見出し画像

突然のクモ膜下出血を発症~闘病・リハビリ~家族への想い

ここ数年、私の人生は充実していました。
2019年に富士山写真集を発売し、2020年~2021年には念願だった
キヤノンギャラリー(銀座・大阪)での写真展を開催。
写真家活動だけでなく、カメラマンの仕事も充実し順風満帆に思えた、
そんな日々が突然終わりを告げました。

1月末にクモ膜下出血を発症。
死亡率50%、社会復帰率30%とも言われる恐ろしい病気です。

1/28の早朝、突然の脳出血により私は倒れました。
脳卒中の中でも特に致死率が高いクモ膜下出血でした。
激しい痛みに助けを求める自分の姿を少し覚えていますが、
その後どうなったのか、意識を失い記憶はありません。

生存率は50%、今回何故?命が助かったのか。

ちょうど妻が出勤前、子供が学校に行く前で発見が早かったことが幸いしました。
また自宅から消防署が近く、救急車がすぐに駆け付け応急手当を受けたことや、
救命病院が自宅から1kmほどの近場にあったなど、幾つかの奇跡がありました。

救命病院に到着した直後に2度目の脳出血が起こりましたが、そのまま手術を受けました。
(再出血すると特に重症化しやすい)

計2度の脳出血、意識不明の状態での病院への搬送を考えると、
そのまま亡くなっても不思議ではありませんでしたが、
家族による発見と病院での処置が早かったことで命が助かりました。

手術後は体に管を通され、大量の薬を投与され続け、
生きていると言うよりも生かされている状態でした。
時々目覚めていたこともあったようですが、私には1カ月ほど記憶がありません。

妻は医師から、たとえ目覚めても多くのことを忘れていたり、
まともに会話が出来ない可能性もあると、告げられていたそうです。

1カ月間の意識不明、何を見ていた?

意識の無いあいだ、私の記憶は異世界にありました。
そこで私は謎の組織から様々な人体実験を受け、また世間からは激しい中傷を受け続けたりと、
心身ともに地獄のような日々を過ごしていました。
とても夢などと言う簡単な言葉では表せない、リアルな世界でした。
組織から肉体改造された私の体は不死身になっていて、どんな酷い暴行を受けても死ぬことはありませんでした。
あまりの苦しみに殺して欲しいと頼んでも、死ぬことはできないと嘲笑され、地獄の日々は続きました。

しかし圧倒的な暴力に屈していた私の意識はやがて正常に戻り始めました。
組織の活動や異世界での出来事に疑問を持ち、対抗するための意思を強く持ったところで、
私は長い眠りから目覚め現実世界に戻りました。

何もできない肉体、絶望からの再スタート

3/1に意識が戻ったとき、自分の姿に愕然としました。
1カ月ちょっと寝たきりだったため、全身の筋肉が落ちてしまい、
ベッドから動くことができませんでした。
言葉もわずかに声がでるだけで、思い通りに話すことはできませんでした。

寝たままトイレを処理して貰い、食事はお粥を食べさせて貰う、そんな日々。
しかし数日もすると上半身が動くようになり、ベッドから起き上がり、
自分で食事できるまで回復することができました。

復活にむけて、社会復帰率は約30%

3/5からはリハビリ病院に転院し、本格的なリハビリメニューが組まれました。
歩くことと、日常の生活動作ができることを目的に、日々コツコツとリハビリに取り組みました。
また同時進行で、知能検査も行われました。
脳の病気と言うことで最も心配されたのは、記憶や思考の部分の障害です。(高次脳機能障害)
様々な検査が行われましたが、幸運なことに記憶や思考は正常で、
測定したIQは122以上という結果になりました。
「以上」とは、リハビリ病院ではこれ以上は測定不能とのことで、
病院でも前例が無いほど高水準の結果とのことでした。

私の記憶は、今まで生きてきた全てのことを覚えています。

何より家族やお世話になった方々、今まで出会った全ての人々との関わりを覚えていられることは、
本当に良かったと思っています。

画像1

再び歩けるように、そして走れるように!

「歩く」と言うことは、つくづく子供のころに学ぶものだと実感しました。
自分が歩き始めた事は覚えていなくても、自分の子供が歩き始めた事は、
今でもよく覚えています。何度も手をついたり尻もちをついたり、
ついに歩き始めたときは感動し妻と喜び合ったものです。

手足が伸び体重が増えた大人が歩きを覚えるには、常に転倒のリスクがあり、
転倒の仕方によっては骨折や様々なケガをする可能性もあります。

車椅子や歩行器を使いながら、歩き方を体と脳に覚えさせました。

やがて4月初旬には器具なしで歩き始め、5月初旬には1万歩以上歩けるようになりました。

今は再び走れるように、そして登山ができるようにと、
目的を更新しながらリハビリを継続しています。

画像2

家族への感謝、そして第二の人生へ

私は常々「太く短く」生きたいと願っていました。
早く死にたいと思っていたわけではありませんが、
後悔の無いよう日々チャレンジし、達成することを自分に求めていました。
それなりに自分の人生には満足していて、今回47歳で亡くなったとしても、
それが自分の人生であれば受け入れることはできました。

しかし、そんな私にも家族がいました。

私を生かそうと病院に運び、入院後も献身的に動く妻の姿や、
「お父さん、お父さん」と心配し続ける8歳の息子の姿を知り、まだ死んではいけないと思いました。
私の命を助けてくれた妻と息子のために、「第二の人生」を生きていきたいと思っています。

6月に入り、入院生活も4ヶ月経過しました。
コロナ禍で面会禁止だから家族とはずっと会えていません。
退院したら最初に何を食べたいですか?と聞かれたので、食べ物は何でも良いから家族と食事がしたいと答えました。

退院は6月下旬を予定しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?