富山藩と売薬さん

維新が成り廃藩置県の時、富山は一度纏まったが、石川県に強制編入された(≒#加賀百万石 )

石川県議を選出するが、納めた税金が富山の望む事業には使われない
この状況に憤った県議の九代目 米澤紋三郎 元随は同志と伴に分県の建白書を岩倉具視らに提出
富山県が成立する

税金の使い道は自分たちで決めるもの

富山県分県の父、米澤紋三郎 元随は石川県議会議員、富山県議会議長、衆議院議員(政友会)を務めるが、立身前は幕末の富山藩(旧富山市の範囲)の藩学者 岡田呉陽の私塾 学聚舎で学問を修めた
幕末には藩校の他に私塾が多数あり、各地で様々な人が学んでいた

岡田呉陽
江戸末期に私塾 臨池居を運営する小西家に生まれ、岡田栗園の養子となった
江戸の昌平校で学んだ後、富山藩 藩校の広徳館のお抱え学者となる
私塾 学聚舎を運営し、米澤紋三郎などを輩出する

写真は富山市 於保多神社の顕彰碑

於保多神社は富山藩初代藩主前田利次公が浄禅寺の柘榴天神像を祀ったことに由来する
のちに現在地へ遷座
菅原道真公のほか前田利次公、正甫公、利保公が奉られている

富山藩では江戸初期から家臣団に学問と武芸を奨励し、優秀なものは長子でなくとも登用した

加賀前田家の分家である富山藩は、分藩する際に石高に見合わないほど多くの家臣を本家から押し付けられたため、収入が10万石にもかかわらず9万石近くの支出を家臣の封禄(給料)が占めていた

首を切れない公務員が多すぎたので、せめて使える人材にしなければならなかったのでしょう

文武両道を奨励した富山藩ですが、実際に武を奮ったのは江戸幕府の命令ではなく明治新政府の命令からでした
奥羽越列藩同盟の鎮圧に際して、新潟の長岡へ藩兵を出兵しました
一応、幕末まで真面目に兵力を保持していたことになります
兵あり武器あり指揮系統あり、兵站は?軍費は?諜報は?
気になるところです

加賀藩の施政下にあった越中の高岡は当初、前田利長公の城下町であったが一国一城令により転換を図り、商工業都市となった
また、医者の多く集まる町だった
幕末には適塾に学ぶ者もいたが、靖国神社創建を献策したり、朝鮮公使をするような活躍をする者はいなかった
因みに、高峰譲吉は高岡出身



幕末、富山藩では藩内で権力闘争が行われていた
江戸の藩邸を中心とした江戸派(改革派)と、領内の藩士でなる富山派(守旧派)であった
革新派の江戸詰家老の富田兵部が自刃に追いやられたり、守旧派の年寄の滝川玄蕃が革新派に追い落とされたり
また、この前後に加賀本家の裁定により、江戸派の藩主 利声は退隠させられ、本家から三歳の利同を藩主に迎えた
利同の代で維新が成った
権力闘争と財政難により富山藩は倒幕にも佐幕にもなれなかった

富山藩の財政難

支出側は
世襲公務員多すぎ問題
お手伝い普請
参勤交代
藩主就任や葬儀
火災や洪水の復旧
借り入れの金利
など

収入側は
所得税(年貢)
住民税(人別銭)
法人税(町人上納金)
政府紙幣(藩札)
でしょうか

どうやら分藩・成立当初から借金があったようです
加えて御普請手伝の負担が重かったみたいですね

ようやっと到達しました
私の富山藩シリーズは、富山の売薬りが本丸です
なんだかNHKの歴史秘話の後追い感があって恥ずかしいですが笑

江戸初期から、売薬さんは富山藩の公認のもとで漢方薬を製剤し、他藩にまで販売営業をしていました


江戸時代は各藩が一国として「鎖国」をしており、貿易赤字を気にして他藩との取引を認めていませんでした
しかし富山藩では薬売りに他藩での販売の許可を出していました
またそれは他藩でのパスポートの役割も担ったのだろうと思います

江戸中期、小西鳴鶴の立ち上げた臨池居は当初は漢学塾であったが江戸後期には寺子屋としての役割を担った
富山の売薬さんになる子供たちは臨池居で薬の辞典やレシピを教科書にして薬売りとして必要な知識を学んでいたようである

幕末、富山藩の学者となり学聚舎を運営した岡田呉陽は小西家からの養子である

売薬さん達の営業範囲は、南は薩摩(鹿児島)から北は蝦夷地(北海道)にまで及んでいました
また薬の品質や商売の仕方などを200年ほど信用を積み重ね続けていきました
先用後利という販売方法や反魂丹役所による原料管理と旅先での風紀引き締めなどの努力がありました

富山の売薬さんと顧客との決済方法は、先用後利という特徴的なものでした
お客さんが必要になりそうな薬を売薬さんが見繕ってお客さんの家に置いてもらい、次に訪問する際に使った分だけ請求するという方法です
使用期限の切れた薬の入れ替えとストックの補充、現金取引を一度にやっていた訳です
お客さんの薬と売薬さんへの信用と、お客さんの金払いに関わる信用により成り立っていたのだと思います

売薬さん達は基本的には個人事業主でした
富山藩への上納金(≒法人税)は日米和親条約が結ばれた頃で3,000両でした
藩に収められた年貢から公務員給与を差し引くと3万石残り、そこから約2万石を現金化していました
この頃は1石1両ほどらしいので2万両
上納金はこれに足すので、藩財政の10%ほどを売薬さん達が支えていたことになります

反魂丹役所の指導のもと、売薬さん達が製薬する漢方薬の原料は指定された薬種屋という原材料の卸を通したものに限られ、それ以外から仕入れる事は許されていませんでした
また、製薬の製造工程も反魂丹役所により定められていました
当時、成果品の成分分析を行う術はなく、原材料の厳選と製薬工程の管理によって薬の効果を担保していたのです

売薬さん達を指導した反魂丹役所は富山藩のイチ部局で、藩士が奉行を務めましたが実態は有力な売薬さん達による合議制の組織でした
ある時、薬種屋が選別した原材料を藩が一度買い上げた後に薬種屋に売り、そこから売薬さんへ卸す流通統制へと藩上層部が変えましたが、売薬さん達の猛反発により潰されました

私の富山藩シリーズ、売薬さん編の肝腎要
このツイートをする為に富山藩シリーズを続けてきたと言っても過言ではありません

日本全国で江戸時代の200年ほど商売上の信用を重ねた売薬さん達は顧客から様々な情報を聞いていたはずで、場合によっては日本にとって重要な情報もインテリジェント・オフィスのエージェントとしてヒューミントという形で情報を収集出来ていたはず!

と言いたかったのですが、
NHKが歴史秘話にて、薩摩藩から刀を下賜(ほぼ薩摩藩士待遇)された売薬さんの子孫を見つけ出し、インタビューしていました
正直、この回が放映される前にここまで到達したかったです笑
NHKのメディアとしての取材力を認めざるを得ません

結論!
つまり売薬さん達が、明治維新を成し遂げた薩摩藩にとって重要な情報を全国から集めたヒューミント(人的情報)として薩摩藩に上げていた証拠が有った、ということです

どなたか文系の学生さんで、この売薬さんのヒューミントとしての側面を研究してくれる方は居ませんかね?

私が富山藩や売薬さんに関するツイートをするにあたり、情報源とした書籍です

『富山藩―加賀支藩十万石の運命 (1974年)』 坂井誠一
#富山藩
#富山の薬売り
#売薬さん
#ブクログ
http://booklog.jp/item/1/B000J9F83G

以前のツイートで、富山藩は権力闘争と財政難で倒幕にも佐幕にもな「れ」なかったと書きました
異説を立てます
薩摩藩の動向を売薬さん達から知り、どちらにも備えて、ゴタゴタを言い訳に中立を取っていたとしたら?
富山派(守旧派)の藩主 前田利保がインテリジェンス(分析された情報)を藩の政策決定に用いていたとしたら?

富山藩は明治維新後の新政府の命令である奥羽越列藩同盟の鎮圧に本家の加賀藩より多くの藩兵を出しています
また、兵士は洋式兵装でした
武器弾薬を揃え、用兵に合わせて訓練された兵士を確保していた訳です

売薬さん達からの情報を活用していたかどうかは藩主の政策も研究する必要がありそうです

売薬さん編 番外編

富山表風説書
富山前藩主の利保からの要請で富山藩の権力闘争を裁定することになった本家の加賀藩(富山藩に対する債権者でもある)が、
富山藩に密偵を送り、政治経済文化風習等をつぶさに調べさせて作らせた報告書、らしいです
江戸時代に諜報員がいた証

前掲の書籍にも名前が出るだけで内容は不明
見てみたい気もするが絶対読み解けないので、どなたか研究してくれませんか?

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