妊娠

 これはすべて夢かもしれない。由宇はそう思った。本当はすべて夢の中の出来事で、現実ではないのかもしれない。土曜の午後、病院の帰り道のことだった。
 昔そんな小説があったな。蝶の夢を見て、今が現実か蝶であったのが現実か、わからなくなるやつだ。
 由宇が今を現実じゃないと思ったのは、今日が素晴らしく晴れた日で、気持ちのよい気候で、そして病院に寄ったという、いつもと違う出来事のせいだ。お腹をさする。
 ───妊娠おめでとうございます。
 その瞬間の心持ちと言ったら。由宇は笑ってしまう。呆然自失としてその話を聞いていた。
 ───妊娠三ヶ月目ですよ
 モニターに現れた、胎児の様子に愕然とした。
 きちんと予防はしてたのに。なんで。
 嬉しそうでない沈痛な面持ちの由宇の様子を見たからだろうか。医者が不審気な顔をした。

 体調の変化に気づいたのは一週間前だった。吐き気が止まらず、やたらグレープフルーツが食べたい。これはおかしいと内科にかかったら、そのまま産婦人科に回された。まさか、とは思った。そのまさかだったとは。
 問題は勇二にいついうか、だった。父親が彼以外にあり得ないのだ。

 勇二は少し複雑な家庭に育った。父子家庭なのだ。母親は幼い頃に家を出ていってしまったらしい。子供はほしくないが口癖で、いっそパイプカットをしてしまおうか、と相談されたこともある。自分が働いてる父親の足かせになっていると小さな頃はずいぶん悩んだらしい。そのせいか大の子供嫌いだ。
 由宇はじりじりと照りつける太陽に焼かれながら、帰りのバスを待った。
 ───知らないうちに始末してしまおうか。
 ふと、そんな思いがよぎる。バレなければいい気もする。そう考えてから汗がどっと湧き出てきた。

 その日は折しも勇二の誕生日だった。具合の悪く吐き気のおさまらない由宇を気遣って、勇二は会うのを延期しようといっていたのに、バスに乗って家についてからもう一度連絡を取って今日会う約束を取り付けた。やはり言わなくては、という気持ちがあった。殺してしまうのにもやはり命は命だ。きちんとしたい。
 朝からグレープフルーツジュースしか飲んでない。ふらふらと由宇は布団に倒れこんだ。

「なんだって?」
 勇二は不審げな顔をして聞き返した。
「子供、できた。」
 勇二は暫く黙ったあと「なんの冗談?」と言った。
「冗談じゃないよ。妊娠三ヶ月目。」
「そんな、だって。」
 勇二も思うところは一緒らしい。ゴムを毎回つけてたよな、と呟くのに由宇は頷く。
「じゃあ、なんで。」
 勇二は混乱してるらしい。由宇は「おろそうか」と言った。勇二は戸惑った顔をしてから「本当の本当に?」と繰り返した。由宇はまた頷く。
「…。」
 勇二は思案気に考え込んでしまう。由宇は「勇二が決めていいよ。」と言った。産むにしろおろすにしろ勇二に決定権があると思っていた。
「…由宇は産みたいの?」
 続いて「俺の子供、育てたい?」と聞かれる。
「勇二が構わないなら育てたいけど。」
 そう答える。派遣の社員もやめなければいけないのだ。子供を産んで育てる間、働けない。その間は勇二のお世話になるのだ。認知もしてもらわなければ困る。
「…俺が決めていいの?」
 ややあってからそう返す勇二に由宇は無言だった。「俺はね…、何度も言ったでしょ。子供は嫌いだって。」
 自分の子供であっても?と聞きそうになって口を引き締める。
「でもこれは二人の問題だから。きちんと話し合おう。」
 由宇は黙って勇二の顔を見つめていた。

「まぁ、出産なさることに決めたんですね。」
 産婦人科の先生が、ほっとしたようにいう。妊娠したことを知っても喜ばなかったから、ひょっとしたら中絶するのではないかと思ってたらしい。
「赤ちゃんは元気ですよ。」
 モニターに写った胎児のエコーは相変わらず不気味だ。こんなものが本当にお腹のなかにいるんだろうか。
「当院で出産なされますか?」
 由宇はよろしくお願いしますと頭を下げた。

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