中山道・東から③上方との交流示す天水桶 街道の往来から種苗産業
大空襲を生き抜いた社殿
神田川をわたるとまもなく神田明神(神田神社)だ。神田と日本橋、秋葉原……といった東京の中心の氏神で、銭形平次をはじめ多くの時代劇の舞台になった。門前には甘酒屋や餃子屋がならんでいる。
730(天平2)年に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により創建されたと伝えられている。出雲系だから一之宮の祭神として大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)をまつり、将門塚周辺で天変地異が頻発したため1309年に三之宮として平将門もまつった。二之宮は少彦名命(すくなひこなのみこと=えびす)だ。
本来、出雲系の神々や平将門は、国家にまつろわぬ存在だが、明治になって神田明神から神田神社に改称し、国家神道に組みこまれた。
明治維新後、政府の意向で朝敵である将門を本殿の祭神からはずしたため氏子が怒り、騒動となった。その結果、別殿に将門をまつった。1984年には全氏子の要望によって将門は本殿の祭神として復帰した。江戸っ子の反骨の気風は戦後になってものこっていたのだ。
1923年の関東大震災で社殿が焼失し、1934(昭和9)年に鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が建てられた。東京大空襲で焼け野原となり、神田明神の建造物もほとんど焼けたが、耐火構造の社殿だけが残った(国登録有形文化財)。
祭り囃子でめだって出会いを! 空回り
江戸囃子の太鼓と笛の音が流れている。なつかしいなあ、と思って集中して聴くと、メロディーも太鼓のリズムも知っている。
トヒャリカヒャイトロヒャイトロ……。
そうだ、高校生のころ祭り囃子研究会に入り、浦高祭(文化祭)では正門前に陣どってハッピを羽織って演奏していたんだ。
ぼくは楽譜を読めない。でもなにか楽器ができないかなあと考えているときに「祭り囃子なら楽譜はいらないよ」と友人に誘われた。文化祭でめだつということは女の子と出会いがあるかもしれない、とも期待した。
一度だけそんな機会があった。友人のつてで浦和第一女子高校の茶道部と「交歓会」をした。マクドナルドで4対4で向かいあっておしゃべりしたのだけど、内容はまるっきり覚えていない。当然なにも起こらなかった。
伊丹・灘の酒樽まねた天水桶
境内の社殿やお堂の前にはかならず天水桶が置かれている。古いものは1811年。本殿前の鉄製の天水桶は1847年に川口の鋳物師によってつくられた。
東京の寺社には天水桶(天水鉢)が多いが、関西ではほとんど見た記憶がない。
中野俊雄氏によると、江戸幕府は1775(安永4)年に、町中の各戸の軒先に「酒樽でもよいから」天水桶を置くことをもとめる触れを出している。江戸中期から、伊丹や灘(いずれも兵庫県)で生産された樽入りの「下り酒」が樽廻船ではこばれていた。その樽を防火用に活用しようと幕府の役人が思いついたらしい。
社寺にははじめ青銅製の蓮花形の天水鉢が置かれたが、その後、江戸の町で酒樽が置かれるようになると、同じ形で丈夫な鋳鉄の天水鉢を寺社に奉納することが流行したという。(中野俊雄「鋳造工学 第76巻」2004)
すぐ近くの湯島聖堂の真っ黒な建物の前にも巨大な天水桶があった。
「八百屋のお七」の罪を救うお地蔵さん
銀杏並木の中山道(国道17号)をたどり東大の赤門を過ぎ、樋口一葉が幼いころ隣に住んでいたという法真寺を経て大円寺に立ち寄った。
ほうろく(豆やごまなどを炒る素焼の平たい土鍋)をかぶった地蔵は、八百屋お七を供養するために1719年にたてられた。
大円寺は、3500人が亡くなったという天和の大火(1683年)の火元だ。
八百屋の娘のお七はこの大火で焼け出され、避難先の寺で小姓と恋仲となる。自宅にもどったお七は、再び火事になれば小姓に会えるかもしれないと思いこんで自宅に放火し、火あぶりの刑に処せられた。
この地蔵は、お七の罪業を救うため、熱したほうろくをかぶって灼熱の苦しみを受けている。首から上の病気平癒に霊験があるという。祠の前には願いを記したほうろくが数十枚も積み重ねられている。隣には庚申塔と不動明王も。
中山道の反対側の路地にある円乗寺にはお七の墓がある。お七の百十三回忌にあたる1793年に建立された。
「おばあちゃんの原宿」の中心は地蔵と庚申
40分ほど歩くと「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる「巣鴨地蔵通り商店街」だ。
わずか800メートルほどの旧中山道沿いに、だんごや大福、脱ぎ着しやすいずぼんや下着、モンペ、帽子、漢方薬、「シニア世代がすてきになるビューディーサロン」……お年寄りが喜ぶ店が集積している。
高岩寺「とげぬき地蔵尊」と眞性寺「江戸六地蔵尊」、「巣鴨庚申塚」という3つの信仰スポットがあることが、町のまとまりや落ち着きをかもしだしている。
中山道沿いには「庚申塔」が多い。「庚申」という文字を彫った石塔と「青面金剛」という6本の腕をもつ金剛童子を彫ったものとがある。青面金剛の立像の下には三匹の猿(見ざる言わざる聞かざる)と2羽の鶏を彫ったものが多い。
かつて、60日に1度の庚申の日に、徹夜で健康を祈る「庚申待(こうしんまち)」が全国の農村で催された。人々が集って朝まで飲食を楽しむ行事は農山村の数少ない娯楽だった。庚申待は戦時中の食糧統制でほぼ一斉に消えてしまった。
練馬大根生んだ「たねや街道」 種苗生産の拠点に
この近辺の中山道は種子屋(たねや)街道ともよばれた。地方からの旅人は、めずらしい野菜があると国元で栽培するために種子を入手しようとした。農家が副業でタネをあつかうようになり、明治の中頃には、とげぬき地蔵から板橋区清水町への6キロの間に種問屋が9戸、小売商20戸がならんでいた。練馬大根や滝野川人参、滝野川牛蒡、金町小蕪、三河島菜などの特産の野菜はこの近辺から生まれたという。
沿道には1852年創業の「日本農林社」や1872年創業の「滝野川種苗」といった種苗会社が今も営業している。
「亀の子束子西尾商店」は、亀の子束子を発明した尾正左衛門が1907年に開業した。
歴史を知ると、旧街道沿いにはけっこう見どころがあるものだ。
JR板橋駅前には、新撰組局長の近藤勇の墓がある。
近藤は斬首されて首は京都にもっていかれてさらされ、胴体だけこの場所に埋められた。
1876(明治9)年に永倉新八が発起人になって供養塔をつくり、土方歳三の名前も併記した。隣には永倉の墓もある。
日本橋を早朝出発して、ここまで4時間かかった。(つづく)