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飛騨高山に1週間住んでみた④さるぼぼは古い都の習慣?

さるぼぼと身代わり申

 高山はサルをかたどった布製の人形「さるぼぼ」だらけ。土産物屋には「さるぼぼ」グッズがならび、お堂にもつるされている。「ぼぼ」とは飛騨の方言で赤ん坊という意味らしい。
 JR高山駅から徒歩5分の飛騨国分寺は、室町時代の本堂などが国の重要文化財だ。その門前の庚申堂の横に「願掛けなでさるぼぼ」という石像(2007年設置)があり、古いさるぼぼが無数にそなえられている。
 さるぼぼは、関西や小浜(福井県)などでみてきた「身代り申」や「くくり猿」とそっくりだ。

 京都・東山の「八坂庚申堂」には、お堂の周囲にカラフルな「くくり猿」が、巨大なぶどう棚のように無数につるされている。「日本最古の庚申堂」と称している。

 大阪の四天王寺ちかくの庚申堂は「青面金剛童子」という青いのぼりがひるがえり、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿をあしらった碑がいくつもたっている。ここも「庚申堂の発祥の地」と称している。

 奈良の旧市街・奈良町では、民家の軒先に「身代わり申」がつるされ、庚申堂が町のあちこちにある。「奈良町資料館」の館長さんは「四天王寺や京都も最古をなのってますが、ここの元興寺は奈良時代です……」と笑っていた。
 中国の道教では、人の身には三尸(さんし)という虫がすんでおり、60日に一度の庚申の夜、ねむっているあいだにこっそり体からぬけだしてその人の行状を天帝に報告し、それに応じて天帝が人の寿命をちぢめるとされる。だから庚申の夜はみんなでねむらずにすごした。いつしか「庚申待」「庚申講」とよばれる徹夜の宴は庶民の娯楽になった。

奈良時代に遣唐使がもちかえった人形?

国分寺。この造形は「さるぼぼ」というより「身代わり猿」

 国分寺には「庚申堂」もあるし、さるぼぼも庚申信仰だとおもったが、微妙にちがうらしい。
 源流はいずれも、室町時代の「天児(あまがつ)」という人形だという。奈良時代に遣唐使がもちかえったという説もあるそうだ。竹筒を丁字に組み合わせ、上に丸い首をのせた人形だ。公家の出産時に赤ちゃんのそばにおいて、災いが赤ちゃんにうつらないようにした。この風習が江戸時代に庶民にひろまり、同様の人形「這子(はうこ)」がうまれて飛騨にもつたわった。
 這子は明治になるとすたれたが、山深い飛騨では、市販の人形を買えなかったこともあって子どものお守りとしてのこり、さるぼぼに転じたという。

観光でも人気(下呂温泉)

 柳田国男は、京都を中心として文化が時間をかけて伝播し、中央から遠い地方に古い都の文化がのこっている、という説をとなえた。奈良時代の「天児」を「さるぼぼ」がうけついでいるとしたら、柳田の「方言周圏論」を裏づけるのかもしれない。
「さるぼぼ」と庚申信仰とは直接のつながりはないはずだが、国分寺の庚申堂以外にも、高山にはいくつか庚申信仰のなごりがある。高山城跡の城山には「庚申講」の碑があり、「見ざる言わざる聞かざる」がきざまれていた。

 さるぼぼが、本格的におみやげとしてならぶようになったのは1978年ごろ、土産物用の絵葉書などを製作していた「オリジナル観光出版」が、「飛騨のさるぼぼ」という商品を発売したのがはじまりだという。

渡来の技術者集団・木地師の墓

 高山の東側の山際には寺が軒をつらねている。約4キロの東山遊歩道はこれらの寺をめぐることができる。

 なかでも宗猷寺には、幕末に活躍した山岡鉄舟の父母の墓があり、寺の裏山には「木地師集団墓地」がある。木地師は定住地をもたず山をあるいて暮らしていた人々だ。その集団墓地はめずらしい。木地師の姓である小椋という文字もみえる。もっとも古い墓は1711年にたてられた。この寺は、江戸時代の寺請制で木地師の菩提寺になっていたのだ。
 山の民である木地屋もまた、「未開の原住民」ではなく、高度な技術をもつ渡来人の子孫だった。
 奈良時代は大寺院の建築にかりだされ、平安になって寺の規模が小さくなったことで、民衆の日常生活用具をつくるようになった、と宮本常一は推測する。木地師が民衆の食器をつくるようになったから、平安時代は漆器が主流になり、土器の出土が急減するのだと論じた。
 さるぼぼだけでなく、木地師もまた古代からの「中央」とのつながりをしめす存在だった。木地師と「飛騨匠」もどこかでつながるのかもしれない。

秋葉様は遠州から

 高山の町のあちこちに60カ所をこえる「秋葉様」のお堂がまつられている。
 秋葉信仰の拠点は静岡県浜松市天竜区春野町の秋葉山だ。明治の廃仏毀釈の影響で、山上の本宮秋葉神社とふもとの秋葉寺のふたつにわかれてしまった。寺側のホームページは「現在秋葉山の頂上付近にある秋葉神社は、明治6年の神仏分離令の混乱期に乗じてつくられたもので、当山の火防の霊験とは無関係の宗教施設であることは明らかである」としるしている。
 秋葉山のある遠州から北へ、中央構造線に沿って北上する「秋葉街道」は参詣者がたどったが、秋葉信仰成立以前の縄文時代から海の塩を信州にはこぶ「塩の道」だった。秋葉寺の火祭りの湯立て神楽の湯には1942年まで塩水がつかわれていたという。
 秋葉信仰は以前から関心があったが、飛騨にまでその信仰がひろまっているとは知らなかった。
 高山は江戸時代、何度も大火にみまわれたたため、「火伏せの神」である秋葉信仰がひろがった。天保3(1832)年に秋葉講が結成され、火消しの用具や装束、纏などが制作されたという。
 信仰もまた、奈良や京都といった「中央」だけでなく、さまざまな地域の文化や信仰がながれこむことで高山の町並みや文化ができてきたことがわかって興味深い。(つづく)

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