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渦の傍ら

「桜が舞ってるよ」と知り合いから連絡が来るまでは僕は今どの季節にいるかを正確にわかっていなかったように思う。

 普段事務的な連絡手段としてしか用途のない緑のアイコンに久しぶりに赤い数字が付いたのでタップすると、画面の中に桜の花びらが舞っていた。なるほどそういうことか、今の時代桜が舞うのに樹木はいらない。端末ひとつでどこにでも桜が舞うのだ。ある時は雪が降り、ある時には花火が咲く。

 暦の上は春といえどもまだまだ肌寒く、外に出るときは厚手の生地と風を通さない素材の服を着こみながら歩く。この時期の桜はまだ芽吹いていない。形式ばった暦と自然の流れとのズレを感じるちぐはぐな時間の中では画面の上に暦通りに春があった。

 最後に暦を感じたのは年末年始ぐらいで、僕にとってはそんな風情のない桜でも間違いなく唯一の季節感であり、体感では感じられない春を、時計の秒針を合わせるかのように調節してくれた。

 周囲は準備と称して季節感を先取りする。まだ見ぬ華やかさに、気持ちだけ急くようにフィルターを通した定番の季節感を方々に匂わせては、だんだん賑やかになる気配を漂わせる。

 毎年この時期になると気持ちは華やぎながらもどこか不安な気持ちになる。暖かくなったら何かしなければならないという根拠のないざわつきが心の端に現れる。

「今年は花見やるのかな?」誘うことが苦手な僕にとって花見があるかないかは相手次第なのだが、誘いがないならないなりに一人で桜を見に行く。「今年も一人で眺めるようになりそうだな」そんな悠長なことを頭の中で考えながら端末上の桜を眺めた。今年はそれが最後になった。


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 今年の初め頃から猛威を振るい始めたCOVID-19は世界中を席巻した。日本も例に漏れず三月末ごろから影響が出始め、四月から緊急事態宣言が発令。都市部を中心として制限のかかる行動を余儀なくされた。

 連日罹患した人数が報道され、著名人を含め何十人も死者が出た。誰もが何をすればいいのかを模索する中で、中には不安な気持ちを立場の強い人低い人に投げつけ、どうしようもない気持ちを解消するものもいた。

「思っていた2020年と違う」と思う人は少なからずいたように思う。本来は賑やかな年になると踏んで、批判もありながらもそれに備えて日本中が準備をしてきた。しかし被害が広がるにつれて開催を決行しようとしていた様々なイベントが自粛になり、ぎりぎりまで決行することに勇ましかったオリンピックも結局中止になった。

 渦に世間が巻き込まれていくのを尻目に、サラリーマンの僕は仕事柄、自粛とも在宅ともならず出勤を続けた。どこか対岸の火事としてニュースを見ながらこの出来事を眺めるように日々を過ごした。

 あえて影響があったのを挙げれば仕事の関係と、電車の中が空いて通勤が楽になったことぐらい。日常の緊張感が少しほぐれたように感じただけで、自粛の関係で個人店が経営を続けていくことが難しくなり、閉店が相次ぐなか、とてものほほんとした日常を過ごし方を過ごしていた。

 社会的距離という言葉も認知されるようになった。ニメートルの距離感を保ちながら飛沫を相手に飛ばさないような工夫を奨励された。しかし実際と言えば日々SNSで更新されるライフハックを手元の端末で眺めては、自分ではやらないのに、さも距離感を保ったかのように日々を過ごすだけであった。

 僕と言えば、この自粛期間の中でパンを作るようになり、カンパーニュに関しては味はともかく人に見せてもおかしくないぐらいの見た目を拵えるようになったのと、マスクを身に着ける習慣がついたぐらいだった。

 平日はマスクを着けて仕事に向かい、土日は部屋に籠り、普段インドアな生活を「自粛」の体裁を繕いながらパンを作り、絵を描く。幸いにも話す人がいるので一日中黙っていることは少なかったが、傍から見たらどこかうら淋しい雰囲気を感じるかもしれないが、僕はそれで満足だった。同じことの繰り返し。性格や仕事柄もあるが、ルーティンを無事に済ませることができることでどこか「コロナ禍」と呼ばれたこの状況に耐えていたように今では思う。

 ネットを通していろんな人と情報を共有して、所在のない不安な部分を違う形で共有できていたのも大きいのかもしれない。時期は春。新たな出会いが増える季節の中でいろんな人との出会いがあり、知らず知らずの別れがあった。逆に部屋にいたことで、春特有の「得体のしれない不安」を回避できていたように思えた。その点においては世界で起こっていることを無視すれば、自分の世界は平和で凪いだ時期だったように思える。


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 先日、宣言が解除された。四月いっぱいと言われていたが、伸びに伸びて結局はGWを挟み、結局は数年はウイルスと共に生活様式を変えながらも営んでいかければならないだろうと当初の予測が大胆に変わりながらもこの特 殊な自粛期間が一応終わった。引き続き警戒が必要であるという余韻を残しながらも、抑えるのに必死だった人達は解除と同時に終わりの雰囲気を帯び、状況としてはだんだん日常が戻りつつある。

 世界で約七百万の人が罹患したとニュースで流れていた。文化の違いか、それとも意識の違いか、どこか世界と温度差がある半径五メートルの僕の住む世界では、やはりどこか歪な部分を見せながら、それが正しいかのように振舞う。

 今までとは違った日常になるだろうと世間は言う。果たして今までとこれまでとで同じだったことがあるだろうか。自然と仕組みと感情との「ズレ」と「ちぐはぐさ」と「ぶれ」を調律して、自分のものとして身にまとい歩くことができるだろうか、何がズレで、何がぶれかわからないな、と思いながら、傍から見れば同じような日常をこれからも過ごしていくのだと思う。

 袖の丈が短くなり、雲もだんだん暑くなり始め、身にまとう湿度も日に日に感じるようになる中で、うっすらと梅雨の予感を漂わせる。

 今年もまた村雨に翻弄されることだろう。雨と一緒に日々の、そして世の中の気怠い垢も流れていくことをひそかに祈っている。来年は、電車の窓から眺めていた桜を、硝子を隔てないで見れればいいなと思いながら。

※この記事は2020/6/14にg.o.a.tに投稿したものを再投稿しています。

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