駈け足見学

台湾神社の次に商品陳列館に行って、
台湾の生産品を一覧し、
一行中同館でそれぞれ買い物を調べたが、
買い物ならば帰途の方がよいだろうと考えたから無しにした。
陳列館の庭園は日本風に見事に出来ていた。
この構内には言うまでもなく、
道路のいたる所で見るものは棕梠、擯榔子《おそらくビンロウシ》、芭蕉、台湾松すなわち榕樹《ガジュマル》などで、
南国の趣きはこれらの植物より感じられ、
滿洲の都市大連などとはまた異なった感じがした。
陳列館から鉄道ホテルへ回ったのは正午近くで、
そこの大食堂で台北商工会主催の午餐会が開かれ、
会長の高木友枝という信紙が台湾をよく見てくれるようにと望まれた。
この人は長くドイツにいてドイツ人を妻としているかただと、
私の近くに席を置いた土地の役人が教えてくれた。
商工会は内地の商業会議所に似た目的で組織された実業家の団体である。
午後一時、鉄道ホテルを出て専売局を訪ね吉岡局長から専売品に関する概況を聴き、
そののち樟脳、阿片などの工場を巡覧し、
樟脳の強い匂いや阿片の甘辛い変な匂いを嫌になるほど嗅がされた挙げ句、
阿片を吸っているところまで見せられた。
この者は老年の本島人で、
当地で煙者と呼ぶ阿片常習中毒者の一人であるが、
製造された阿片の品質を鑑定するために雇われ、
寝ながら好きな阿片を喫って月給を百五十圓ばかり貰っているのだそうな、
飴のようなエキス体の阿片をどうやって吸うのかと不思議に考えていたが、
行っているところを見てようやく合点がいった。
阿片の吸煙はかつて本島人全部の習癖ともいうべきものであったが、
今では取り締まりの結果、許可を与えた約四万人に減少したと、
同局長も説明し台湾事情と題する総督府の出版物にも記されている。
専売局から博物館を見学させてもらったが、
ここには生蕃が使用する武器・服装、生蕃の模型など頗る物凄いのがウンとあるので、少し念入りに見ておいた。
台湾の石器もまた私には珍しく、《井上江花は考古学に関心がある》
石斧の馬鹿に大きなものなどを列べてあった。
これを使用した人種は多分生蕃の祖先であろう位で学説はまだ決定していない。
最後に総督官邸の茶話会に臨み、
つい鼻のさきのテーブルにいる伊澤新総督《伊沢多喜男》の雑談だの、
型通りの歓迎辞などを聴いた。
総督自身ですらまだ十分に台湾のことを分からないから、
諸君も分からない人が多いだろうからよく調べて意見を述べていただきたいとうようなことで、
恐らくこれは掛け値のない率直なところであろう。
茶話が済むと露台《バルコニー?》へ出て庭園の写真などを撮ったが、
そこで総督が苦笑している顔が、ある人が描いた絵にそっくりであるのが笑止《おかし?》かった。
今明、基隆の公会堂に伊沢総督を除く歴代総督の大きな額写真を見たが、
樺山さんと乃木さんは質素な略服で、
あとのは勲章の化け物みたいな人ばかりであった。
こう並べられては総督の人物の変遷を見せつけられるようで、
情けないようにも感じられてならなかった、
そうして夕景に漸く旅館に入ることを許され、
先ず湯に飛び込んで浴衣掛けで涼を納れていると、
もう夜会の時間だと催促されて、
また洋服を着て今度は、
東薈芳と呼ばれる支那料理店へ出掛け、
爆竹やら、支那芸者の黄色い声の唄やら、十幾品を皿を重ねられる御馳走やら、私ども一行本日の行動を撮ったくすぐったいような活動写真やらを見せられたり、聴かされたり、食わされたりして、くたくたになって、
十時頃に一人、支那人力車を呼び宿へ逃げ帰った。
宿は本町の太陽館というので、
同業六人がこの家の客となっている。
今日の日程はザッとこんな調子である。
手元の印刷物を焼き直しして有理らしい事を書けば限りないけれど、
それは一切この文章では割愛して、
カバンの底にしまっておく。
支那芸者も当地のは大いにハイカラになり、
例の耳かくしなんかで、
高い踵の佛蘭西《フランス》風の洋靴を穿き、
腕と胸とをあらわにした洋化支那服《おそらくチャイナドレス》で、
スカートを短くし、燥やぎ《はしゃぎ》返っていた。
支那楽の騒々しさは気でも狂いそうだが、
その中には三河萬歳のような調子のものがあって、チョイト面白かった。
台北も暑い。
まだ蚊がいるので、蚊帳を吊ってくれた。
その蚊帳の横で今、日程の覚えだけを走り書きにしたところだ。
(大正13年10月12日、台北にて)

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