療法士の当事者研究と「臨床の知」

 中村雄二郎著の『臨床の知とは何か』(岩波新書)を読んで、この本のなかに私が見たい答えがあるように感じ、動き始めたばかりの「療法士の当事者研究」の営みと『臨床の知』に、何かどこかにつながりがあるように直観し、その接続を言語化してみたいと思った。
 まずは中村雄二郎のいう『臨床の知』とは何だろうか。これは近代科学の知がもつ限界を乗り越えた知の姿ということになる。それでは近代科学の知とはどのようなものか。
 近代科学の知とは、普遍性、論理性、客観性を原理とした知であるとする。そして、それらが軽視し、無視したものはなんだったのかと問う。その答えとして、コスモロジー(世界全体の有機的つながり)、シンボリズム(象徴表現)、パフォーマンス(受動と能動の往来のある行動)の原理だとする。 
 近代科学の最大の失敗として、地球としての個、そして地球に存在するあゆる個にとって、その健康や生命の質が劇的に低下していることを指摘する。そして、その絶対的力に人々は完全に飲み込まれてしまっている点をあげている。もはや容易に抜け出ることができないドグマとなっているという。
 そして『臨床の知』の学問的貢献としてフッサールの現象学やポランニーの暗黙知を挙げている。
 「出発点をなすのは、生活世界に関する、学問以前の単に主観的で相対的な直観である。このような直観は、とりわけ、近代の客観主義の偏見によって学問以前のものとして蔑視されてきたけれど、ここにあるのはまさに、主観的なものの固有の存在様式である」P34
 「ここに示されている暗黙知の働き、つまり、知ることの技術(アート)を獲得するうえでなされた努力は、一定の個別的要因を自己の身体の延長ととして同化し、それにわれわれの副次的意識を染み込ませることで緊密な焦点的本体になる企てでもある。そしてこれは、まぎれもなく能動的な働きであるが、そのなかにはつねに、事物に従うという受動性の要素が含まれている。というのも、個人的知識は、その仕組みによって、われわれ各人に対し、全体構造の形成に関与することを要求するからである」P41-42
 そして、環境への生物的な適応という単純化した理論生成を推進した点においてプラグマティズムの実践的哲学を批判し、経験・実践と技術について再考をしている。
 「経験を、活動する身体をそなえた主体が行う他者との間の相互行為として考えるべき」であり、「経験というものがわれわれ一人ひとりの生の全体性と深く結びついている」P62からである。
 そして、「われわれの経験がその名に値するものになるために、われわれが出来事に出会って、能動的に、身体をそなえた主体として、他者からの働きかけを受け止めながら、振る舞うこと。この3つの条件こそ、経験あれわれ一人ひとりの生の全体性と結びついた真の経験になる要因」P63とする。
 つまり、能動性と受動性が同時的に成立するような行為こそ経験と言えるとされ、こうした受苦的な存在は簡単に自立するものではなく、だからこそ、現実とのかかわるが深まるのだとする。そして、経験を重なるなかで自己が自己として明確化するのだP67。
 一方、「実践とは、各人が身をもってする決断と選択をとおして、隠された現実の諸相を引き出すこと」P70であるとされる。そして、「実践は、歴史性をもった社会や地域のなかでのわれわれ人間の、現実との凝縮された出会いの行為」P70とする。だから経験と実践は無関係ではない。「経験のなかでより能動的なもの、つまりとくに意思的で、決断や選択をともなうところのものが実践」P71だという。そして、実践のなかでも、他者や世界に対する特殊に媒介的なものが技術だとするP71。冒頭に立ち返るなら、今、この技術において近代科学の知を乗り越え『臨床の知』を取り戻す必要があるということだと思う。
 『臨床の知』が完成形だとすると、それに至るまでの発展的な知として、「演劇的知」「パトスの知」「南型の知」が紹介されている。
 「演劇の知」とは、演劇が象徴するような知の姿であるが、「演劇とは、人間等世界を凝縮化し重層的に捉え、描きだすこと」P116であり、対話ではなくロコス(舞唱)であるという。ロコスをニーチェは音楽と同一視し、その働きは象徴力の全面的な開放にあるとする。全身的にシンボリズムでリズムカルな舞踏の動作を想像するとわかる。
 「パトスの知」であるが、パトスとは、受動、受苦、情念と意味しており、情念に動かされた行動である、それは、能動的でもあり受動的でもある行動である。その知とは何か。中村はバリ島の文化にそれを発見する。バリ島では悪霊と神々が暮らしに息づいており、それは自己を守るだけではなく、文化に活力を与えているという。
 そして、「南型の知」とはバリのような南島にみる土着の知のことである。近代ヨーロッパで発展したプロテスタンティズムと資本主義による近代の知を「北型の知」とし、対比してとらえている。
 ここまできて、『臨床の知』を整理すると、コスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスを構成原理とする。コスモロジーは、普遍主義のような無性格で均質的な広がりとしてではなく、「1つ1つが有機的な秩序をもち、意味をもった領界とみなす立場」P133をとる。シンボリズムとは、「物事をそのもつさまざまな側面から、一義的にではなく、多義的に捉え、表す立場」P134である。つまり、「物事には多くの側面と意味があるのを自覚的に捉え、表現する立場」P134である。パフォーマンスとは、性能のことではなく、なによりも、「行為する当人と、それを見る相手、そこに立ち会う相手との間の相互作用、インタラクション」を含みもつものとされる。
 そして、「科学の知は、抽象的な普遍性によって、分析的に因果律に従う現実にかかわり、それを操作的に対象化するが、臨床の知は、個々の場合や場所を重視して深層の現実にかかわり、世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読み取り、捉える働きをする」P135とまとめている。
 さて、ここまできて、療法士の当事者研究の営みを振り返ってみたい。新しい試みだし、始めたばかりなので、明確に整理することは難しいが、自分のどうにもならなかった(けどどうにかしたい)経験をグループメンバーに聞いてもらったときには、暗闇で言葉を(すら?)与えられなかった自分の経験に、自分が言葉を与えてスポットライトを与えたことに、自分で自分のことを救い出せたような、明るさが見いだされた感じがした。それが他者に伝わって、共有してもらえて、他者の経験に飲み込まれて、他者から言葉が私にやってくる、しかも、肯定的に変換された言葉がやってきたときには、またさらに不思議な感触を得た感じがした。うまく言えないが、嬉しいような、恥ずかしいような、少し周辺が溶けだすような、一言では言い表し難い、多義性のある経験をしたように思う。一言でいうと、面白かった。
 私が他者の経験の話を聞くときはというと、療法士の経験ということになるが、自分の経験と照合する作業をどこかでしているように思う。それはすごく重なるものもほんの少しだけのものもあるけれど、何かそういうことをしていて、だからたぶん、追体験をしているのかもしれない。そのときの語る人の感情を知ると、それは、共感したり、距離化してしまったり、対象化してしまったり、いろいろな距離を作っているように思う。なんにしても揺さぶられてしまっているのだ。
 療法士の当事者研究では解決方法を見出すことは目的としないので、対象化し、問題を同定し、解決策を見出すという道程はあえて回避する。だからこそ上で述べたような、多様な意味や感情を経験することになるのかもしれない。
 そう考えたときに、紹介した『臨床の知』を思い出すのである。1つ1つの個が、個としてそこにあって、自律的でもあり、他者の経験を通過した言語を受け取り、その空間は、粒子までもが有機的で、演劇的で、そして、インタラクティブである、というような。
 現時点で、療法士の当事者研究が、近代科学の知が期待するプロダクトを生産する志向性をもっていないことだけは断言できる。また、どこに向かうかに慎重に、繊細に、取り組んでいく必要があるようにも思う。それにも増して、療法士が学び、培ってきた専門知に対して、その性質を大きく変革する知に向かう志向性もそこに含み持つ可能性を感じるのだ。それを皆さんととともに創造していけたら、と願っています。

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