【sk∞】「アンパンマンのマーチ」と、ヒーローの話

エスケーエイトの冒頭で、暦が話している「ヒーロー」。
幼少期──それも小学校に入る前の未就学児にとっての、ヒーロー。
初めは何となく、変身するヒーローかな?と思っていました。
仮面ライダーとか、戦隊シリーズものとか。

【俺がガキだった頃、まだヒーローのテレビとか見てた頃さ。そのヒーロー
が言ったんだ。お前の幸せは何だ?って。何が幸せかわからないまま終わる
なんて、絶対に嫌だってさ】

何が幸せかわからないまま終わる、それを嫌だと思っている、ヒーロー。
既視感があって、いつも頭のすみっこで、何だっけ?知ってるような気がす
るけど、何だっけ??と、考えていましたが、突然ひらめきました。
アンパンマンだ!!って。
たしかに、未就学児──保育園や幼稚園に通っている年齢の子どもたちに、
「アンパンマン」は絶大な人気があるように思います。もしかしたら、パン
とか、食べ物にまつわるキャラクターがたくさん出てくるところが楽しいの
かもしれないですね。
アンパンマンは困った人を助けるヒーローですが、その有り様はかなり独特
です。彼の助け方というのは基本的に「我が身をちぎり、飢えている人に与
える」というものですが、こういうスタイルのヒーローは、とても珍しいと
思います。
暦たちが生きている世界に、「アンパンマン」が放送されているかどうか、
ということは定かではないのですが、少なくとも暦の言うヒーローのモデル
のひとつにアンパンマンがあるのではないのか?という気がします。

【なにが君の しあわせ 
 なにをして よろこぶ 
 わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!】

「それいけ!アンパンマン」というアニメーションは、やなせたかしの絵本
「アンパンマン」を原作として制作されています。上記の歌詞は、そのアニ
メ番組のオープニング曲である、「アンパンマンのマーチ」の一節です。
アンパンマンがアニメーションの中で言っている台詞ではないけれど、アン
パンマンを視聴したら、最初に必ず聞こえてくる歌のなかの言葉。
非常に印象的で、深く考えさせられるこの歌詞を作ったのは、アンパンマン
の原作者である、やなせたかしさんです。

やなせさんは大正生まれの方で、第二次世界大戦のあった時代を、戦前、戦
中、戦後と生き抜いてこられ、結果、「正義というのはあやふやなもので、
ある日突然逆転する」との思いに至ったのだと、折に触れ語られています。
「正義は勝ったと言っていばってるやつは嘘くさい」とまで、やなせさんは
言っておられます。
そして、従軍した際には「つらいことも一晩寝れば、だいたいなんとかなっ
たけれど、空腹だけは我慢できなかった」という、苦しい体験をされたのだ
そうです。
誰かの言う、耳障りの良い「正義」は、ほとんどの場合欺瞞でしかない。
そして、時代や、国、その人の置かれている立場によっても、「正義」の有
り様は変わってしまう。
けれど、それでも。
もし、ゆるぎない本当の正義、というものがあるとしたら──それは、「飢
えている人に食べ物を与えること」だと、やなせさんは、そう思ったのだそ
うです。
こうして、「我が身をちぎり、飢えている人に与える」ヒーロー、アンパン
マンは誕生しました。

アンパンマンは、【正義は移ろいやすく、信じがたいものだ】という認識を
持っている、やなせさんが生み出したヒーローです。
やなせさんによると、アンパンマンは弱い処もある普通の存在で、決して、
最強ではない、むしろ最弱のヒーローとして描かれているそうです。
そもそも、最初に出版された絵本「あんぱんまん」の中では、お腹がすいた
人々のもとに現れて、自分の顔を与え、彼らを元気にしてはいましたが、現
在のように、戦ってはいませんでした。
バイキンマンが現れて以降、物語は、敵と戦うスタイルを取るようにもなり
ましたが、それでもアンパンマンのヒーローとしての一番大切な役割は、敵
を倒すことではないのだと思います。
アンパンマンは、やなせさんの考えた究極の正義を体現するヒーローです。
けれど、おそらく、勝利を約束された存在ではありません。
アンパンマンは弱いのです。だから、傷つき、負けることもある。
本来、アンパンマンの物語は、敵を倒して一件落着する勧善懲悪の世界でも
なければ、良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いが
ある、というような因果応報が適用されている世界でもないのだろう、と思
います。


やなせたかしの描く世界に、安易なめでたしめでたしはありません。
例えば、「チリンのすず」という絵本がありますが、この作品は、一言でい
うのなら、愛憎が描かれています。母を殺された子羊が、復讐を果たすまで
のお話です。
以下は、「チリンのすず」のあらすじとなります。

チリン、と名付けられた小さな可愛い羊がいます。彼は、ウォーという名の
狼に母を殺された後、ウォーに弟子入りを申し出て、受け入れられ、望み通
り強くなっていきます。ウォーとチリンはいつもともに行動し、やがて周囲
から恐れられるようになるのです。けれど、チリンは実の処、母の仇である
ウォーを倒すために、彼に弟子入りしていました。そして、そのことを、忘
れてはいなかったのです。時が過ぎ、いつしか、ウォーよりも強くなってい
たチリンは、ある嵐の日、とうとう復讐を果たします。ウォーは、いつかこ
ういう時がくると覚悟していた、お前にやられてよかった、俺はよろこんで
いる、という言葉を残し、こと切れました。そして、チリンはウォーを殺し
た後で、実は、ウォーのことを父とも師とも思っていたこと、いつのまにか
彼を好きになってしまっていたことに気づくのです。もはや、羊でも、狼で
すらない化け物になってしまったチリンは、誰も知らない場所へと去ってい
き、二度と姿を現すことはありませんでした。

チリンの母は、何も悪いことをしていないのに狼に殺されました。彼らの生
きる世界は、残酷で野蛮なのです。でも、やなせさんは、ウォーという狼を
一方的に悪者として描いてはいません。羊にも狼にも、それぞれの事情、生
きるためにやるべきことがあり、それは簡単に善悪で切り分けられることで
はないからだと思います。復讐を胸に秘め、ウォーと行動をともにするチリ
ン。いつしか彼の中には、憎しみとは別の感情が生まれていました。
「ぼくたちは死ぬときもいっしょだ」とチリンがウォーに言う場面がありま
す。ウォーを油断させるため、このように言ったのだろうと思われるのです
が、けれど、それだけではなくて、おそらくこの台詞は、チリンの本当の気
持ちだったのではないか?──と、そのように感じるのです。
でも、それでも、チリンはウォーを殺し、母の仇を討ちました。
チリンは、ウォーを憎んでいたからです。母を殺したウォーをどうしても許
すことができなかったからです。でも憎んでいるのと同時に、彼のことをと
ても好きになってしまっていたのだと、チリンは気づいてしまいます。父と
も師とも思っていたウォーが、死んでしまったその後で。

やなせさんは、子どもたちが相手だからだと容赦はせず、私たちが生きる世
界が実は野蛮なのであり、残酷なこと、理不尽なことも起こり得るのだ、と
いうことを描いています。けれどそれは、やなせさんが子どもたちを馬鹿に
せず、信頼している証だろうと思います。何ら、悪いことをしていなくても
殺されてしまうこともあるし、酷いことをしたとしても命を失うとは限らな
い。そして、仇だと思って憎んでいる存在を、好きになってしまうことだっ
てあるのだ、と。なのに、それでも、その相手を許すことができずに、殺し
てしまうことだってあるのだ──と。

だから、たぶんアンパンマンが生きているその場所も、安易なめでたしめで
たしでお話を結べるような、単純で優しいだけの世界ではないんだろうと思
うのです。

アンパンマンは、ちょっと汚れたり、雨に濡れたりしたたけでも、ジャムお
じさんの助けが必要になるし、いつも立派で格好いいヒーロー、という訳で
はありません。「アンパンマンのマーチ」の中には、【そうだ おそれない
で】という歌詞もありますし、たぶん、戦うのが怖いと思っている時だって
あるのでしょう。
アンパンマンは私たちと同じように弱い。それでも、いざという時は戦う。
そして、傷ついても、負けても、また立ち上がる。
やなせさんは、「ヒーローは強いから戦うのではなく、弱くても戦う」のだ
と、そう言っていました。
「アンパンマンのマーチ」は、そういう覚悟の歌なのかもしれません。

【そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも】

これは、「アンパンマンのマーチ」の1番、冒頭の歌詞です。アニメの主題
歌としては2番が採用されているので、通常はあまり聴く機会のない一節と
なっています。
ここからわかることは、やはりアンパンマンは傷ついているのだ、というこ
と。けれど、胸の傷が痛んでも、生きる喜びを感じ、嬉しいと思っている、
ということ。
そして、アンパンマンの生きる理由や幸せは、戦いに勝つことそのものでは
ない筈です。
「人は、人がよろこんで笑う声を聞くのが一番うれしい」という境地に達し
たのだと、やなせたかしさんは言います。
アンパンマンもきっと、同じ気持ちなのではないか。
アンパンマンがやりたいことは、困った人を助けること。そんなことしたっ
て何の得にもならないじゃないか、とそう思う人もいるかもしれない。
でも、アンパンマンにとっては、困っている人を助けること、助けた人が、
喜んで、笑う声を聞くこと──それが一番に嬉しい。
たぶん、それが、アンパンマンの「幸せ」で、「生きる喜び」なのではない
か。

エスケーエイトの冒頭で、【お前の幸せは何だ?】という問いかけが、主人
公である暦の口から語られるのには、大きな意味があるのだろうという気が
します。作品にとって重要な事柄だからこそ、このモノローグから、物語が
始まるのだろう、と。
喜屋武暦の「幸せ」はスケートボード。しかも、この冒頭のモノローグから
そのまま、「S」による、決闘──シャドウとの戦いに突入します。
エスケーエイトという物語の中心には、「S」でのスケートボードによる戦
いがあります。バトルですので、当然、勝つ者がいれば、負ける者がいる。
けれど。
これが、もの凄く重要で、非常に特異な処だと思うのですが、エスケーエイ
トという物語にとって一番に大切なことは、バトルの勝敗ではないのです。
もちろん、勝ったら気持ちいいだろうし、負けたらくやしいんだろうけれど
も、最も大事なことは、そこではなくて。
エスケーエイトが、物語の中で繰り返し、ずっと伝え続けること。
それは、「楽しい」、なんですよね。
「楽しい」というキーワード。
これはおそらく、冒頭の【お前の幸せは何だ?】という問いかけに直結する
のだろう、と思います。

暦のモノローグの中で、『金持ちになること』、『女にもてること』、『い
い学校に入ること』、『尊敬されること』が、「幸せ」であることの例とし
て、列挙されていました。
これらは、どれも、他者との比較で優劣が生まれることによる「幸せ」であ
る、と言えます。自分以外の人間と比べて、よりたくさん持っている、或い
は他者からの評価をより多く得られている、という、より多くを持っている
ものが勝ち、持っていないものが負けであるという、勝ち負けの論理による
「幸せ」。
でもこれは、自分とそれ以外の人との比較で生まれる幸福なので、お金も、
もてることも、いい学校に入ることも、尊敬されることも、自分自身よりも
たくさん持っている人、より上の者がいるのだ、と思えば、結局、いつまで
も満たされず、幸福だと感じることができない。幸せの価値や条件を自分の
外側に置いているとどうしてもそうなってしまいます。

人間は誰だって、幸せになることを望んでいる筈だと思います。
けれど、エスケーエイトの世界は、実は野蛮で残酷なのです。
やなせたかしが描く世界が、アンパンマンの世界がそうであるように。
私たちが生きる世界が、そのようであるように。
勧善懲悪でも、因果応報でもない世界。
何もかも思い通りにならない世界。

【なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか】

【なにが君の しあわせ   
 なにをして よろこぶ】

喜屋武暦とおそらく対の存在として描かれているだろう、馳河ランガという
人は、カナダからの転校生として物語に登場してきます。
ランガは、母親である奈々子の言によれば、父親を失い、スノーボードもや
めてしまい、「抜け殻」のような状態だった。肉体はあるけれど、その身体
の中に、魂が入っていないように思われる、ランガはそういう状態で、これ
まで住んでいたカナダとは全く違う環境の、沖縄に引っ越してきました。
暦の、当初のランガに対する人物評も「なんか、ぼーっとしたやつなんです
よ」でした。もともとの性格や性質もあるのでしょうが、暦にそのように見
えてしまったのは、ランガの体の中に、「魂」と言えるものがほとんど宿っ
ていない状態だったから、なのではないか。
肉体はあるけれど、魂が宿っていない──だから、ランガは何も感じること
ができなくなっていた、ということなのではないでしょうか。
ランガは、暦とスケートボードに出会って、ほとんど失いかけていた魂を、
自分の中に取り戻していきます。彼が、自分の鼓動を確認するシーンが何度
か繰り返されているけれど、あれは心臓の音でもあり、その身に宿る、魂の
音でもあるのだと思います。
抜け殻になっていた当初のランガを支えているものは、ほとんど、母親の助
けになろうという気持ちだけだったのではないか、という気がします。だか
ら、物語の初めの方のランガの行動原理は、母親の為──家計の足しにする
ためにバイトを探すこと、でした。働く奈々子の代わりに食事を作っている
シーンもありましたね。‥‥‥この時のランガには、カナダに住み続ける理
由が何もないと感じられていて、正直、何処に住むのでも、どうでもよかっ
た、というのが、大きな理由だったとは思うのですが、それでもランガだけ
カナダに残るという選択をせず、沖縄に引っ越すことに同意したのも、自分
と同様にオリバーを失った奈々子をひとりにしない為でもあったのではない
でしょうか。
そういう風に、母親のことは思いやっていたけれど、おそらく自分自身のこ
とについて、ランガはどうでもよかった。「抜け殻」だったから。
肉体、という器があれば、人間として、一応の活動はできます。
でもその肉体に心が宿っておらず、何も感じないのなら、果たしてそれは、
「生きている」と言える状態なのでしょうか?
おそらく、ランガは何にも心を動かされることなく、ほとんど、「死んでい
る」状態だった。けれど、スケートボードにのって滑った時、体の中で、心
臓が脈打っているのを感じた。鼓動の音が聞こえたのです。
何も感じなくなっていた筈のランガに、スケートボードと言う存在が、生き
ている実感を与えてくれた。
スケートボードは「楽しい」。
この「楽しい」は、「生きる喜び」と言い換えることができると思います。
そして、生きる喜びを感じることが、人にとっての「幸せ」だと言えるので
はないでしょうか。

自分の弱さを知っている。だからこそ、強大な敵を恐れてもいる。
それでも、いざという時には奮い立ち、覚悟を決めて戦う。
雨に濡れて、傷つき、汚れ、負けることもあるヒーロー。
立派でも、格好良くもない、ヒーロー。

【今を生きる ことで
 熱い こころ 燃える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで】

「ヒーローは強いから戦うのではなく、弱くても戦う」のです。
だから、傷ついても、負けても、また立ち上がる。
アンパンマンのこういった姿は、エスケーエイトでの暦の姿に重なるように
も思います。
エスケーエイトのヒーローは、きっと喜屋武暦なのです。
何故なら、彼こそが、「生きる喜び」を知っている人だから。
スケートボードは楽しい、ということをランガに伝えた人だから。

エスケーエイトは、弱い処もある、普通の人(だと彼自身も周囲もそう思っ
ている)暦が、モンスター級の才覚を持っているランガを助け、さらに、そ
のランガが、「S」の世界においては神だともいえる愛之介を助ける話、だ
とも言えると思います。
ランガも愛之介も(愛之介がいう処の)『俗世』を生きることが楽しくなく
なってしまった人々です。彼らは、この世界で、「今を生きる」ことにあま
り未練を持っていなかった。だから、死に直結するであろうゾーンにも入れ
るし、さらにゾーンの向こう側──おそらくは彼岸だとか天国とか、ニライ
カナイだとか──そのように呼ばれている場所に行くことも可能だったので
しょう。
愛之介は自身をアダム(愛抱夢)と名付け、イヴなる存在を探しています。
そして、殺し殺される者であるマタドールの衣装を纏い、「S」を愛の儀式
と呼び、トーナメントに「ホワイトエデン・ウエディングビーフ」と名づけ
ていました。これは、アダムにとってのイヴを選出するためのトーナメント
であり、選ばれたイヴはアダムと番って、新しいパラダイスを築くことにな
るのでしょう。もちろん、アダムとイヴのパラダイスは、『俗世』ではなく
て、彼岸──おそらく、『あの世』に創出される。何故って、アダムとイヴ
が住まうのは「天国」なのですから。
だから、愛抱夢は、初めはトーナメントのことを「ウエディング」、結婚式
としていたのを、翻って、最後の決勝戦では、葬式に見立てていましたが、
これは結局の処、同じことなのです。
婚姻であっても、葬送であっても、どちらでも同じこと。最終的には、現世
を離れ、スケートボードのことだけ考えられる天国のような処に、アダムと
イヴは行くのだから。(実際、婚姻と葬送の儀礼には古今東西かなりの共通
性が見られます)

完全に魂を取り戻した状態ではなかったランガは、愛之介に連れて行かれそ
うになっていました。しかし、愛之介が素晴らしさを謳うゾーンの彼方にあ
る世界は、ランガにとって、心の臓が脈打つことのない、何もない場所でし
た。暴力も、他者からの望まぬ介入もなく、体や心が傷つけられることもな
いけれど、そのかわり、何もない世界。「抜け殻」だったランガが見ていた
世界。
「楽しい」ことの、「FUN」のない世界です。

人は誰でも幸せを望んでいる。
けれど、愛之介にとって、彼が生きている世界は殊更に優しくなかった。
常に、他人の評価にさらされ、勝たなければ愛されない、負けることは許さ
れないことだと、彼はそう思っている。
戦いの、勝敗の結果こそがすべてを決すると、勝ち負けが幸せの尺度になっ
ている者たちにとって、暦やランガの言う「楽しい」は、さぞや空虚に響い
たことでしょう。
けれどそれは、自分自身の生きる喜びを、他者の評価に委ねているから、起
こってしまうことなのです。
「生きる喜び」は、「楽しい」は──ただただ、自分の内側から湧き上がっ
てくるもの。

『暦がいるから感じるんだ、楽しいって』
『俺も、同じこと思ってた。俺、お前と、もっと滑りたい。明日も明後日も
ずーっと、ずーっと』
『俺も、無限に暦とスケートしたい』
『無限って、おおげさだろ』
『最初に言ったのは、暦だよ。スケートは無限だって』
『そういや、そうだったな』
『俺たちのDAPもうひとつ、つけたそうよ』
『いいねぇ!』
この会話を交わした後、暦とランガは、無限大の形をしたDAPを生みだし
ました。
無限大。
楽しい、と同じように、この物語にとって大切な言葉。

「アンパンマンのマーチ」には、以下の一節があります。

【時は はやく すぎる
 光る 星は 消える】

この世界にあるものは、すべて有限です。
だから、人は、失うことを恐れる。
無限大、を口にする暦とランガは、そのことを理解していない人たちなので
しょうか?
愛之介や忠が言うように、彼らはまだ子どもだから、何もかもすべてに、限
りがあるということに気が付いていないのでしょうか?
それは、おそらく違う、と思います。

スケートボードも、友愛も、魂も、命も。
楽しいと思う、その気持ちも。
やがてはすべて、失われる。
それをわかっていて、尚、暦とランガは「無限大」を口にして、二人の合
図にしたのだろう。
やがてはすべてが失われるのだとしても、それでも。
「無限大∞」は、今、此処に、二人の間に存在している。

『んんー‥‥‥だめだな!』 
『えぇー?!なおらないの?』
『折れちまってるからなー』
『そんな』 
『どうした?』 
『俺、いつもなくなってから初めて気づくんだ。暦のこともそうだ。それが
どんなに大切だったかって』 
『壊れたら、なおせばいいだろ?俺たちみたいに』
『うん』
ランガのボードが壊れてしまい、どうやって修繕するのか話し合っている時
の暦とランガの会話です。
さらにこの後、こういう会話が交わされます。
『使えるパーツは流用しよう。そうすりゃ、生まれ変わったってことになる
だろ?』
『それいい!!』

壊れても、直せる。
まるで、生まれ変わるみたいに。
スケートボードも、友愛も、魂も、命も。
楽しいと思う、その気持ちも。
失われてもまた、生まれ変わる。
繰り返し、何度でも。

「FUN」のオレンジ色の文字は、日毎に生まれ変わる太陽を表しているの
ではないか?と思うのです。
生きる喜びは──「楽しい」という気持ちは、何度でも生まれ変わる。
生まれ変わった、魂や命から、「FUN」が溢れ出す。
無限大に。

【そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび】

幸せ、とは、生きる喜びを感じること。
「楽しい」と思うこと。

太陽の、オレンジ色をした幸せは、ちょっとアンパンマンにも似ています。
野蛮で残酷で理不尽なこともまかり通る世界だけれど。
生まれ変わり続ける、太陽の、オレンジ色の、「FUN」の光は、いつでも
キラキラと輝いています。
南の島の──沖縄の、ひときわ大きく輝く、あけもどろの花のように。
生きる喜びが、咲き誇る。
最高に。
無限大に。
身体から魂から、「楽しい」が溢れ出す。

【俺、お前と、もっと滑りたい。明日も明後日もずーっと、ずーっと】
【俺も、無限に暦とスケートしたい】

「楽しい」と「楽しい」が、ぶつかり合って、反響して、もっともっと、大
きな、無限大の「楽しい」になる。


スケートボードは、楽しい!

ふたりで滑るのは、もっと楽しい!!