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またね...はすぐ突然に

2月12日の日記からのつづき。


この次の日、2月13日、施設にいる母とラインでのビデオ通話をしました。

*14時30分の予約。

ちょうどおやつの時間前で何とか起きれて一番機嫌がいい時間帯。

午前か午後を選ぶのですが、午前中にした時はいつも半分まだ寝ている状態で、反応もあまりなく、声も出せなかったこともあり、午後の時間帯を選ぶようになりました。

それでも、日によっては何も話せず終わってしまうこともあります。

この日も少しだけど声は聞けました。

「お母さん、わかる?」

「・・・」

「ちゃんとご飯食べてる?」

「...あー...えー」

「元気?」

「・・・」

「お母さん、わたし、わかる?」

「・・・」

「もうすぐおやつやね、嬉しい?」

「・・うれしい!」

「楽しい?」

「た、のしいー!」

「よかったね、でも、そんな大きな声出したらみんなびっくりするから、優しくね」

「・・・いやーーーっ!」

「ほら、落ち着いて。息をフゥーってはいてみて」

「・・・」

母は息を吸って口を開けて何か言おうとするんだけど言葉が出てこなくて、諦めて身体全体のチカラが抜ける。

その繰り返しが何度か続いて。。

きっと頭の中では言いたい言葉があるのに、ひとつひとつの言葉が繋がらず声に出すまでには至らない感じです。

何が言いたいのか、何を聞いて欲しいのだろう。せめて目が見えてくれたらな、。

ビデオ通話も15分がタイムリミット。

そうしているうちに疲れたのか、早く戻りたいのかは?ですが、いつになく「ありがとう」「ありがとう」と何度も言うんです。

「もう話したくないの?疲れた?」

「・・・いやーーーっ!」

「そんなん言わんといてよ、繋げてもらってんのに。わたしと話したくないの?」

「・・・ありがとう!!」

「そうやね、ありがとう...」

これは、きっとわたしに向けた言葉ではなくて、職員さんに。

もう終わりたい、の合図のように言ってたね。

でも、「ありがとう」は何度言ってもOK!


以前から『やさしく』『おだやかに』職員さんに『ありがとう』ってちゃんと伝えてよ。って言ってきたからかな。

その「ありがとう!」が今も耳に残ってます。

元気な声も聞けて、わたしもひと安心。
名残惜しいですが、最後に「じゃあ、またね!元気でいてよ。また会いに行くから」と言って、職員さんにお礼を伝え電話を切りました。

そして、この次の日 『その時』がきました。


*2月14日

お昼を過ぎた時間。わたしはお昼ご飯を食べようと準備してる時に家の電話が鳴りました。

いつも電話が鳴るとドキッとします。だいたいは施設から。そうでなければセールスとかがほとんど。

電話に出ると聞きなれた施設の職員さんの声。

あれから夜中の3時頃に嘔吐があって、下からは下痢。熱は37度。酸素飽和度の急な低下などもあり、酸素吸入の処置をして数値も上がりましたが、止めると下がったりしたそうです。
それから、時間ともに何とか安定し落ち着いているけど、食事もとれていないと。

誤嚥性肺炎の疑いもあるので、病院で診てもらった方がいいと施設の診療所の先生が言われてると伝えられました。

ただ今はこのコロナ禍で入院になると受け入れてもらえる病院があるかどうか...と。

救急車が到着したら連絡をくださいとお願いしました。
それからすぐ駆けつけられるように準備を。
震えながら心臓の音も早くなる。

わたしが落ち着かなければ!と必死で堪えました。

電話がなり、わたしはすぐ施設に向かいました。職員さんから母の症状を聞いて、抗原検査の結果も待っている状態とのこと。

今、受け入れてもらえる病院を救急隊員の方があたってますが、まったく見つからなくて、と伝えられて...。

職員さんは中にもどり、わたしは風が冷たい施設の外でずっと待っていました。

ただただ不安で心配で。

姉は遠くに住んでいて仕事中、ラインで状況を送りました。なかなか既読がつかなくて待っていたら、ちょうど休憩に入ったからと、返信が。すぐ電話をして少し話をしました。

わたしのこころもちょっとは軽くなって。

その時に撮った写真。
太陽の陽射しからチカラをもらおうと。

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職員さんが、外に出てきて抗原検査の結果は陰性だと言ってくれて、ひとまずホッとしました。
この時点で陽性だと病院はもう諦めるしかないと言われていたから。

それでも、一向に受け入れてくれる病院は見つからない。個室や特別室になってもいいですか?の問いに、「はい、こんな時に選んでられませんから」と。了承を得るのはわかりますが、聞かれることも答えるのさえ正直つらかったです。

改めて、こんなにも医療機関が逼迫しているのだと痛感しました。

2日ほど前に運ばれた方は京都の病院でやっと、という話も。


施設の診療所の先生からのお話を、と呼ばれて中に入りました。
これまでの症状を聞いて、あと、この先のことについて...です。

施設内での医療行為は出来ず、このまま病院が見つからなかった時は、どうしますか?と。
わたしは初めから先生の心無い話し方が嫌でした。お世話になっているのに、こんなことを言うと失礼とも思いますが。
それでも、聞いて答えないといけない。感情を抑えるので精一杯です。

また『いのちの選択』がわたしの前に。

以前入院した時と同じように、「苦しい思いをさせたくないので、延命治療は希望しません。これは、母からも言われてますから」と。言いながら涙が込み上げてきました。

そう言わざるおえないわたしもつらい。

本当に。。


それから部屋にひとり取り残されたわたしは、病院が見つかりますように...と祈りながら涙を堪えてました。

ずっと待っても待っても誰も入ってくる様子もなく、どうせなら外に出たかった。息がつまりそうで。

しばらくすると、職員さんがやはり見つかりそうもない... と。ひとつ思い当たる病院があるのでダメかもしれないけど連絡してみましょうか、と言ってくださったのでお願いしました。

すると、何とか受け入れてくださるとのこと。

「よかった、とりあえず...」

職員さんには感謝でしかないです。
それから、わたしと職員さんと救急車に同乗し病院へ向かうことになりました。

ここで、『また、いつか』と思っていた母と会える日がすぐ次の日にきました。

いい再会ではなかったけど。

救急車の揺れが激しい中、ぐっと耐える母。救急隊員の方に触れてもいいですか?と了解を得て少し肩をさすってあげて、後はかけられたタオルケットの上から手を握りました。

母は目も開けて意識もあり、途中たんがからんで苦しいのか、「あーー」と小さく声も出せるくらいに。

わたしは「だいじょうぶやからね、今病院に向かってるから安心して」と何度も声をかけました。

病院に着いてすぐひとつひとつ検査へと。わたしと職員さんは病院の方、看護師さんに症状を伝えたり入院に関する説明を聞いて、手続きを。

今、わたしは手が上手く使えないのもあり、書類に記入するのもやっとでした。

それから、CT検査などの結果を先生から聞かせてもらえるまで、待つことになります。

長い長い時間。


結果は、誤嚥性肺炎と言えるほどのことではなく、ただ、肺に数ヶ所影があること。あとは前に入院した時の腸閉塞、そして膀胱に尿がたまってぱんぱんになっていると。
これは、わたしが見てもわかるぐらいでした。

きっと膀胱がいっぱいで腸も圧迫されて嘔吐したのではないかな?

お母さん、よく耐えてくれたね。
認知症だからといっても絶対苦しかったよね。

安定するまで早くても2週間は入院でしょう、と。

とりあえず、診てもらえて入院できたことに安堵しました。





それから職員さんは施設からの迎えの車で戻られて、わたしは駅に向かい電車で帰りました。
施設も人手が足りず大変な中、時間を使っていただいて本当に有り難く思います。
病院は最寄り駅からひとつ先。まだ近くでよかったです。


駅に着いた時の夕陽。
これまで我慢していた涙が勝手にどんどん溢れてきました。

2022.2.14 夕陽①


2022.2.14 夕陽②


夕空に浮かぶ小さなお月さま

2022.2.14 月


ゆっくりゆっくり歩いて家に帰り着きました。
お昼ごはんも食べずだったので、お腹もぺこぺこ。
自分が倒れるわけにはいかないので、しっかり食べました。

夜はやはり心配で眠れませんでしたが、電話もなくホッとひと息です。


その後、こちらから病院へ連絡するとPCR検査も陰性、もう食事も少しずつ始められているそう。驚くと同時に、母は強いなぁと思いました。

わたしにまた会うまではとがんばってくれたのかな。
そうだと嬉しいけど。

『ありがとう、また、ね』

今年のバレンタインデーは忘れられない一日になりました。



そして、日にちが経ちつい先日、もう退院を考えていますと先生から連絡がありました。
施設の受け入れ態勢などが整い次第ということで、本当は来週17日に退院が決まっていたのです。

でも、、、

今日電話があり、
「今、熱が38度ありまして...肺炎の可能性もあり得るので退院が延びてしまいます」と。
また検査と様子をみて連絡くださるそうです。

入院してからずっと順調で安定していたのに...。

またきっとよくなるよね!信じるしかない。

わたしも一緒に闘うから!!


今夜もまた眠れない日に。。
電話が鳴るのが怖いけど、待ち遠しいです。


どうか、また元気な顔をみせてください。





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