永楽市場

十月十四日は台北名残の視察日であった。
午前中にまず第三高等女学校を参観した。
同校は西門町三丁目という所にあって、
敷地四千坪に近く建坪千六百坪と註され、
生徒六百近くのうち内地人は極少数で
殆ど全部が本島人であるそうだ。
一室で茶菓子の饗応を受け
校長から学校内容の概要に関する説明を聴いている間、
制服の生徒が私共に給仕するのを見ると、
いずれも色は黒いが内地女子といささかの変わりなく、
邦語《日本語》は完全なものであった。
卓上にある作文、和歌などを読むと一通りできている。
当校は高等普通教育に兼ねて師範教育を施すので、
卒業生は多く教員になっているらしい。
就業
年限は四年で、
六年程度の小、公学校を卒業した者を入学させることになってる。
概要説明が終わると各教室で授業実況から寝室および洗濯場まで見せてもらったが、
刺繍、裁縫その他の手芸品はよく出来ていた。
以前は実科を主とした学校であるからでもあろうが、
本島人は根気強いということもその原因であろう。
次に大平町六丁目の太平公学校という本島男児の小学校を見た。
明治31年創立のときは大稲程公学校と言ったらしく、
かつて北白川宮殿下ならびに同妃殿下、久邇宮殿下ならびに同妃殿下、
次いで皇太子殿下の台臨あらせられた学校である。
学級三十、児童千九百四名ほかに高等科の学級二、児童九十六名を収容しているが、
内地人児童の小学校と違った点は
一、小学校にない実科があって、
五年生以上は農業、商業、手工の一つ二つを課し、
随意科として漢文科を置くことなどであるが、
二十四名の職員中二十名が本島人である。
これも各教室の授業を巡覧しているうちに、
内地人の教師か支那人かということが顔を見て直ぐ判るようになった。
本島教師の国語の発音は怪しいもので、
一学年の国語科の時間に兵隊の図画を掛けて先生が
「一番前の二人は何をしていますか?」
とやると
「生徒がダッパを吹いています」
と答える
すると先生もまた
「そうですね二人はダッパを吹いています」
といった調子だった。
《ラッパのこと》
いわゆる「ドンゴ読みのドンゴ知らず」流で滑稽な感じがした。
《恐らく論語》
この学校の卒業生からは少なからず秀才が現れるそうで、
現に塑像家となって近く帝展の審査員にでもなりそうだという今年で二十歳前後の男もその中にいる。
その者の作品もあったが、
支那人少女の半身像で、傑作だという話だ。
っこで生徒の作文綴りなどを読んでみたが、
まず一通りのもので内地人に劣るとは思われなかった。
それから永楽町の市場の大熱鬧《騒がしい、盛況》状況を見てその騒々しさに面食らった。
市内にこうした消費市場が五ヵ市にあってこれもその一つだそうだが、
約八百坪の建物内には茸菜、鶏、豚、生魚その他食料品、雑貨などを山のように積み並べ、
さらに三千坪ばかりの敷地内には露店が幾百となく連なり、
中でも飲食店には食い意地の張った本島人が群れ集っている。
顧客が全部本島人で豚の大きな肉を買って出る者、
生鶏生鴨を二三羽も提げて去るもの、
野菜を抱えるもの、
雑貨を選ぶものなどで押すな押すなの盛況は実に素晴らしく、
中でも数多いのは獣肉店で、
生魚の店には内地のものと違った各種の魚を見た。
数字的に言えば開場時間午前五時から日没、年中無休で、
出入り人数一日平均一万五千人、
出店数は二百五十五、
一年の売上は七八十万圓、
野菜は近接郡部と市の 隅《原文ママ》から持ち出し、
地方特産物は季節季節で、
中部南部の諸方からも搬入するそうだ。
売店使用料は一ヶ月最低四圓五十銭、最高十五圓、
露店は坪当たりで一坪一日六銭の割合で貸し、
野菜入荷料としては原価百分の三を徴収しているそうだ。
私は飲食の露店に興味を持ち長らく立って眺めていると、
その商人は「大人ウマイウマイ」
と言って一勺掬って突き出してみせた。
それはパッと見は薩摩汁のような物で、
いかにもウマそうに見受けられた。
どうも非常に緊張した光景でこういう珍しい場所は長く忘れることが出来ないであろうと、
カメラを飲食露店に向けた。
(大正13年10月14日、台北にて)

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