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白寿の祝い

「梅雨を過ぎてグズグズしている内に、いつの間にか季節をひとつ越してしまった。その間に僕は川で遊んだりフェスに行ったりiPhoneの機種変更をしたりした。どれもかけがえのない思い出だが、写真を見返さないと思い出せない辺り思い入れの程度が知れているなと思う。」

 この文章を出だしに一つの形を作ろうと保存して取っておいていたのだが、気乗りがしないのを言い訳にずっと放置をしていたら、またいくつかの季節を通り過ぎてしまった。年を重ね、元号が変わり、二〇二〇年になった。あれほど遠い未来だと思われていた二〇二〇年も、いざなってみると今までの積み重ねと日々の延長線上にあるものとしか捉えられず、その響きの未来感を時折仕事上で必要書類に記載するときにかすかに感じる程度になった。

 移ろっていく木々の先っ端の変化を、付いている時ではなく落ちて隅にまとまったものを目の端で追いながらも、複雑な気候に惑わされつつも、変わっているようで何も変わっていない現状と、目の前のことを賑やかで粘り気のある甘い関係性の中で慰めながら、穏やかな生活を消費し人間としての尊厳をなおざりにしながら追ってっている。

 うちの部屋にはカーテンがない。引っ越した際に寸法を測るのをめんどくさがってそのままにしているのだが、外の様子がわからないこの切り取られた空間の中で、じわじわと蝕まれている何かに気づかないようにして生活している。ミニマリストとは程遠い部屋だが、モノのあふれたこの1LDKの城の中にいる時間をとても愛おしく思っている。そして雨戸の閉め切った部屋の中で、端末ひとつで繋がっている世界が、今のどんな関係性の中でも際立ってリアルとなっている。


 土曜の夜に実家に帰省した。日曜に祖母の白寿の誕生祝のためであった。実はもう少し余裕をもって帰省する予定で午前中を過ごしていたのだが、思わぬ誘いに絆され「夜遅くなります」と母に連絡し、夕食をごちそうになったり、慣れぬ駅の乗り間違えを重ねた結果、深夜の帰宅になった。兄弟がそろう予定で、食卓を囲むのも久々だったが、足並みがそろわないのも近年の自分の自堕落な感覚のせいである。「牛丼でした。いただきまーす」とだけ母から家族ラインで連絡が来ていた。


 祖母は心の中で九十八歳だと思っていたのだが、「白寿」のプレートを見たときに一年思い違いをしていたことに気づいた。百から一の字画を抜いて白寿。確かこの言葉を知ったのは小学校の教科書だったように思う。当時は言葉遊びの面で面白いと思う程度だったが、身の回りに現れるとは夢にも思っていなかった。どこか白寿という響きに箔を感じている。

 母が「せっかくの誕生日だから」と海外のSNSで見たとされる9のかたどったものとハッピーバースデーが書かれた金色の風船と、誕生日おめでとうのフェルトの垂れ幕を用意していた。写真写りのよさそうな小道具たちのことは前々から母から相談されていたのだが、探しておくよの一言で満足してすっかり忘れていた。同時に少し大げさなのではと感じていたのだが、当日になってみると不思議なもので、まぁいいのかなと思えた。

 家に帰ると家族はみな就寝モードだった。「身ぎれいな格好で」と言われたので僕はタートルネックを着ていった。未だにオフィスカジュアルもあやふやなので心配していたが、兄がトレーナーで着ていてさすがに母に言われたらしく、少し拗ねていたのを見てまぁ大丈夫かなと安堵したのと、大丈夫かなと兄の感覚に不安を感じていたりした。明日の段取りを軽く伝えられ、僕は風呂に入り床に入った。


 翌日は八時頃に目が覚めた。昨晩は一時に就寝したのだが、どこか気が緩んだのか客人用の布団が心地よかったのか、だいぶ寝ていた気がした。ご飯が用意してある朝を久しぶりに味わって、二度寝をした。

 祖母は聡い。老人ホームにいるのだが、未だに週刊誌やら新聞やらを読んでいて時事に強く、僕よりも世間を知っている。終の住処に入った途端ボケが進んでいく周りの人と違い、カーテンの開け閉めの係や手伝いを進んでやっているらしく、入所当時は介護レベル3だったのが、今では2にレベルアップしたらしい。周りの入居者の統括をやっていたり、所内の実情を把握し一人考えたりしていたりと話題は尽きない。さすがに耳は遠くなって会話の行き来もしづらくはなってきたが、切れのある話術はとても年相応には見えない。気づくと一人でしゃべっている。会えばいつも嬉しいと言ってくれたり、嫁の心配をしてくれたりしてくれる祖母の人間らしさに、僕自身のどこかで心の支えになっている。

 介護タクシーの手配ミスなどの不手際な面もありつつも十一時半ごろに家族と母の姉夫婦二組がそろい会食が執り行われた。写真写りのよさそうな風船も飾り、花束を贈呈し、もういない一人息子の写真を入れ忘れた集合写真を撮り、少なそうでボリュームのある食事と、祖母の残した食事を食べて腹を満たした。僕は、世間話もうまくなったなと思った。祖母は時折涙ぐんでいた。

 解散したのち、実家に帰って四時ごろ帰途に就いた。僕は、社交的な会話の節々に見られる影や現実の辛さに、いつまでも若いと思っていても、既にもう子供ではいられない年齢なのだと再確認していた。気持ちの上では二〇代前半の思いを持ちつつも、どこかで見ないようにしていた年齢の数字に、笑いながらもどこかでまた向き合わなければならないと。正直ここ数年に関しては挫けてしまったり白けてしまったり、どこか保てなくなっていた自分をそのままにして過ごしていたのだが、ここ最近の人との触れ合いの中で、灰の中でかすかに残った芯を掬えたように感じていた。山積している問題がなくなるわけではなく、周回遅れの人生の中で、これからおそらく周りの人がやってこれたことが間に合わなくて手に入らないものが、そろそろ目に見えて現れてくるのだと思う。

 きっと予想だにしない様々な風が吹くのだろう。今まで築き上げた風除けも、防風林も少ない。あるもので何とかやっていくしかないし、頼れるものは頼っていかなくてはならない。自分の清濁を感じ、砂の城を壊してなお、新しい風を吹かして、改めていかねばと帰りの道中にふと思った。

 祖母の「体さえ健康であればどこでも生きていける」という言葉を背もたれにして、これからも鈍重な一歩を朗らかに進めたらいいなと、どこかで思いながら駅のホームに佇んでいた。

 ※この記事は2020/2/3にg.o.a.tに投稿したものを再投稿しています。


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