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能登2011-24⑱間垣がまもる「奇跡のムラ」 上大沢と大沢(輪島市)

 能登半島の外浦(日本海側)にかつて見られたニガタケの垣根「間垣」は、サッシの普及などで大半が姿を消した。だが「最後の秘境」とよばれた旧西保村(輪島市)の上大沢と大沢では今も独特の景観がのこる。なかでも、22軒の家が間垣にかこまれている上大沢は、周囲の深刻な過疎にもかかわらず、家の数が百年来変化しない「奇跡のムラ」という。間垣にはムラをまもる力があるのだろうか。

突風ふきすさぶ「風の都」

2014年

 輪島市中心部から断崖がつづく海岸線を西へ15キロ。東西を崖にはさまれた入り江の奥に延長500メートルの半円形の間垣にかこまれた上大沢集落がある。
 北北西の海にむかってひらけた集落には、日本海にせりだす東西の崖にあたって増幅された北西季節風が吹きつける。台風なみの風で波しぶきが霧のようにたちあがる冬の日、集落に一歩はいると、軒下の干し柿が微風でわずかにゆれていた。
 橋本忠明さん(72)が約2キロ山側の小学校にかよっていたころ、下校時には集落の手前約20メートルの岩陰にかくれ、風が弱まる瞬間をみはからって間垣にかけこんだ。
「山側は風がないのにこの部落だけおそろしい風が吹く。間垣にはいると風がとまり気温もちがう。ホッとしたもんよ」
 住民はみずからの集落を「風の都」とよぶ。

冬、イワノリをつくる橋本さん夫妻=2013年

海山の幸と団結力をほこる最果ての秘境

 上大沢のある旧西保村(1954年の合併で輪島市)は、1960年まで徒歩でしかたどりつけず、「石川県でただひとつ自動車のとおらない町」と随筆にしるされた。役場のある3キロ東の大沢地区にバスがきたのは1961年で、上大沢までのびたのはその15年後だった。70年代の観光ガイドは西保地区を「最後の秘境」と紹介した。
 秘境の村のそのまた端にある上大沢はしかし、村内ではゆたかな集落だった。
 1軒あたり6、7反の田にくわえ、山をひらいた「ノウ」とよぶ畑で大麦をそだてた。初夏は暗くなるまで、浜で麦をハザ干しする作業におわれた。海では「カツオ」とよぶクロマグロの子がとれ、ゆでてからワラで軒下につって乾燥させ、なまり節のように加工した。マグロが不漁になるとイワシやタチウオがとれた。トコロテンをつくるエゴやイワノリなどの海藻は今も貴重な収入源だ。60年代半ばに出稼ぎが増えるまでは、海と山の幸で生計をたててきた。

トコロテンをつくるエゴのゴミをとる=2011年5月

 抜群の団結力も上大沢の特徴だ。
 山の水をパイプで大型タンクにあつめて家々に給水する施設を1970年代に独力で整備した。植林で山の湧き水が減ると負担金をだしあって2005年に上水道をもうけた。
 バス路線延伸を求めて北陸鉄道や県に集落総出で陳情にかよい、通勤・通学・通院での利用者数の見込みを計算して交渉し1975年ごろに実現させた。耕地整理も旧西保村でもっともはやかった。選挙ではこぞって保守系候補を応援し、各種の陳情で議員につきそってもらった。
「選挙で応援するかわりに部落に協力してくれって感じで、昔の人は気概があったわいね」と橋本さん。
「昔の年寄りが団結して耕地整理や農道整備をしてくれたもんで、つとめながら機械をつかって農作業ができる。だから若いもんももどってくるんだと思います」
 乾燥した間垣にかこまれた集落でなによりこわいのは火事だ。正月の寄合の区長の第一声は「今年はまず第一に火の用心を心がけてください」ときまっている。
 10年前までは、子ども5、6人が拍子木をたたき、「火の用心」とさけんで、夕食のにおいがただよう集落を夜回りしていた。
「ずっと昔から2月の祭りの日に防火機器を点検してるし、花火も風のある日はやらせん。心ひとつにして火事に気をつけてきた。団結力が間垣のおかげかどうかは知らんが、間垣なしに生きてこられなかったのはたしかや」
 志礼義光区長(64)はかたった。

輪島塗のアラカタづくり、消滅

雪の大沢=2014年

 上大沢から3キロ東の大沢には、海岸線に約800メートルの間垣がつらなる。今は乾燥させたニガタケをつかうが、海岸道路が整備されるまでは葉のついた青竹をさしていた。緑の葉のあいだに巣をつくるスズメを、子どもたちは漁網でつくったタモ網でつかまえてあそんだ。
 藩政時代、大沢には「十村(とむら)」とよばれる大庄屋がおり、近隣の産物があつまった。1954年の合併で輪島市になるまでは西保村の役場があった。
 大沢は、輪島塗の椀木地の材料となるケヤキのアラカタ(木地の原型)の産地だった。

桶滝=2013年

 大沢の集落のちょっと上にある桶滝は、桶の底が抜けたように、岩窟の天井に空いた穴から大量の水がおちている。ここには全国に分布する「椀貸し」伝説がつたわっている。 
 倶利伽羅峠のたたかいで木曽義仲に敗れた平家の武士がにげてきて、桶滝川の上流のこもり穴にすみつき、椀などをつくって大沢の村人にかしていた。ところがある村人がかりた椀をかえさなかった。すると落人は消え、こもり穴には虚空蔵菩薩木像がのこされていた。村人はこれを供養し、以後、椀型(アラカタ)をつくるようになった−−。
 能登半島各地で伐採したケヤキが船で大沢にはこばれ、器の大きさに切断して内側をくりぬく。天井にしいた竹のすのこにならべて、いろりの火で3カ月間いぶし、輪島に出荷した。最盛期は約100軒のほぼすべてが冬場の賃仕事にしていた。
 大沢地区唯一の旅館を経営する田中輝夫さん(72)の家は、輪島からの車道が開通する1960年ごろまで海運業をいとなみ、海が荒れる冬はアラカタづくりや農作業にたずさわった。
 若いころ、仕事が少ない冬は夜ごとに家々をわたり歩いて囲碁や麻雀をたのしみ、時に演芸会もひらいた。イワシの刺し網漁がさかんだった1950年代までは、どの家でもコンカ漬け(糠漬け)をつくり、いしる(魚醤)づくりもさかんだった。
 だが高度経済成長で出稼ぎが増え、テレビが普及すると雰囲気は一変する。囲碁や演芸会をたのしんでいた若者はテレビに釘づけになり交流が減った。アラカタも、ほかの産地との価格競争で衰退した。
 アラカタ1個が10円。これをロクロでひいて椀木地になると100円、漆を塗ると1000円、蒔絵(まきえ)をほどこすと1万円……と、10倍ずつになるといわれていた。市議会議員だった田中さんは輪島商工会議所の会頭だった漆器会社長にうったえた。
「アラカタづくりは、山から木を切って、手ではつって、一番苦しいのに二束三文にしかならん。下にも利益がいくようにしないと原材料をつくるものがおらんがになって大変なことになりますよ」
「利益をもとめるのが優先や。安いものをいれるのはあたりまえや」と相手にされなかった。
 大沢のアラカタづくりは2000年に最後の1軒が廃業、輪島塗のアラカタは市外の業者から仕入れるようになった。
「利益がもう少しあれば、機械に投資して生き残れた。目先の利益で伝統文化がうしなわれてしまいました」

右がアラカタ、左が椀木地=2011年

風うけとめる「待ちの文化」の象徴

2015年
NHK連続テレビ小説「まれ」で外浦村役場となった建物。今はもうない=2015年

 耕作放棄地が増え、田畑の法面にしげっていたニガタケはやぶにおおわれた。はしごをのぼって間垣のニガタケをさしかえる作業は高齢者にはきつい。間垣保存のための市の補助金も年々けずられ、1戸あたり年2000円程度しかない。10年ほど前から、製材所ででる端材をつかった簡易型間垣やブロック塀にする家が増えてきた。間垣がある20軒のうち、みずから作業できるのは9軒だけになった。
 田中さんらが危機感をつのらせていた2011年秋、金沢大学の学生4人が間垣の補修を手伝いにおとずれた。翌年は15人がひとり暮らしの高齢者宅2軒の作業をてつだった。休耕田にニガタケをうえる実験もはじめた。
 間垣からブロック塀に転換した田中さんの近所の家は、塀にあたる北風が垂直にふきあげて屋根瓦をこわし、夏は塀が熱をおびて暑くてたまらなくなった。そこで、塀の外に間垣を再生したら、いくぶん涼しくなった。
「間垣のよさはわかっているけど、年寄りには維持できなかった。毎年学生さんが来てくれるかたちができれば存続していけるかも。ちょっと希望が見えてきました」
 元輪島キリコ会館館長の藤平朝雄さん(73)は10年ほど前、輪島市町野町の海岸沿いの自宅の庭に間垣をこしらえた。すると、冬の猛烈な季節風で庭に吹きだまっていた大量のごみが消えた。湿気や塩気を吸収し、波音をしずめ、夏の西日もふせいでくれた。
 さらに上大沢では、集落あげての火災をふせぐとりくみが「風の絆」をはぐくんでいたことにも気づいた。
「風をシャットアウトするのではなくやさしくうけとめ、うけいれる姿勢は、ボラ待ちやぐらにもつながる能登の『待ち』の文化の象徴です。間垣がなくなればその心もうしなわれる。逆に知恵をよせあって間垣をまもり復活することが、能登の美しい心をはぐくむことにつながると思います」

2024年、孤立のムラにかようおばあさん「山いけば自由、海くれば自由!」

冬の男女滝=2014年2月
夏の男女滝=2014年7月

 能登半島地震から5カ月後の2024年5月末、上大沢と大沢をたずねることにした。平時は輪島市街から車で20分ほどだが、海沿いの県道は復旧していない。山側の峠道を迂回する。輪島から1時間かけて峠を越え、しばらくくだると、見おぼえのある男女(なめ)滝にでた。羽衣のようになめらかな水がウォータースライダーのようにながれ、夏休みには子どもたちのかっこうの遊び場だった。
 川沿いにちょっとくだった道沿いに、小さな商店がある。
 2014年にサイクリングでおとずれた際、なぜ山のなかに? と不思議に思って取材させてもらった。

2014年7月

 菓子パンや酒から洗剤までならんでいる。店主の武田美恵子さん(1948年生まれ)の祖母が80年前にひらいたという。
 昔は男女滝の下に小学校があり、駄菓子や鮮魚、豆腐もあつかった。だが2000年ごろ問屋がこなくなり、商品は宅配便で仕入れるようになり、ナマモノはあつかえなくなった。結婚式も葬式も自宅でやらなくなり、酒の売り上げは10分の1に減った。
「うちで買わんでいいから、安いのを町で買うてらし(買っておいで)」
 武田さんは近所のお年寄りにそう声をかけていた。
「赤字でやめようかとも思うけど、うちがなければ醬油1本買うのも輪島にいかんといけん。世間話をしにくるお年寄りもおるしねぇ」
 1キロ下流の上大沢も、旧西保村役場のあった大沢も商店がなくなった。2014年当時、兵庫県伊丹市と同じ広さの旧西保村で、食品や雑貨がそろう唯一の店になっていた。店は、10年後の能登半島地震直前まで営業をつづけていた。
 今は人の気配がない武田さんの店の前を通過してちょっとくだると、谷間に田んぼがひろがり、上大沢の集落にはいった。隆起していない半分ほどの田には水がはられ、苗が風にそよいでいる。上大沢は水道も電気も復旧していないが、避難先から住民がかよって作業しているのだ。
 間垣のあいだから、電動シニアカーにのったおばあさんが2人あらわれた。徳光しさのさん(85)と河上てるこさん(84)。ふたりとも笑顔がとろけるようにかわいい。避難先の金沢から3、4日に1度、子や孫につれてきてもらっているそうだ。
「若いもんらは仕事がないさけ、もどってくるかわからんけど、不便でもやっぱり生まれそだったところはええ。わたい(私)らは80、90になるさけ、もういっとき(一時)やと思うさけね」
「自由をしたいさけね。山いけば自由、海くれば自由、うちにおっても自由やさけー、それで、もどってくるんよ。わたいらもいいし、嫁さんたちもいいだろうしね」
 2人は満面の笑顔をのこして田んぼにむかった。

隆起で海底が露出「最後のノリやね」


港の半分以上が陸になってしまった

 海沿いを東へ2キロ走って大沢の集落にはいった。漁港は隆起によって白い海底をさらしている。西保公民館の手前の川沿いにはオレンジ色の水槽が設置され、きれいな水がたまっている。水道が復旧しないから、山の湧き水をためているのだ。
そのわきで、河原満枝さん(76)さんはイワノリをつくる簾(す)を洗っていた。
「海底がまっしろにかわいてしもうて、もうたぶんノリはつくれん。年末につくったのが最後のノリやね」
 上田哲夫さん(77)は自宅のある京都からきて、実家に2週間泊まって、たおれた墓石などを修理している。
「キンキラキンで龍の絵をほどこした仏壇とお墓を600万円かけてつくったばかりやのに……。大きな仏壇は京都の家にはもっていけんし、もったいないねぇ。電気も水道もまだこない。住民があきらめるのを待ってるんじゃないかって思っちゃうよ。大沢は昔は100軒あったけど、20軒か30軒に減るんじゃなかろうか」

 港では河原源作さん(79)が漁船の状態をしらべていた。隆起して海底をさらす漁港から舟をだす準備をするため、輪島の仮設住宅からきたという。
「魚をとって、生魚をくって晩酌してぇ。きょうはなんとか舟を海にうかべるつもりなんや」
 照れ笑いをうかべながら愛船「第二源翔丸」の舳先をたたいた。

潮が一気にひいた「すわ大津波か」

 元日は子や孫が7人もあつまっていた。
「今晩はどんなごっつぉ(ごちそう)にしようか」……と話していたらグラッとゆれた。
「震度5」とテレビにテロップがながれた。
「なんともねーわねー」と笑っていたら、ドカーン、ダーンという轟音がひびいた。足がうごかない。隣にいた20歳の孫娘の頭を必死になってかかえた。
「津波がくるぞー!」
 揺れがおさまると叫び声がきこえる。
 山の上に避難して海をふりかえると、ズアーッと音をたてて、潮がわずか5、6秒で一気にひいていく。とんでもない大津波かと思った。隆起だとわかったのはだいぶあとのことだ。
 大沢では2軒が全壊したが、死者やけが人はなかった。
 ふだんは60世帯100人余りだが元日は150人以上いた。公民館には約50人が避難してきた。窓がわれて冷たい風がふきこむなか体を横たえた。震度5前後の余震がつづき、そのたびにキャーという悲鳴があがる。ほとんど一睡もできず、睡眠不足で体調をくずす人もでてきた。
 正月の餅などをみんなでわけあったが、3日ほどで食べ物はつきた。5日からヘリが食糧をはこんでくれるようになった。携帯電話はつながらない。一部の漁船が装備していた衛生電話だけが外界との連絡手段だった。 
 1月11日、公民館のグランドにヘリコプターが着陸し、6人ずつ輪島市のマリンタウンまではこばれ、河原さんは山代温泉(加賀市)の温泉旅館に避難した。

水平線をみると、気持ちがすーっとなる

 2カ月半の旅館暮らしでは、運動不足にならないよう、毎日7階まで階段を上下した。でも、肩や腰、足に痛みがでて、手が上にあがらなくなる。筋肉がおちて重い荷物がもてなくなった。
 4月はじめに輪島の仮設住宅に入居したあとは、毎日のように大沢にかよっている。昔から漁業も大工も米づくりも林業もこなしてきた。大沢で力仕事を再開して1カ月をへて、ようやく重いものをもてるようになってきたという。
「温泉旅館なんて1泊か2泊して酒のんでさわぐところよ。長くいるもんじゃねぇ。大沢にかえってきて、水平線をみてると気持ちがすーっとなる。仮設なんかにいると頭のなかがモヤモヤしちゃってね。やっぱ、海がええわぁ」
「家を解体してどっかに行くっていう人もおる。若いもんはおっても仕事がないもんね。60世帯あったけど、30世帯のこるかなぁ。オレは、家は半壊でかたむいているけど、80年間すんでるんやし、つぶれるまですみますわ」
 そう言って、「第二源翔丸」を点検しはじめた。

海底をみせる漁港に舟をうかべにきた河原さん

 旧西保村 上大沢・大沢など7字で構成し1954年の合併で輪島市の一部になった。1950年に320戸1922人だったのが2012年12月は260世帯665人。うち上大沢は22世帯67人(高齢化率51%)、大沢は88世帯202人(同50%)。
 2020年の国勢調査では、西保地区は196世帯435人になり、上大沢は20世帯47人、大沢は57世帯126人だった。
 上大沢はもとは100戸以上の集落だったが、住民の大半が北海道に移住したとつたえられている。集落のしきたりとして分家をきびしく制限してきたため、明治以来戸数はほとんどかわらない。
 間垣は昭和30年代までは、能登半島先端から志賀町にいたる外浦全域に見られた。40年代には北西部の七海や皆月、50年代以降は上大沢・大沢にかぎられるようになった。大半はコンクリートやブロック塀にかわっている。

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