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能登2011-24山が崩れ9人犠牲に 珠洲・仁江を再訪

 海藻の取材をした珠洲市仁江町は、能登半島地震で山が崩落し、直下にあった民家で正月をすごしていた9人が亡くなった。
 2024年2月、海沿いの国道249号は寸断されているから、山のなかの小道をたどって日本海側にでた。「道の駅すず塩田村」にも、国の重要無形民俗文化財に指定された角花家の塩田にも人影がない。地震による隆起で海岸線は100メートルちかく後退している。これでは塩田に海水をくみあげるのは大変だろう。
 角花さんの塩田から西へ約300メートルあるくと、緑の山と日本海の岩礁海岸にはさまれた仁江の集落だ。崩落した山は尾根からふもとまで茶色い地肌をさらしている。
 波音にまざって、冷たい風がビュービューとうなりをあげる。その音は、大地の泣き声のようだった。

2014年の仁江
2024年5月の仁江

長期避難の仁江、集会所に泊まり畑づくり

 3カ月後の5月なかば、仁江を再訪した。
 途中の塩田の小屋からは海水を煮つめる煙があがっている。角花さんの塩田も整地されている。なんとか復活できるようだ。
 仁江地区は全23世帯が被災者生活再建支援法にもとづく「長期避難世帯」に認定され、土砂災害の対策工事が終わるまで2、3年は集落にすめないことになった。
 集会所にいた南仁(ひとし)さん(64)に皆戸さんの消息をたずねると、地震までは自宅にいたが、今は夫婦とも施設にはっているという。
 まもなく、目つきがするどいスキンヘッドの男がやって来た。
「こいつは仁江の反社会勢力や」
 南さんがそう評したのは浦幸栄(こうえい)さん(58)。地震後に白山市にたてた家からかよってきている。
 この日は3人が集会所に泊まり、家をかたづけたり、芋を植えたり、ワカメをとったりしている。
 集会所で2人の話をきいた。

暗闇のがれきで赤ちゃんを抱きあげた

 2024年元日の午後4時すぎ、地震後に外にでて海を見ると、一気に水がひき、海底が沖まであらわになっていった。
「でっかい津波がくるぞ」
 住民たちは一目散に高台の避難場所に逃げた。その途中、山が大きく崩れて民家をおしつぶしているのが見えた。
 その家はふだんは4人暮らしだが、親族8人が帰省していた。警察官の男性は最初の地震がおきて仕事にいくために屋外にでた。直後に本震がおそい、彼の目の前で11人が生き埋めになった。
 現場にかけつけた若者たちは「なにをしていいかわからん……」とたちつくした。
「なにやっとるんや! 屋根の瓦を全部はがせ!」
 浦さんはさけび、つぶれた屋根によじのぼった。若者たちも瓦をはがして、板をめくるが、そこで動きがとまる。
「いつまで板をもってるつもりや! こうするんや!」
 浦さんは怒鳴って、足でバキバキと板を踏み割っていく。
 ヘルメットがないからニット帽をかぶり、屋根上にあいた穴から、真っ暗な家のなかにとびこんだ。がれきの下からきこえる声をたよりに捜索する。
 断続的に余震がつづく。
「ただいまぁ、震度5の地震が発生しました……気をつけてください」
 のんびりした調子で防災無線がひびく。
「声をたよりにさがしてるのに。やかましい、だまれや!」
 がれきの外にいる4歳上の先輩は余震のたびに「おーい、揺れるぞ、でかいぞ」「気をつけろ」と声をかけてくれた。
 浦さんは最初にみつけた男性をだきあげたが、意識はなく唇は紫色になっていた。
 まだ下から声がきこえる。
 電灯をがれきのなかにいれて、グルリとまわす。
「この光が見えたら声をだせ!」
「見えた!」
 声がした方向をさがす。
 午後8時すぎ、浦さんは倒壊した家の真っ暗な空間で生後2カ月の赤ちゃんを抱きあげた。
「この子をはじめて抱っこするのががれきのなかかぁー」
 いっしょに救出された父親はあとで浦さんに言った。
「(余震が)かなりでかいぞ、って声がきこえて、みんな逃げるんやと思った。なのにオーイと声がした。……津波警報がでて、もう流されて死ぬんやって思ったら、幸栄(こうえい)の声がきこえたんや」
 翌1月2日午前11時すぎには家の主人の中谷六男さん(88歳)が救出された。
「ありがとうな、ありがとうな」
 手をあわせる六男さんに浦さんはこたえた。
「元気になってから言え!」
 だが六男さんは自衛隊のヘリで搬送中に亡くなった。
 3日の晩まで集落の人たちだけで捜索し。4日以降は自衛隊にひきついだ。9人が亡くなった。
 元日の晩、輪島市方面があかるかった。
「ここは停電やのに、なんで輪島は電気ついとるんや」と思った。まるでプラネタリウムのような、見たことがないほど美しい星空だった。なのに、がれきのなかでのことは断片的にしかおぼえていない。
「一番おぼえているはずのことをおぼえてない。人間は本当につらいことは忘れるんかなぁ」

アワビ食べ放題の避難生活

9日間の食事にはサザエがしばしば登場。南さんと浦さん

 元日の夜の捜索後、浦さんは若者たちに「みんなを集会所にあつめろ」と命じた。70人ほどがつめかけて集会所はいっぱいになった。
 安否を確認するため、まず名簿をつくった。中学教諭をしている南さんの息子が住民のLINEグループ「仁江町LINE集会所」をつくりスマホがない高齢者は子どもの番号を登録した。これがバラバラに避難したあとの住民のつながりをたもつ手段になった。
 3日の晩までは50人ほどが寝泊まりしていた。
 当初は湧き水を焼酎のペットボトルでくんできたが、それではたりず、「道の駅すず塩田村」にあった20リットルのポリタンクをもってきて、炊事や便所につかった。
 捜索を自衛隊にひきついだあとは、昼間は自宅の片付けなどの作業をする。
 隆起した海岸ではサザエやアワビがとり放題だ。南さんは日ごろから素潜りをしていたから、アワビのいる場所を知っている。岩にはりついたアワビを毎日50個から100個もとった。
 アワビごはんやサザエごはんがつづくと、調理する女性たちの表情はしだいにけわしくなり、「殻をとって身だけだせ!」と言う。それでもとりつづけると
「もうとってくんな。見たくもない!」
 なのに男たちは海にいくと、ついついバケツいっぱいとってしまう。
「母ちゃんたちにみっかんなよ。おこられっさかい」
 女性の目をぬすんで、夜中に薪ストーブのまわりにあつまり、鍋で煮たり壺焼きにしたりして酒をのんだ。
 1月9日、土砂災害の危険があるため、集会所にいた20人余りは大谷小中学校へ避難した。20日すぎには親類の家や富山などのホテルに二次避難した。

24時間つづく酒盛り、飲むたびにけんか

 仁江は半農半漁のムラだ。春はワカメがおいしい。6月になるとサザエやアワビの素潜りだ。山では、フキやウド、ワラビなどの山菜がとれる。過疎の奥能登ではめずらしく、子どもの数も多かった。
「当時30軒しかなかったのに、オレは同級生が6人もおった。仁江は豊かでいいところげんて」と南さん。
 昔から男たちはことあるごとに酒宴をひらいてきた。10月の秋祭りには子や孫も帰省してキリコをかつぐ。まずは神社の正面にある南さん宅でのみ、次は隣家にうつり、さらに別の家へいき……「朝まで」どころか翌日の晩まで飲みつづける。
 けんかっぱやいのも仁江の特徴だ。集落の会合や祭りで飲むと、2回に1回はとっくみあいになる。でも翌朝は目のまわりを腫らしながら「おはよー」とあいさつをかわす。
 輪島市の海士地区の漁師は気性の荒さで知られ、輪島にやくざが少ないのは海士の漁師がいるからだ、ともいわれている。その海士の漁師が仁江の秋祭りをひやかしにきて、しばしば大げんかになった。
「わしら、海士なんてこわないわ。いつもどつきあいしとった、なぁ! 反社会!」
 南さんが浦さんの肩をバシンとたたいた。

集会所を「家」に 簡易水道を手作り

下が500リットル、上が200リットルの水タンク

 二次避難で住民はバラバラになってしまったが、多くの人たちが「水道さえくれば帰れるのに」と口にしていた。地元に恩返しをするため、浦さんは自費で井戸を掘ろうと思いたった。市役所は「試験掘りをする」と約束してくれた。だが、その約束ははたされず、井戸計画は頓挫した。
 せめて集会所を快適につかえるようにしたい。20リットルのポリタンクでトイレの水をはこぶのはめんどうだ。
 50メートル先の側溝からホースで水を引き、集会所前に設置した500リットルの水タンクにためる。その上においた200リットルのタンクまでポンプで水をあげ、トイレや台所に水を供給できるようにした。6月にはボランティアが浄水器をつけてくれることになった。
「家にすめないんだから集会所がみんなの家や。今ここでできることをひとつずつやっていく。集会所ですめるがにすれば、みんな帰ってこれる。ここに泊まって酒をのめば、祭りをやるかって気になれるかもしれんしね」

車がとおるときは、ホースを着脱できるようにした

地元の人はあたたかい

 浦さんは、亡くなった中谷さん一家の遠縁にあたり、家族同然のつきあいをしていた。六男さんは浦さんを息子のようにかわいがってくれた。
 小学生のときからサザエ網の漁を手伝い、中学生になると朝5時から定置網の作業をして、カワハギの皮をむいた。ワカメの雌株やサザエがおやつだった。
「おれといっしょに漁師をせーっ」と六男さん。
「イヤじゃ」
「漁師がいやなら学校いけー」
「勉強なんてイヤじゃ! 学校って(名前が)つけばどこでもええんか?」
「どこでもええ」
「そんなら自動車学校行くわ!」……
 そんなやりとりを今も鮮明に思いだすという。
 
 元日の夜、危険ながれきのなかに浦さんはまっさきに飛びこんだ。ニット帽をかぶった頭は傷だらけになっていた。
「おまえはよーやったな」と集落の人たちは言ってくれる。
「そうじゃない。たまたまそこにいたなかでオレが一番ジジーやし、半分人生終わってっからやっただけや。地元の人はあったかい。みんなが手伝ってくれた。ほんとにみんなのおかげやわ」
「……それにオレが死んだって、うちの母ちゃんが喜ぶだけやしな」
 南さんは隣で笑いながら大きくうなずいた。
「そこだけうなずくなっ!」
 スキンヘッドの浦さんは吠えた。

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