エネルゲイアとキーネーシス

エネルゲイア的生き方と、キーネーシス的生き方の比較が登場する有名な書籍といえば、「嫌われる勇気」を思い浮かべる人もいるだろう。

この本の中で、登山を題にエネルゲイアと、キーネーシスが書かれる章がある。

キーネーシス的行為で登山をする場合、ヘリコプターで山頂にいき、少し滞在してヘリコプターで帰ってくればよい。
エネルゲイア的行為で登山をするならば、登っている事自体が登山であり、結果登り切れるか否かは問わない

とある。
ここまで、読んだ時にふとそんな違いがあるのか、
まぁどちらでもいいのではないかな、と思った。
多くの人はこの比較をするとキーネーシス的行為は趣がなくつまらない。本質を捉えていない行動だ。
と思うからこのような比較が使われているのだと思う。
しかし、実際にSNSを見るとどうだろうか。
如何にも載せる為に撮られた様な写真が並べられている。
ここで承認欲求の話をすると長くなると思うので、
承認欲求の話は一度切り離して考えるが
結局リアルの行動はキーネーシス的行為であり、
写真を撮る為にどこにいくか、その過程は関係なく、求めている先が1つの結果である行動も多いのではないだろうか。

ふと、先日耳にした会話で
「スカイツリーに行きたい、そこで一緒に写真を撮りたい」
というものがあった。
違和感は覚えたが、この感覚はもしかすると
いまやマジョリティなのかも知れない。

昔(?)の人々の感覚とは合わないだろう。
変な時代になったと、新聞のコラムに書かれているのを幾度となく見てきた。

ただ、思う。

どちらでも良いのでは?

ヘリコプターで山に登ろうが、スカイツリーに写真を撮る目的で行こうが。
どちらも共通しているのは、その時点でその人々が正しい、有益だと思って行動しているという事だ。
ステレオタイプが正しい訳でも、映えさせるのが正しい訳でもなく、自分はこう思って行動しているが、他の人は違う感覚で行動し得ると理解すれば良いのではないかと思う。

多様性と言えば聞こえは良いが、
多様性が一定を超えると理解不能な性質を目にするだろう。
アレルギー反応を示す人もいるが、自分の性質を主張するのであれば、アレルギー反応という性質も理解してフェアだろう。

例によって纏まらないが、フリック入力で長い文を書くのは疲れてしまうので、その性質も理解していただき、中途半端に終わってしまうこのノートをお許しいただきたい。

それでは、また気が向くときまで