サルミ考察

枯朽では普段、ジャンルに囚われない自由な料理を提供している。

「創作料理」と言う表現は安っぽくて好きじゃないので敢えて自分から使いたくはないのだが、狙った味や仕立てに近づけるために使う食材のジャンルを限定せず様々な国の食材や技術を混合して一品を作っているので平たく言うと創作料理なのだと思う。

でもどこかに自分のルーツであるフランス料理の要素が入っていることが多い。自由な料理は一歩間違うと「とっ散らかった料理」になりやすいのだ。

全部で6〜8品程から成るコース料理はどれだけ自由でも“軸”が必要だと思っている。

良くある例で言うと、フランス料理のブイヤベースやスープドポワソンなどを作るときにタイ料理のトムヤムクンの要素を組み込む場合、ベースからトムヤムクンの要領で作るとそれはもはやトムヤムクンでしかないし、ブイヤベースの作り方にトムヤムクンの要素を組み込むと「トムヤムクン風のブイヤベース」になる。

何を当たり前なことを…思えるがその微妙なラインを理解しているかは自由なコース料理を作る上でかなり大事なことなのかもしれない、と去年の枯朽の活動を通してひしひしと感じた。

自由=何でもありではない。
いや、まぁ恐らく一般的には何でもありでいいのだろうが、私は軸がある自由にその店“らしさ”を感じることが多い。

アルバムを一枚通しで聴いた時のように、映画や演劇を観た時のように、コース全体を一つの作品として楽しんでもらうためには何か全体に共通する部分を持つべきだ。そしてそれは自分のルーツであるフランス料理以外にない思ったのだ。

間借りを続けていくうちにそういう気持ちが強くなり、後半の料理は特に軸があるものが出来ていたのではないかと思う。

去年の10〜11月頃、心地よい肌寒さを感じたり、スーパーに並ぶ食材が秋めいてくるのを見たりしてなんとなくフランス料理が食べたいな、作りたいなと思った。自分の中で一度離れたと思ったフランス料理。その基礎の大事さに改めて気づき始めた時期でもあった。

そんな心情の変化もあり12月は間借りのテーマを「クラシックフレンチ」にした。
ただなんというか、今書いたように私は軸のある自由が好きだ。そして今回はその軸が「クラシックフレンチ」であるだけで、前提として自由であることは変わりない。

昔から名前のある料理、その定義、フレンチの技法、それらの縛りの中で自分が許せる範囲で「自分らしく」を考え作った私の中の「クラシックフレンチ」だ。エスコフィエは果てしなく広く料理の定義を残したが作り方の詳細についてはぼんやりしている部分も多い。昔に戻れないのならそのぼんやり部分は勉強と想像で埋めるしかない。料理人の数だけその人のクラシックがあって良いと思うしそれが料理の面白さだとも思う。

そんな12月のメイン料理は「salmis(サルミ)」
私がフランス料理史上最も好きな肉料理だ。

画像1

このサルミ、店によって仕立ても様々だが近年“サルミとして認識されている料理”は「鳩、鴨、野鳥などを使い、内臓や血で繋いだドロっとしたソースをかけた料理」が多い気がする。写真は私のサルミだが、これもそのパターンだ。また、そういう濃厚なソースをsauce salmis(ソースサルミ)と呼んでいるのもよく見かける。

私が好きなのもこの“サルミと認識されている料理”(以下サルミ(仮)と呼称する)だ。

しかしこのサルミ(仮)は私のイメージ的に、ノルマンディ地方にあるルーアンという街の地方料理「Caneton à la rouennaise(仔鴨のルーアン風)」に限りなく近い。

仔鴨のルーアン風、簡単に言うとセニャン(ミディアムレア)に火入れをした骨つきの鴨をエギュイエット(薄切り)にし、鴨の血で濃度をつけたソースをたっぷりかけた料理である。

鴨の血は捌いた後のガラを専用のプレス機で潰し、搾り取ったものを使う。

この料理には下記のような定義も決められている。

① ルーアン産、エトフェの仔鴨(窒息鴨)を使うこと。
② 仔鴨の火通しは「saignant(セニャン)」にすること。
③ プレス機を使って鴨の血を絞ること。
④「aiguillettes(エギュイエット)」と呼ばれる薄いそぎ切りにすること。
⑤ ソースは鴨の血を使って、濃度をつけること。

①〜⑤を守った料理だけが「Caneton à la rouennaise(仔鴨のルーアン風)」と名乗ることを許されている。

シェフがローストした鴨をカナルディエと呼ばれる専門の職人がお客様の前でデクパージュ(切り分けること)し、専用のプレス機で血を搾り取り、ソースを仕上げる。鴨1羽1羽にシリアルナンバーが書かれていることなどからもCaneton à la rouennaiseがいかに伝統的な料理なのかが窺えると思う。

対してサルミは古い本を読み漁ってもあまり明確な定義が出てこない。書かれていない訳ではないが本によって様々だったりする。ルーアン風と比べると説明もかなりざっくりしたものが多いが主に下記のような書かれていることが多い。

野鳥、鳩、鴨など赤身の鳥類を丸のままブルー(レア)またはセニャン(ミディアムレア)にローストする。捌いたガラやクズ肉を使いソースを作る。
ローストした肉をソースの中に入れ、仕上げの火入れを行う。

一般的な認識と最もずれているのは「血や内臓でソースに濃度をつける」ことはサルミの定義ではない、という点だと思う。

チョコレートのようにドロっとしたソースを見ると漠然と「サルミ」をイメージする料理人は多いと思うのだがそれだけをみるとルーアン風を思い浮かべる方が(定義的には)正解なのだ。


あぁややこしい(楽しい)


さて、それではなぜサルミはルーアン風と混合されがちなのか。

ここから先は完全に私的見解なので他の意見がある方はじゃんじゃん教えてほしいしスペースとかで話したいのでDM下さい。

まずは分かりやすくそれぞれの特徴を並べる。

●サルミ
・使う鳥類の種類に明確な決まりはない
・丸のまま半生にローストする
・捌いたガラでソースを作る
・半生の肉をソースの中で軽く煮込んで仕上げる
・肉の切り方に定義はない
●ルーアン風
・ルーアン産のエトフェ処理された仔鴨を使用する
・丸のまま半生にローストする
・捌いたガラからプレス機で血を搾り取る
・肉はエギュイエット(薄いそぎ切り)に切る
・血やレバーのピュレで濃度をつける
・エギュイエットにした肉を加熱中のソースに入れ、軽く温める
・分離しないようにソースは沸騰させない

こうして見てみると

骨つきで半生にロースト

捌いたガラを使う(サルミはソースのベース、ルーアン風は血を搾りソースの仕上げ)

ソースの中で再加熱

と、大まかな工程が似ているのが分かる。

最も明確な差は血や内臓で濃度をつけるかどうかなようにも思えるが、サルミ(仮)も何故かルーアン風のようにドロっとした仕上がりのものが多い。

この問題にはサルミという料理の成り立ちが関係しているのではないかと思っている。

サルミは「salmigondis(サルミゴンディ)と呼ばれる古典料理がルーツだという説がある。

サルミゴンディとは「ごった煮」という意味だ。元々‭ 「ragoût (ラグー)」とほぼ同義で使われていたようだがある時から鳥類のごった煮を指すようになる。‬獲ったジビエをぶつ切りにしてごった煮にした猟師メシような料理ではないかとなんとなく思っている。

当時、内臓ごと煮込んでいたのかどうかは分からないが、恐らくそのままもしくは内臓は取っていたとしても骨つきの肉を血がベッタリ付いたまま煮込んでいたのではないだろうか。

フランス料理では香ばしい焼き目をつけてから煮込むことで液体に焼いた香りを移すことが多いのだが、血がついた肉は焦げやすくて上手く焼けない。そのため、肉を香ばしく焼き切る前に液体を入れ煮込み始めなければならない。そのような工程を経ると恐らく血や内臓が液体に溶け出し、濁ったソースになると思う。

「血で濃度をつける」と言う明確な定義はなくとも血の多い野生の野鳥をぶつ切りで煮こむことで自然と内臓のトロミや風味がソースに移った。

これがサルミゴンディという料理だったのではないだろうか。

それが時を経て「サルミ」として少しずつ洗練された料理になっていった。

より美味しく食べるためにキュイッソン(火入れ)を気にするようになる。
皮を香ばしく焼き半生にローストする。
これを捌き取り出したガラにはまだ血がしっかり付いている。半生で留めておいたからだ。
そのガラを砕いて作ったソースはサルミゴンディ同様、焦げやすく上手く焼けないため液体に血が溶け出し濁ったようなソースになる。丁寧に香ばしく焼いて作った時とは違う、食材の癖が残った少し妖艶な香りに仕上がる。それはそれで悪くない。

内臓はソテーして添えられたり、ファルサグラタンというペーストにしクルトンに塗って提供されたりする。

時代とともに流通が良くなり、内臓まで美味しく食べられるようになったのでソースに全て混ぜ込むのではなく別の方法で食べてもらおうという風潮が出てきたのかもしれない。

ソースが仕上がったらまだ半生の肉をソースの中に入れて最終的な火入れを行う。

あくまで煮込みがベースとなっているためローストのみで仕上げずこのような工程になっているのではないだろうか。律儀だなと感じる。

胸肉はコッフルと呼ばれる骨つき状態だ。骨の内側、元々内臓と面していた部分にはまだ血が付いている。この血も火入れの過程で液体に溶け込み、ソースがさらにくすんだ色になる。香りもまた少し変わる。

これらの「意図的にソースに血を加えている訳ではないが結果的に血が溶け出す」2つの工程があるが故に、サルミがサルミらしくなるのではないかと私は思う。

煮込みがベースなので液体の中で加熱するという工程を組み込みたい→ロースト時点でベストの火入れに持っていくと煮込み上がりは加熱のしすぎにつながる→結果的にソースに血が溶け込む

進化の過程はこのような順序だったのではないだろうか。そう思うとやはりサルミゴンディ同様「血や内臓でソースに濃度がつく」というのはそれ自体を目的としている訳ではなく料理の工程上たまたまそうなっているにすぎない、ということになる。

そしてここからが今回私の1番言いたいところ。

今説明したのは「サルミ(仮)」ではなく「サルミ」だと言うことだ。

序盤でこう説明した

近年“サルミとして認識されている料理”は「鳩、鴨、野鳥などを使い、内臓や血で繋いだドロっとしたソースをかけた料理」が多い気がする。また、そういう濃厚なソースをsauce salmis(ソースサルミ)と呼んでいるのもよく見かける。

そう、最近良く見るサルミ(私のサルミも含め)は調理工程上たまたまではなく、ルーアン風と同じく血や内臓を意図的に加えソースに濃度をつけているのである。

一体いつからこのサルミが増えてきた?どの料理人が最初?これに関しては(私の勉強不足だとは思うが)イマイチはっきり分からない。

自分のサルミって本当にサルミと呼んで良いのかな…とモヤモヤしながら家にある専門時代の教科書や古書をパラパラと読んでいてもこれといった答えは見つからない。そこである時ふとこう思った。

サルミ(仮)は、もはや古典料理ではなく今の料理人によって最適化された新しいサルミなのではないか?

そう考えるようになってから色々としっくりくるようになった。まぁ昔の本を読んでも分からない訳だ。

どんな料理も時代と共にアップデートしていくものだ。食材も良くなる。技術も知識もどんどん蓄えられていく。この料理を美味しくするための最適解は何だろうと考え工夫した結果、サルミがサルミ(仮)に進化するのは至極当然のことのように思えた。

サルミゴンディ→サルミの変化で最もアップデートされた点は恐らく「肉の火入れ」だ。
サルミ→サルミ(仮)ではそれが「血の火入れ」なのではないだろうか。

サルミの欠点は血を加えてから煮込む時間が長いせいで血が凝固して分離したようなソースになってしまうこと。また、血を加熱しすぎることで内臓臭さが出てしまうことだと思う。(何事にも良し悪しがあり、何を狙うかで調理法を選択すべきなのでこれを一概に“欠点”と言ってしまうのは愚かなことだと思うが「時代と共にアップデートされる部位ごとの最適調理」という観点から今回は敢えて欠点とする)

ルーアン風とは違い意図的に血を入れることはないサルミだが、結局サルミがサルミらしくなる所以は、私が思うに「血」なのだ。

血を最適に調理しようとするとルーアン風と同じく、仕上げに加え沸騰させないよう(凝固させないよう)に気をつけながら温めるという選択になる。
血は変性するが分離するほど凝固しないためソースは滑らかで濃厚になる。
加熱しすぎないため嫌な内臓臭さが出にくく、香り高くなる。加熱が浅い方が臭みが残りそうでは?と思う人もいるかも知れないが、美味しい焼き鳥屋の火入れに気を使って焼いたレバーより、レバニラなどしっかり焼いたレバーの方が独特の内臓臭さを感じることを思い浮かべてもらえば想像しやすいかと思う。

さらに人によってはそこにお酒やヴィネガーなどを加え、濃厚だがキレのあるソースに仕上げる。

サルミ(仮)において、この濃厚なソースはもはや肉より主役になりかねない。メインらしく分厚いカットの肉はもちろんジューシーで美味しいが咀嚼に時間がかかるためソースと肉を同時に口に入れた際、飲み込む直前まで口に残るのは肉の方だ。

ソースが主役の料理、しっかり絡まった濃厚なソースと肉が同時に口から消えるようにしたいと思うと肉のカットは必然的にエギュイエットを選択する人が増えるだろう。

こうしてほぼルーアン風のサルミ(仮)が生まれたのではないか。

以上を踏まえて私は改めて自分のサルミ(仮)をルーアン風ではなくサルミと呼んで良いだろうと結論づけた。

理由は単純、ルーアンの仔鴨を使っていないからだ。

もうほとんどそれしか理由がない気がする。(赤ワインを使用する量が少ない、というのも理由の一つな気はするが明確ではないので省略する)

最適化された現代のサルミである「サルミ(仮)」は限りなくルーアン風に寄っていると思う。ルーアンの鴨を使ってないことや、強いて言うなら専用のプレス機を使ってないことなどしか明確な違いが見つからない。

フランス料理は組み合わせに関しては定義が決まっていることが多い。

鶏とエクルヴィスとフライドエッグを使っていればマレンゴ…
シャンピニオン、白ワイン、エシャロットをベースに茶色いソースを作ればシャスール…
コンソメにクレープの千切りを加えればセレスティーヌ…

これとこれとこれを加えればこう呼べますよ。みたいな。
ただ調理工程に関しては少々曖昧な部分もあるように思える。もちろんそれぞれ決まった調理法はあるが、どの時代の本を読むかによって変わってくるし同じ時期の本でも料理人が違えばもちろんレシピも違う。

その曖昧さがまた面白いところだと思う。

ある意味私は定義の曖昧さを良いことに自分のサルミをサルミだとこじつけたとも言える。

話は戻るが私は軸のある料理が好きだ。

「サルミゴンディ」という軸をベースに自由な発想で進化してきたのがきっと今のサルミなんだと思う。

だからフランス料理が好きなのかもしれないなと、書いててちょっと思った。

まぁこの6000文字は全て、本当に本当に私の妄想でしかないのだが…


後書き

数回の間借りの中でも毎回何かが少しずつ進化している。これはいつも本当にいつも申し訳ないなと思うことなのだが、やはりどうしても第一回より最終回の方が料理のクオリティは上がる。間借りという不安定な環境の中、どういうオペレーションで作れば今出せる最高のものを作れるか。それは実際に回数を重ねないとなかなか見えてこないものなのだ。

12月のサルミに関してはベースのソースのバランス、加える血の量やお酒の量、ソースの加熱温度、ファルサグラタンの配合、などなど毎回様々な箇所を微調整しながら営業していた。たった2人でやっている以上、正直何らかの妥協点を作らなければ回らないところもあるのだが、仕立て的にどうしても冷めやすいサルミをどうにかしようと最終的にはサルミの皿をお湯で温めて提供直前に必死で拭いたりしていた。(ディッシュウォーマーがないので)

スープやコーヒーなら簡単な作業だがパーツの多いサルミだとこれがなかなかハード。

そんな「私のサルミ」の話はまた別の機会に。

本当は12月のメニュー全てにこんなストーリーがあるのだが、全てに言及しだすとキリがないので今回はサルミに絞ってnoteを書いた。

いつもそうだがnoteを書くときはとっ散らかった自分の頭の中を整理したいときが多い。本当にあっているかどうかは別として「自分が何故このように作っているか」は常に言葉に出来る様にしておきたいのだ。それが出来るだけで料理の説得力が違う。しかし多分私は理屈や説得力どうこうよりも“拘る”ということが楽しくてやっているのだろうなと思う。一緒に働く人が可哀想になるほどめんどくさい人間だ。でも私が客として料理を食べに行く時、いつも魅力を感じるのは「一緒に働くのは嫌だな…」と思う料理人の一品かもしれない。サルミ同様、そこら辺の最適解も早く見つけたいところだ。

最近私の書くnoteはいつも全文無料で読める有料記事。文章力も料理人としての知識もまだ中途半端なのにお金を払わないと読めない記事を作るのはちょっとな、と思うようになったのでそういう風にしている。

最後まで楽しんだ上で応援したいと思ってくれた方だけ購入してくれたら幸いです。


                  枯朽 h.b.


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