幽霊
「別れよう。」
そう達吉から言われたとき、貴子は静かに頷いた。訳を尋ねることもしなかった。聞いてもしょうがないと思ったのだ。
達吉が別れたいのだ。理由など自分が聞いても、別れることには変わりがないし別れるならばもうこうして親しく口を聞くこともあるまい。
なら、さっぱり別れた方が己のためだ。
貴子は「分かったわ」と微笑んだ。
「別れたぁ?達吉と?」
まず驚いたのは妹の亮子だった。なんでまた、とぼやけぎみに言う。
「亮ちゃんには報告しとこうと思って。」
まぁ、お姉ちゃんもまだ若いんだし別れるなら早い方がいいけどさー、などと言う。
「何で別れたの?理由は?」
「さぁ?」
亮子はシェイクをかき混ぜながら、うろん気に貴子を見る。
「何となくで別れたの?」
「達ちゃんが別れたいって。」
「他に女でもできたのかなぁ。」
「さぁねぇ。」
すぞぞ、と亮子はマックシェイクをすする。
「こら、音をたてないの。」
そう注意するとはぁい、と返事をしてまた亮子はシェイクをすすった。
その日はいつもより仕事が遅くなった。貴子の不手際で仕事にミスがあったのだ。それを残業で片付けようとしてた。
「あともう少し。」
誰もいない社内でまた独り言を呟いて、パソコンに向き直る。
カタ、と扉の方で物音がした。振り返ると達吉が扉の前で立っていた。
「何してるの?」
眉をしかめながら貴子が言うと、達吉は手に下げたビニール袋を持ち上げる。
「差し入れ。今日は残業するって言うの、偶然聞いちゃって。」
そのまま貴子の近くに寄ると、近くの椅子を引き寄せて座る。がさごそとカップラーメンを二つ置いた。
「こういうときはサンドイッチかお握りが定番じゃないの?なんでカップラーメンを買ってくるのよ。」
呆れながら言うと達吉は気にした風もなく、「あ、お湯お湯。」と給湯室に消えていく。
はぁ、とため息をついて一旦パソコンをスリープにさせる。
戻ってきた達吉はあちあちと言いながら、カップ麺を開けるよう貴子を促した。仕方なくビニールを破って蓋を開ける。
線ギリギリまでカップ麺二つにお湯を注ぐと、三分待った。
「これ食べたらさっさと帰ってよ。」
そう邪険に扱うと達吉は当たり前のように「手伝うよ。」と言った。
「はぁ?なにいってんのよ。これ食べたらさっさと帰って」
達吉が少し黙って「なんでさ、貴子は…」と口ごもった。
「なによ?」
「俺が別れようと言ったとき、なにも言い返さなかったの?」
今度は貴子が黙った。何をもう終わったことを、と思ったからだ。
「それ聞くまで今日は帰らない。」
「なんでよ。」
貴子はため息をついた。
「別れようと言ったのはそっちでしょう。」
「もっと泣くかと思った。」
なんでわたしが泣かなくちゃいけないんだ、と貴子は眉をしかめる。
「貴子はいつもそうだよね。自分の意見を言わないの。」
それってさ、と達吉が続けた。
「卑怯だよね。」
「何が卑怯なの。」
こうして別れた女に会いに来るお前は卑怯ではないのか、と問い詰めたくなった。
「俺いつも試されてる気分だよ。貴子にふさわしい男になろうって頑張ってきたけど、自信喪失。はっきり言って。」
貴子はペットボトルのお茶を口に含んで飲み込んだ。
「だから?」
達吉が黙るので貴子が喋った。
「あんたが別れたいから別れたまでよ。それともなに、後悔でもしたの?」
「そっちの都合で別れようって言ったくせに随分ないい様ね」、とついでにつけ加える。ややあってから達吉が口を開いた。
「俺さ、けっこう自分に自信があったつもりだよ。付き合った女性を幸せにするくらいには。」
貴子は鼻で笑った。自分の幸せくらい自分でつかむのは当然ではないか。
「貴子はさ、なんで俺になんの相談もしてくれないの?なんでいつも勝手に一人で決めちゃうの。」
貴子は黙った。なんでお前に言う必要があるのだと言わんばかりの態度だった。
「そういうのでさ、一個ずつなんか自信なくしてくんだよ。男としての。」
達吉は平べったい口調でそれだけを言い切ってしまうと、「もっと貴子の気持ちが聞きたい。」と言った。
「わたしの気持ち?」
貴子は急に困惑したように言う。もちろん振りだ。
「そう、貴子の気持ち。それを言わないからどんどんワケわかんなくなっちゃうんだよ、俺も。」
貴子は黙った。話が流れてくまで待つつもりだった。
いつもなら沈黙をいやがって口を開く達吉が、珍しく黙っている。貴子はため息をはいた。
「わたしの気持ちを聞いてどうするの?」
「…。」
「自分のことくらい自分で決めるわ。あなたに決められる筋合いはない。」
貴子がそう言いきると、達吉が目をぱちぱちさせて貴子を見ていた。
「三分とっくに過ぎてるじゃない。麺が伸びるわ。」
割り箸をぱちんと割って、蓋を開ける。麺を音もたてずにすすった。達吉は箸に手をつけない。
「達吉がどう思おうとわたしたちは別れたのよ。それが事実だわ。」
そう断言してスープを飲み干す。それを捨てにいくと後ろから手首を掴まれた。
「貴子。」
いつになく真摯な声音に、貴子が黙った。
「貴子は俺のことどう思ってるの。」
「どうって」
少し間をおいて貴子は答えた。
「別れたあととなってはもうなんとも思ってないわ。」
達吉は手首を痛いぐらい握りしめた。
「離してよ。」
達吉の力が抜けていく。ゴミ箱に捨てて戻るとそこにはもう達吉の姿はなかった。
パソコンに向き直る。スリープ状態から起動させると、画面を見つめた。そのままぼうっと画面を見つめていると涙が溢れてきた。
なによ、なんなのよもう。
ため息をついてティッシュを取り出す。鼻をかんで涙をぬぐった。涙は後から後から流れていく。
蹲って嗚咽した。別れようって言ったのはそっちじゃないか、何を勝手なことを。涙は止まらない。
泣きつかれてぼんやり画面を見る。いつのまにか達吉の分のカップラーメンはなくなっていた。どこで食べるというのだろう。
もう終わったことだ。そう自分に言い聞かして、キーボードに手を置いた。とりあえずこれを仕上げてしまおう。
今の自分の顔は化粧が崩れてぼろぼろだ。マイカー通勤を申請しておいて本当によかった。涙をふくとさぁ、泣くのは終わり、と自分に言い聞かした。
うちに着くと、亮子が家から飛び出してきた。車から降りようとする貴子を押し込めて、自分も助手席に座る。
「どうしたの、亮ちゃん…」
「説明はあとあと!今すぐこの病院まで寄って!!」
カーナビで病院をセットする。
「?。なんで?亮ちゃん怪我でもしたの?」
「いいから!」
亮子のまぶたは腫れて目は充血していた。
ついた病院ではもう達吉が冷たくなっていた。交通事故だそうだ。一緒に飲んでいた同僚によると、一人会社に残っている貴子のことを知り、心配して様子を見に来る最中の事故だったそうだ。途中コンビニで買ったカップ麺がひとつ、遺品になっていた。
貴子は呆然として達吉の手をとる。冷たい手のひらだった。
初めて自分が今までしてきたことを後悔した。涙が盛り上がっては落ちていく。
なんで、どうして。こんな。
泣き崩れる貴子を亮子が支えた。背中をさすってくれる。貴子は頭が痛くなるまで泣いた。やがて達吉の家族が到着し、身内以外のものは遠慮して部屋を出た。
「貴子ちゃんのせいじゃないのよ。」
達吉のお母さんはそう言って貴子を励ましてくれた。泣き疲れて涙も枯れた貴子をそういって抱き締めてた。
「貴子ちゃんのせいじゃない。」
むしろ責めてくれた方がよかった。あんたのせいで息子は死んだんだと言われた方が、まだ開き直れた。
病室の外に出ると一旦家に帰った方がいいと促された。明日は休めよ、と勧められて貴子は断った。
「いえ、明日も出勤します。」
そう言い張る貴子に同僚は複雑そうな顔をして、そう、とだけいった。うつむいて失礼します、というと亮子と共に病院を出た。
途中、亮子がお酒を飲もうと言い出して酒屋に寄って地酒を買った。今日は飲もう、と泣き晴らしたまぶたの亮子が言うのに、貴子は黙って頷いた。
今日は飲もう。
普段お酒を飲まない貴子もその日は酔い潰れた。朝目が覚めるとメイクも落としてなかったと笑ってしまう。
朝日が眩しかった。今日から達吉のいないわたしの生活が始まるのだ、と思った。顔を洗って鏡に写ったのは酷い顔の自分で思わず笑ってしまった。