船内雑事(下)

十月十日、午前四時に目が覚めた。
九日の晩は強く寒さを感じたから、昨夜も予め冬シャツを着込んで寝たが、
案外に暖かで汗ばむ位であった。
室内で洗面を終え直ぐ甲板へ出て海を眺めると、
東天紅を潮して今まさに旭陽の昇ろうとするところだ。
ちょうどここには横雲が棚引いて、よく見ると模糊とした山影がある。
航路はまだ陸地のあるあたりを離れないらしい。
山影の下に隠現灯台の光がピカリピカリとやっているから、
どこだろうと思って、後で部屋ボーイに訊くと平戸の灯台であった。
ぼんやりした夢のような陸地の一端に灯台の火が光って、
その上から旭が立ち昇ろうとする爽みの海上の光景は壮大なものである。
サブライム《原文ママ》とでもいうべき趣である。
昨晩は月下の海を見たが、
これはちょうど玄界灘を船が進んでいる時で、
甲板には一組の男女がベンチにならんで密話しているほかに人影もなく、
船内の情景とともになんとなく凄愴の観であった。
玄海といえば、通常でさえ船の揺れるところであるから、
台風の通過した後のうねりで多少揺れを感じるかもしれないというので、
私の室内では早くから寝台に身を横たえた者もいたが、
動揺の程度は格別な事もなかった。
それでも晩食の銅鑼を聴いて食堂へ出ようとすると、
廊下を歩くのによろよろとして足許が定まらず、
酒にでも酔ったようであった。
晩食はかなり食欲があったので、通常より幾分余計に食べて、船室の卓を囲み、
また茶果を喫しながら一時間ばかり雑談をかわした。
要するに恁麼のことなら物騒な事故の多い汽車旅行よりも遥かに安易で且つずっと安全だ。
そこで船中生活の頗る安易であることを社内の諸君に知らせてやろうと思い付き船の上層にある無線電信局へ出掛け、
生まれて初めての「ナイ」を打った。
この時は午前九時過ぎで船は五島沖を通過してしまっていた。
電信技術者は受信すると、直ぐコツコツやり始めたが、
この無電は内地の下津井無電局(讃岐の高松と丸亀の中間にある海岸地)で受け、
それから内地の普通電信に移されるので、高岡へはたぶん正午前後までに到着するだろうと言った。
私の同室では高田新聞の山本彦太郎君が直江津の自宅へ無事を報じ、
新潟毎日の浅海琴一君は同社の編集へ宛てそれぞれ一信を発した。
電信局を降りて船楼からしばらく海を眺めていたが、
肉眼では島影も見えず、
目の届く限りは水天渺茫として黒ずんだ波の間を蓬莱丸が進んでいく。
ふと気付くとどこから来たのか一羽の雀が欄干に留まっていた。
これも船客の一個で、内地から台湾に渡航しようというのだろう。
今朝から私の方への訪問者が次から次へとやって見える。
隣室の與田弘業社長が寝巻き姿で気焔を揚げに来て、今回の挙に関するいろいろの内情談を聴かされたのを初めとし、
人員の班別が決定したので、
私の所属する第七班の班長選定につき、日刊山形の政治部長の鈴木悌三君が打ち合わせに来る。
先般高岡で来訪を受けたことのある新聞の時論社長秋武泰助君が一行の外の単独行動として征台の途に在るのと見えて私の姓名を発見したと言って来室する。
第七班の班長に推された帝国通信社の細井光延君が挨拶に顔を出す、
台湾日日の東京支局主任秋元政司君が記章を持って来て、
非常に多忙だからといって二つ三つ話をして直ぐに立ち去る。
よってこちらからも電通社長の光永星郎君を一等二十一号室に訪問し、ついでに樽新の阪牛君の部屋を覗くと、
好男子身辺の注意周到で、
頭髪をてらてらと光らせ、顔をも剃りたてで輝いていたものだ。
「主婦の友の九月号に君一家のお安くない口絵写真が出ていたぜ」
と礼賛一番してご気色を伺うと、
「あれは古い写真で社員が送ってやったのです、子供のいない時ですからな、今は四人の子供持ちです」という口上であった。
四人の子供を持っても恁麼《いんも、こんなにも》に光っているんだもの。
今日は海上に見るものはない、
幾度甲板に出ても黒い波ばかりだが、
朝のうちに石油発動機漁船が一隻木の葉のように浮いていた。
次で午後二時頃に千五六百トンばかりの汽船が通り過ぎ、
四時二十分に二本マストを立てて煙突から黒煙を吐くトロール漁船が本船の横をすれ違った。
非常な遠征を試みるものだと思ってその勇ましい活動ぶりを眺めていたが本船のウネリを食らって大波の間へ舳を突っ込んだのでヒヤリとさせられた。
この時三等室から十二三の男の子が甲板へ出ていて
「やあ彼の船が沈む沈む」と叫んだものだ。
以上三隻の外に船影を認めなかった。
本船の動揺は左右動二尺あまり、これは甲板の籐椅子に横になり、
船の欄干と水平線との離合の差で目測したのである。
したがって室内にいるとメキメキと妙な音がする。
室内の諸君は殆ど寝て過ごしているが、
まだ十五号室には船酔いの醜態を演じたものは一人も無い。
晩は大阪商船会社が晩餐を饗応するというので、
普通船客の食事時間には出席せず、八時半ごろ羽織袴の礼装で足袋まで穿き、
胸に紅線白繻の金色章をかけ(これが台湾大会の記念章)
村長さんが赤十字の大会にでも出ていくような姿をして次第に揺れの激しくなる廊下を食堂へ出てみると、
嵌木の床に深緑色の絨毯を敷き詰め、
棕櫚の大盆栽などを据え立派に飾られた室内でフランスとイギリスとを取り混ぜた純洋食の御馳走になった。
金ピカ制服の船長小幡幸治郎君の歓迎辞など型の如くで、
余興には妙なことをやった。
事務長の佐藤清君が突然廊下の方から
「生蕃が来た来た」
と叫んで入り込む後から、
赤い腰巻きに陣羽織のような袖なし着を着た半裸の赤黒い男が生蕃帽を被り、
腰に蕃刀を帯び手に抜き身の槍を携え闖入してきた。
勿論船員の一人だろうから始めから終わりまでうんともすんとも言わず怖い顔をしていたから滑稽だ。
食事後同船の藤山雷太さんが、
欧米の近況と列国の経済的復興に関する長い講演を試みられたで、
私の部屋に帰ったのは十一時近くで、船の揺れは相応に強かった。
そのためかどうか同室の四君は皆とくに寝台の上で白河夜舟の体で、
あとで聴くと、山本、田中の二君は食事もできなかったそうだ。
今夜の講演の席で江戸周翁が初めて私を見付け
「君も来て居たっけか、一向気が付かねえであった」という
「来ているとも、篠原君は今度は流石に見えないね」
「篠原はこの間僕とこへ来たっけか、余っぽど弱っていた」
「矢張り年の加減かね」
などと言葉を交わした。
遥か向こうの席から私を見付けて挨拶されたのは、
福岡日日の柱石とも言われる原田さんであった。
(大正13年10月10日、蓬莱丸にて)

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