台中瞥見

今日は台中へ来た。
 三時半頃着中すると直ぐ、
市内をグルグル引き回されること例の如しで、
真っ先に公園を一巡り、これが九分間、
水道水源地の見物に五分間、
第一中学校に向かうのに五分間、
同校参観が二十分間、
市内の大通りを見るのが二十分間、
農業倉庫の往復に五十分間m
第一市場十三分間、
それからまた五分間を費やして公会堂の官民合同歓迎会へ運ばれ約二時間辛抱、
七時半にようやっと樋口旅館というのへ腰を下ろしたと思うと、
三井物産台中出張所主任、市常設委員土井滋治君と、
台中地方法院検察局検察官長すなわち内地の検事正武井羽二郎君とが、
否応無しに私を引き摺り出し、
富貴亭とかいう料理屋で郷の話の仕合いっこをするということになり、
本当に帰宿したのが九時半、
それで明日は朝六時出発。
台中というところは樹木が多くて風が涼しくて道路が広くて四方が開いていて住み心地の良さそうな市邑だ。
山翠く水清く気候適順で爽快の地であると案内記に書いてある。
戸数九千、人口四万、米と芭蕉実《バナナ?》と、砂糖、柑橘などの大産地の上に集散地となっているから将来有望だと言われている。
公園の池の中島に銅製の後藤新平さんが右手をばっと開き思いきり突き出して立っていた《そうはい神ざk…》。
水道は鑿泉式で動力を用いて汲水するのであったが、
私は地下水水道なるものをこの土地に来て初めて見たわけだ。
中学校は四百二十七名の生徒(内地はこの内二十一名、あとは皆本島人すなわち支那人)を有し、
職員二十二名の中に富山県の渡邊清善というものがいる。
生徒の大部分(三百八十三名)は寄宿生で、
学寮内部も巡覧したが食堂に並べてあるのは一菜で、
白魚を油と鶏卵とで揚げたものであった。
学費は食費を初め寮費、授業料、旅行積立金、校友会費、雑費までを合わせ十八圓三十銭で済むそうだ。
寮舎内にある生徒用の椅子は、私が主筆室で用いているような籐製のもので、
値段は二圓ばかりで堅実第一、これがもっとも経済的だと聴いてなるほど台湾だと思わせられた。
農業倉庫は籾の火力乾燥をやっているから、まずこれに目を付けたが、
ボイラーの燃料は籾殻を用いて一昼夜に百二十石を乾燥し同時にこれが玄米になる。《稲刈り後の籾殻のついた籾、米は適切な水分量まで乾燥させた後に籾摺りされる》
米を手に取ってみたが粒形不揃いで光沢のない青熟の多い粗悪米であった。《井上江花は富山県産米の改良に寄与しており稲作の知識がある》
こちらの米は水分16~17%の軟質米で、
秋季の雨がちな点においては北陸地方がソックリであるらしい。
乾燥調整費は一袋につき六銭(一袋百五十斤の六斗四升)を徴収している。
乾燥設置費を聴いたが倉庫主任はわからないと言った。
但し倉庫と工場とで五万二千圓を要したそうだ。
この倉庫の所在地は台北の旧市街の一部で、
旧のままの本島人部落の有り様はヒドイものであった。
柱は竹で屋根はこの辺で防砂用に作っている萱で葺き、
竹の柱に萱の屋根の文句が例えでないことを知った。
学校公設市場は台北のものと大同小異で、
構内に覗き眼鏡が出ていた。
ここの市場は台北の物よりも不潔であったから私はちょっと覗いただけで、
あとは出てしまった。
煉瓦造りの公会堂は台湾料理で食い意地の張った私は献立表を取っておいたから、
どんなご馳走が出たかを報知する。

雪白官燕(スアツベツクアンエン)純白の燕の巣を重湯煎にして味附したもの
加里大蝦(カアリタイヘイ)大蝦《おそらく海老》を油揚げにしたもの
鶏易靈筍(ケイエツロウスウシ)アスパラガスをスープで煮たもの
三絲魚翅(サムシイヒイチイ)精製した鱶の翅《フカヒレ》を煮たもの
各●《口へんに多》●《口へんに示》蝦(カツトウチイヘイ)子蝦《おそらく海老》を油揚げにして卵、馬鈴薯を添えたもの
秀珠毛茹(シユウキユウモウコオ)漢口産の椎茸を煮たもの
龍可蝦飽(レンカツヘイバウ)肉饅頭の一種
八寳龍鶏(パツポウリヨンケイ)蟹肉を焼いたもの
紅焼全鼈(アンシヨウオアンピイ)鼈《スッポン》の丸焼き
杏に荳腐(ヒエンジンタウフウ)杏の実に豆腐えお甘煮したもの《たぶん杏仁豆腐》

ここでは日本芸者と支那芸者の混合隊がお酌に出た。
私を料理屋へ引き摺っていった両君は当地官民間の第一流紳士で大層な勢いのものであるが、
だんだん話し合ってみると、
土井君は高岡の関山、筏井両弁護士と同窓で清水徳太郎君の中田家婿入り事情など詳しく知っていて、
わが社の島田重役とは莫逆であることがわかった。
武井君は原弘三さんの子息、同業、原潤一郎くんの令弟で、大町圓兵衛、大内秀麿、牛塚虎太郎(牛太郎牛太郎と同君は呼ぶのであった)その他の諸君と旧友であったそうだ。
高岡のこと、富山のこと、金沢のこと、金沢の柿木畠、池田町のことなど、
次から次と話緒が尽きず、一時間限りの約束がツイ長座になった。
樋口館の横に劇場があって台湾役者の芝居の騒がしさもいつの間にか止み、
この通信を執筆していると、前を通る按摩の笛が静かに流れた。
(大正13年10月15日、台中にて)

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