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Cosy Koji がデジタルで配布されない訳

みなさんは、こどもの時、何をやっている時が一番たのしかったですか?

わたしは、家の前に大きな楠があって、その周りを友達と延々と自転車を漕いでぐるぐるぐるぐる走り続けるのが好きでした。
何の生産性もないけど最高に楽しかった。

こどもの頃、何も考えずに楽しいと思ってやっていたことを、大人になってそっくりそのままやると、ちょっと変人扱いされるか、アートとか芸術と呼ばれるようになる。
でも実はそのどれもが正解で、わたしたちは生まれながらにして極度の変人であり、わざわざ何を目指さなくてもただそのままで芸術からは逃れられない。

コージーコージーはまさにそんな風に生まれました。虎が木の周りをぐるぐる走ってたらバターになったみたいに。
ぐるぐる走ってたら生まれてました。

だから、デジタルバージョンでの配布は?と聞かれると、バターからトラに戻ってくれ、と言われているようで、どうにも困ってしまうのです。せっかく美味しくなったのに、もう一回虎に戻ってみることはできない。

デジタルデータにして配布すれば、2か月間わたしを悩ませた発送や梱包からも解放されるし、製作側にとっては楽なことこの上ないです。なんだったら体一つ動かすことなく、お金も「稼ぐ」ことができるでしょう。

では、なぜわざわざこんな面倒くさいことにこだわっているのか。
それは、そもそもわたしが「触れられるもの」を作りたかったからでした。遠く離れていても、一緒に触れられるもの、確かめ合えるものを、安心しあえるものを作りたかった。不安だったから。
コージーコージーは視覚的麹本としては最高だと思っています。だけど、触れるとさらに、最高なのです。

ノートブックのように開く綴じ方も。
なぞると優しく、めくりやすい紙質も。
朝か夜の光かによって、見えたり見えなくなったりする川の色も。
たくさんの手を刷ったインクも。
108項という数字も。
統一せず残した数種類の言語。わたしたちの声も。
あげると、きりがありません。

みんなで選んだタイトルの金箔。
KURZ385番。いい数字。主張しない、透き通るような菌色。
インサイドカバーは、みんなに好きなことをかいてもらって、「足跡」を糀と一緒に蓋に残せるように。

何もかもに、意味があります。

どこまでも、どこまでも孤独なわたしに、この本はあたたかみを与えてくれる。
それが、あなたにも伝わってほしいだけなのです。

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