essay #9 血液
咄嗟に119番を押した。
いちいちきゅう、だよな、と一瞬手が止まりそうになったけれど、何とかスマホの画面を押し込むようにして救急車を呼んだ。
上級救命講習を受けたのは既に5年前だったけれど、人が横になっているのを見て、あ、安全体位にしなければ、と思った。
まず救急車を呼んで、後輩がAEDを探した。
できることありますかと近づいてきてくれた人がいたので、発煙筒で他の車を誘導してくださいと伝えた。
ぶつかった車から運転手が出てきたので、対向車線に出ていた車を脇に寄せるように伝えた。
被害者の人を触ろうとしたので、動かさないでくださいと伝えて、安全体位に戻した。
救急隊員から電話口で聞かれて、頭から血を流していることと鼻と口からも血を吐いていることを説明している自分がいた。
そうだ、出血が止まらない。
雨で、濡れている、黒いアスファルトの上の血液がどんどん凝固していった。
あ、なんか生のレバーってこういう質感だな、みたいな。
それでも、声をかけ続けてくださいと言われていたので、肩を叩きながら声をかけて。
息はあります、いえ、返答はありません。
ちょうど、発煙筒を焚いてくれていた男性が「止血できるものはないですかね」と聞いてくれた。
運転していた人が不安そうに近くにいたので「タオルや布はありませんか」と聞いたけれど、ハンカチしかないと心細そうだった。
じゃあ、誰が。何を使って。
身体は動いて、すぐコートを脱いだのに、少し躊躇ってしまった。
動かしたらいけないかもしれない。
素手で触って菌が入ったら。
これはお気に入りの薄いブルーが可愛いやつで、でも、私は女だから、血液汚れなんて洗えばすぐ落ちることを知っていて、あでも、血はどれくらい流れているんだろうか、暗くてよく見えない、かえって悪化しないだろうか、そんなことをして意味があるんだろうか。いや、私はそんな、お気に入りの服が汚れるみたいな自己中な理由で人の命を見殺しにするような人間じゃないはずで。
一度、濡れた地面に意味もなくコートを置いてしまって、もう一度、被害者の人の顔を見たら、やっぱり何度も血を吐いていて、どうしたらいいか分からなくなって、振り返れば考え始めてから30秒後くらいにやっと、コートをまとめて頭に押し当てた。
聞こえますか、声を出せますか。
程なくして救急隊が来てくれて、それからは運転していた人を落ち着かせるために背中をさすり、大丈夫ですよ、プロの人がちゃんとやってくれますから、警察の人が来たらそのままを話せば大丈夫ですよ、と言っているうちに、救急車で運ばれて行った。
呼吸はあったけれど、最後まで返答はなかった。
もし助かっていなかったらどうしよう。
もし今ごろ亡くなっていたらどうしよう。
どうすることもできないけれど。
さっきまで全然大丈夫だと思っていたのに、急に不安だ。
ちゃんと人を救うことができたんだろうか。
私の判断の誤りで、命が失われていやしないだろうか。
翌日の新聞とネットの記事で1つだけ、搬送後に意識を取り戻したと書いてあるものがあった。
それ以上は個人情報で、おそらくもう更新されないだろうけれど、その記事を信じるしかない。
後遺症が少しでも少なく、元の生活に近い形で、また始められますように。
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