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入稿直前、まだまだ育ち続けるCosy Koji

笑っちゃいそうだけど、入稿直前だというのにコージーコージーの成長は止まらない。(当たり前)
本日入稿予定だったにも関わらず、ここへきてこの本の最重要パーツのひとつとも言えるページのある一部について、ニコさんとデッドヒート哲学ディスカッションが始まった。

原文がどうだったかもう覚えていないけど、何回か再校を繰り返すうちに、いつの間にか採用していた「....All your active senses are reacting, supporting each other, or developing further to fill the sleeping senses, if not all are present.」
という一文。
文脈なしでこれだけ見せるとなんのこっちゃだが、前段落からのこの流れで「...if not all are present.」と書くと、まるでわたしたちには五感しかないかのような印象を与え、読者の想像力を遮ってしまう危険をはらんでいる、とわたしの無意識がストップの信号を出した。

この文頭にある all と、文末にある all は全く別の意味合いである。だから、全体として意味を成さなくなっている。この文末の方が、どうにも引っかかり違和感を拭えなかった。

ここでは、わたしたちの中にまだ秘められた可能性について示唆している。「秘められた」と書くと、今度は潜在的なものに絞られてしまい、ここで言いたいことを制限してしまいそうで、それもまた違うと感じる。
ここで引き合いに出しているわたしたちの能力には、「ある」のに「出てきてない」という奥底で眠りこけているものと、働いている感覚と感覚が織り合わさって、二次発酵的に成長していく名前もない感覚とがあるとわたしは思っている。
この後の方の感覚について、発酵に携わる仲間と話し合えたのはこれが初めてで、たぶん日本語だけで話していたら辿り着かない話題だったと思う。だからこのプロジェクトは何重にも味わい深く、面白かった。選択する単語ひとつひとつについて、自問自答のディベートが巻き起こるからである。

ここで「すべて」と書いてしまう危険性について、ニコさんと2時間に及ぶ話し合いの末、文末を少しだけ変えた。「すべて」という言葉を選択することで、unlimited を limit してしまう可能性。わたしたちが認識すらしていない、名前すらないものさえも、含まれてしまうことができない「すべて」という言葉の違和感。

何案か出し合った末に文章変更。スッキリ!である。
こんな入稿ギリギリまで言葉の選択の細部まで話し合い続けてしまうのは、日々わたしたちがコージーコージーと成長している証でもある。

ここでは割愛するけど、filling に関してもかなりの討論があった。わたしたちは、潜在能力を filling しているのか waking up しているのか。
どちらに落ち着いたのかは本が届いてからのお楽しみ。

誰にも気づかれなくても、こんな風に一語一語の意味についてわたしたちは言葉での解決方法の限界をずっと探ってきた。
上手くいっているは分からない。だけどそれに費やした時間は、確実にわたしたちを育ててくれた。

ありがとう、コージーコージー。
明日こそ、印刷所に君のデータを送るからね。

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