなにもなかった。
 大学は文学部だ。50人のクラスのうち18人も女の子がいて、「女のにおいのする教室で勉強なんかできるんだろうか」とクラクラした。でもなにも起きなかった。

 ぼくが入学した1985年は、バブル経済(86年~)のはじまる直前で、女子大生とちゃらちゃら遊ぶテニスサークルが花盛り。従来の下宿ではなくワンルームマンションに住む学生が増えていた。
「カフェバー」が流行し、見た目や味は紅茶にちかいのにアルコール度数が高い「ロングアイランド・アイスティー」がレディーキラー(女殺し)と異名をとった。
「甘いカクテルに目薬をたらしてのませれば女の子を酔いつぶせる」という都市伝説もまことしやかに語られた。ぼくもためしに「いいちこ」に目薬を2滴たらしてのんでみたが、なにも変化はなかった。
 そういえばフジテレビで「夕やけニャンニャン」の放送がはじまり「おニャン子クラブ」が誕生したのもこの年だ。21年ぶりの阪神タイガースのセ・リーグ優勝はいうまでもない。
 キラキラチャラチャラした時代だけど、われらが「ボヘミアン」にはそのかけらもなかった。

20220629-220629修学院の下宿へ (3 - 6)

 ワンルームマンションに住むのは1人だけ。ほかは昔ながらの下宿、ちょっと余裕のあるやつはアパートだ。(この建物の1階の陽の当たらない四畳半に住んでいた)
 毎晩のようにだれかの下宿にあつまっては、「いいちこ」「刈干」「雲海」という安焼酎をあおった。そこでの主要な話題のひとつが「やらずのハタチ」だった。それを回避しようとしばしば女子大との合コンを企画した。
 ぼくは家賃も書籍代もふくめて月4万円で暮らしていたから、合コン前には、トンネル工事や引っ越しなどで資金をかせいだ。

20220628-220628阪急東通 (2 - 3)

 二次会の定番はディスコだ。大阪・梅田の阪急東通のディスコには何度もでかけた。2022年にその場所をさがしてみたがディスコらしい店は1軒もなかった。
 当時、高級ディスコチェーンのマハラジャが有名で、1984年には東京都港区の麻布十番に「MAHARAJA TOKYO」がオープンしていた。京都にも八坂神社の目の前の「祇園会館」に「マハラジャ祇園」があったが、ドレスコートがうるさくてボヘミアンの貧乏学生がいける場所ではなかった。マハラジャ祇園は1996年に閉店したが、2017年に同じ場所で復活している。バブル世代が子育てを終え、景気がもちなおしたことから2010年の東京・六本木を皮切りに大阪や名古屋でも復活しているという。

20220629-220629祇園マハラジャ (2 - 6)
20220629-220629祇園マハラジャ (5 - 6)

 ちなみにお立ち台で有名な「ジュリアナ東京」ができたのは、バブル経済崩壊後の1991年だ。

 ボヘミアンのなかでも遊びなれているシオザキは一番かわいい子をさそっておどる。体育会のテニス部とかけもちしているタケダは、毎回のように、遊び人風の女の子と2人で消えてしまう。翌日に顛末をたずねると、ニヒヒ……とわらいながら自慢した。
「ディープってええでぇ。おまえらもやってみ!」
 ザイールの石油王の隠し子のセージはもてないのはぼくとおなじだが、少なくとも女の子との会話には苦労せず、チークタイムにはちゃんとおどっていた。
 ぼくと九州出身のクスノキという男だけがチークに参加できず、食べ放題のスパゲティやピザをむさぼっていた。
 クスノキは「革命的大洋主義者同盟」を自称していた。要はマイナー球団の大洋ホエールズ(横浜DeNAベイスターズの前身)のファンということだ。
 学生運動がさかんだった団塊の世代から、四畳半フォークソング的な情緒を共有していた1970年代の「しらけ世代」をへて、1980年代に青春を謳歌したぼくらのちょっと上の世代は「新人類」とよばれた。テレビや漫画の影響をうけたオタクの第一世代でもあった。
 政治意識の高い学生も多少はいたが、「ださい」と評された。ましてや「革命的大洋主義者」などと新左翼的な用語をうれしそうに語るのはダサさのきわみ。ぼくから見てもそんなヤツがもてるわけがないと思った。
「クスノキと一緒なんて」と、ぼくはディスコで屈辱をかみしめていた。でもたぶん彼も「フジイといっしょなんて」と思っていたのだろう。

 合コンをくりかえすうちに、自分の欠点は「踊り」だけではなく、会話もできていないことに気づいてしまった。
 居酒屋での合コンで、ちょっとかわいい子が隣にすわると、頭が真っ白になる。単語カードをつかった「話題カード」をポケットにしのばせていたが、
「山は好き?」
「旅行は好き?」
「小説はなにが好き?」
 ……といった単発の質問を20問もくりだすと弾切れ。あとは気まずい空気がながれた。

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「おまえの会話はお見合いか!」
 合コン後にはいつもばかにされた。
「フジイくんエイドプロジェクト(略称FAP)を発動せなあかんな」
 シモザキとタケダはそう言ってうれしそうに説教する。
「まずは服からや。はっきりいってダサすぎる。せめてジャケットぐらい買え。それから髪型も丸刈りはあかん。一足ぐらい革靴か、ちゃんとしたブランドの靴を用意せなあかん……」
 そんなことを言われても、パンの耳を主食にしてなんとか生活しているのに、服を買うカネなんか捻出できるわけがない。FAPはけっきょく実行されなかった。
 でも当時のボヘミアン十数人のうち彼女がいるのは3人だけだったから、気は楽だった。
 比較的会話がうまいセージはワンレンボディコン美人女子大生とたまにデートしていたが、食事をみつぐばかりで進展はなかった。ぼくらは彼女のことを、凍えた風をヒューと吹きつけて男を凍らせる「雪女」と呼んだ。
 シオモトは枕にだきついて「女ほしい!」と腰をふっていた。
 2回生のヤマネにいたっては、宮崎県出身の「師匠」というあだ名の強烈な女子学生に言いよられ、逃げつづけていた。彼がそのトラウマを克服し、パートナーを見つけるまでには、その後四半世紀を待たなければならなかった。
 ボヘミアンの連中は、他人の傷に塩をぬりこんで、そいつがもだえる様子を見て楽しむというよからぬ性向があった。おかげで、多少の悪口や非難には動じないようになった。一方で、他人を怒らせることを平気で口にするから、人間関係づくりではプラスだったのかマイナスだったのかはわからない。(つづく)

【注】この文章は(かなりの部分は)フィクションです。実在の人物や団体などとは(それほど)関係ありません

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