首狩り道徳

蕃人に関しては大分材料を手に入れたが、聴けば聴くほど蕃人諸君に対し欽慕の情に堪えなくなってきた。
「どうだ生蕃へ婿入りをしないか」などと、
私は若い同業諸君に戯れ話を言っている。
昨年宮内省の田邊尚雄さんに汽車中で遇った時、
生蕃音楽調査のため山地へ踏み込み、
蕃社の歓待を受けたときの体験談のインタビューを試み、
蕃人が珍客として田邊氏の身辺を保護する様子は懇切極まりなく、
義理堅いことも驚くべきものがあったと言って、
盛んに蕃人を賞揚されていた。
昨日殖産課長の喜多氏が言うにも、
蕃人の気風には我が国の古武士の面影があって、
ある蕃社間で戦争が起こったとき、
台湾総督府の警察が調停若井を試みて対等の条件で手を打たそうとすると、
敗戦側が承知せず、
負けた者が対等条件で和解するなどは武士が廃れるから、
一度勝った後でないとそのような仲裁には応じられないと主張したそうだ。
蕃人が帰順するときには官憲へ銃器を引き渡すけれども、
蕃刀は武士の魂として決して捨てないとばかりか、
畑を耕すときでも刀を佩びている。
帰順蕃が不平を持って官憲に反抗する場合にhあ、
従来貰い受けた品物一切を綺麗に返納し、
こんな恩恵を受けたままで敵対することはできぬという口上を述べ、
その後堂々と戦うそうだ。
武士気質の点において往時の日本人を共通しているから、
理蕃事業もやり方に依っては必ずしも困難ではあるまい。
蕃人を治めるのは鮮人を統べるようなものではなく、
民族的反感から母国を悩ますことは無かろうと信ずる。
光永星郎君などは世界の大勢から見て台湾の異民族に油断はできぬとの意見らしいが、
私はそうは思われず、
本島人である支那人にもまた何等危険性を見出だし得ないのである。
蕃人の首狩りは今日なおその陋習が存在しているそうだが、
彼らにとってそれは祖先の遺訓で根本道徳である。
故に首狩りに出掛けて目的を達成することは神霊に祝福された印として、
蕃社へ帰ると盛大な祝祭を挙げ、
数日に亘る長宴を張り、
舞いかつ歌って歓楽を欲しいままにするそうだ。
首狩りが行われる動機は、
壮年の班に入ろうとするとき、
首狩りの達成に依って一人前の装丁となるのだ。
次は悪疫流行の祓いとして、
あるいは争論の勝敗を決するため、
あるいは凶兆のあった時に禍を未然に祓うため、
自身の嫌疑を解き、冤罪をそそがんとするとき、
恋女の競争に勝とうとするとき、
自己の武勇を誇らんとするときなどで、
一生の間に首狩りをしない限りは、
祖先の霊は極楽へ入れてくれないとの信仰さえあるから、
この変風の矯正には相応年月を要するに相違ない。
しかも彼らの欲する首は肥満した男の座りのよいものであるから、
光永君の首なんかは蕃人が涎を流すでしょうと殖産課長が演説中に賛美した。
肥満した男が蕃地へ入ろうとすると警察は必ず、
アナタの首は蕃人の欲しがる首ですからご注意なさいと言うとのことだ。
たぶんそのため台湾の役人には首の貧弱な総督や長官を据えているのだろう。
喜多殖産課長にしたところで痩せ細り座りのわるい首の持ち主である。
書物を見ると取られた首の統計が出ている。
明治29年から大正11年末までに6,891人で、
警察官と隘勇と人民である。
その外傷者は10,954人。
帰順蕃には化育の方法を講習し、農事を推奨し、教育を授け、貯金などをさせているので、
蕃人中で医者になったり官吏になったり看護婦になったりするものが多いそうだ。
蕃婦も今は白粉をつける。
御園白粉でなければダメだなどと品選びさえするというから、
ここに至れば締めたものだ。
大谷光瑞師は蕃人に足袋を奨励すればよいとの意見で、
足の皮が柔らかくなれば断崖絶壁を動物のように駆け回ることも出来なくなり安全性を帯びてくるというのである。
東薈芳で生蕃の活動写真を見ると、
若い蕃婦が日本服を着て帯をお太鼓を結び可愛らしい顔をして作業に従事していた。
しかし猛烈は未帰順蕃も中々多いのでこれに対しては電気が通っている鉄条網を張って封鎖し厳重に警備され、
さらに必要な位置には火砲さえ備えられているが、
鉄条網59里、警備線延長240里とのことだ。
蕃人に関して書くべき事項は少なくないけれども、
今は首狩り談位に留めておく
(大正13年10月14日、台北にて)

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