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「The Heart Part 5」についての覚え書き -塗り重ねられた顔たち-

■はじめに


ケンドリック・ラマーの新曲、「The Heart Part 5」が5/9に発表された。
個人名義のシングルとしては数年振りのリリースであり、マーヴィン・ゲイの「I Want you」をサンプリングしたソウルフルな楽曲や、DeepFakeの技術を使用しケンドリックが故ニプシー・ハッスルやO・J・シンプソンなど様々な黒人男性に顔を変化させるPVが話題を呼んでいる。

今回の楽曲については特に感じ入るものがあったので思ったことを書き残しておこうと思う。
文章の前半部では「The Heart Part 5」の構成や歌詞について、後半部ではデヴィッド・リンチ監督作品「ロスト・ハイウェイ」を引用し、DeepFakeと自我の関係について考えていきたい。

■「The Heart Part 5」の構成


「The Heart Part 5」は様々な角度から語ることが出来るが、ここでは「黒人文化における成功/挫折」をテーマとして楽曲を考えていきたい。
この曲は大きく分けて2部のパートで構成されている。地元コンプトン、そして黒人文化全体に巣食う暴力や悲惨な光景を歌う前半部分と、故ニプシー・ハッスルの意思を受け継いだかの様なポジティブなメッセージに溢れた後半部分だ。PVに登場する顔と歌詞にも対応関係にあり、攻撃的な前半のパートではO・J・シンプソンやカニエ・ウェスト、ジャシー・スモレットやウィル・スミスといった、圧倒的な才能によって成功を収めつつも自らの暴力性によってコミュニティと断絶してしまった人々の顔に、後半部分はニプシー・ハッスルやコービー・ブライアントら偉大な目標を持ち人々に愛を与えながらも非業の死を遂げた男達に変化して歌われる。
それぞれのパートの節目はケンドリックの「take the drum out」(ドラムを止めろ)という独白だろう。この言葉をきっかけにヴァースの内容は180度転換する仕組みとなっている。

では、それぞれのパートではケンドリックおよび彼らはどの様な内容を歌っているのか?全ての内容を紹介するのは長くなるので割愛するが、それぞれ顔が変化した瞬間をピックアップして見ていこう。

■O・J・シンプソン、ニプシー・ハッスル……それぞれの歌詞について


前述の通り、「The Heart Part 5」はそれぞれ変化した顔の著名人とリンクした言葉を歌っている。最初に顔が変化するのはO・J・シンプソンだ。彼のパートでは「I said I do this for my culture To let y'all know what a nigga look like in a bulletproof Rover」(カルチャーのためにやってるんだ、防弾使用のローバーに乗る黒人がどんなものか見せてやるよ)と歌う。
O・J・シンプソンは成功したアメリカンフットボール選手でありながら、1994年に元妻とその友人を殺害した容疑で逮捕された。この事件は複数のスキャンダルな文脈—O.J.は黒人であり、元妻と友人は白人であったこと、またO.J.は大金を積んで強力な弁護団を組織したことで無罪を勝ち取ったこと等……を含んでおり、アメリカでは大きな話題となった。中でもこの事件を有名にしたのは、逮捕令状が降りた後、O.J.はパトカーから逃げるためにフリーウェイで数時間にも及ぶカーチェイスを繰り広げた追跡劇だ。
「防弾使用のローバーに乗る黒人」という言葉はO・J・シンプソンのカーチェイスのエピソードからインスパイアされたのだろう。また、このヴァースはJAY-ZのIzzo (H.O.V.A.)からサンプリングされているのだが、JAY-ZはまさにO・J・シンプソンを歌った「The Story of O.J.」という曲を過去にリリースしている。
この曲では黒人であることに否定的なO・J・シンプソンに呆れ、自身のルーツを誇る様に諭す歌詞となっている。また、「カルチャーのためにやってるんだ」という歌詞は、暴力性と切っても切り離せない関係にある黒人文化そのものを揶揄している言葉ともなっている。

さて、O.J.からさらに表情は変化し、次に現れるのはカニエ・ウェストだ。彼の表情では「Friends bipolar, grab you by your pockets」(双極性障害の友人がポケットを掴んでいるぜ)から始まる一連の攻撃的なヴァースを蹴り、近年巷を騒がせているカニエの分裂的な行いを思わせる。愛を希求しながらも、数々の問題発言や元妻であるキム・カーダシアンとの争いなど、求めていないはずの闘争から逃れられないでいる。

続く「The streets got me fucked up, y'all can miss me/I wanna represent, for us」(ストリートは俺を狂わせた/君たちは俺を見逃すことが出来る/俺は皆を代弁したいんだ)と始まる一説では俳優、ジャシー・スモレットの顔になる。ジャシー・スモレットは『Empire 成功の代償』でゲイの役を演じたことで実力が認められ、全米版「高感度ランキング」でも上位に食い込むなど国民から愛される人気者のはずだったのだが、ヘイトクライムによる暴行事件を自作自演した疑いで大きく信頼を失ってしまった男だ。

彼の顔で歌われるヴァースはストレートに彼自身の事件になぞらえたものとは言い難く、どちらかというとニプシー・ハッスルを失ったケンドリックの悲しみと憎しみの連鎖を嘆くヴァースとなっている。しかし同時にそうした「被害者意識」に自ら向かってしまう黒人文化の指向性について半ば自虐的に表現しているのかもしれない。(余談だが黒人文化における被害者意識については、以下の動画がとても面白かった)
(※5/17追記:元の記載では「About Anya's Blackwash case」という動画のリンクを掲載していました。しかし、それは本稿で取り上げている「被害者意識」に対してカウンターとして機能する様な内容であり、不用意な誤解を与えてしまうこと、そのトピックの過激さからも直接リンクを貼ることを避けるべきだと考え、修正しています。しかし解釈については留意しつつも「なぜそのような動画が作られるのか?」という背景を含め、今後改めて調査したい内容であるため、少なくとも現状は元動画の名称や記載については残しておこうと考えています。)

前半部のラストでは、ウィル・スミスの顔に変貌し「In the land where hurt people hurt more people Fuck callin' it culture」(傷ついた人がより傷ついた者を痛めつけるこの土地、それを文化と呼ぶなんてクソだ)と叫ぶ。アカデミー賞での暴行事件が記憶に新しいが、彼の顔を持ってして、この言葉を吐くことの皮肉を強く感じる。

ここまでが「攻撃的/絶望的」な前半部。ここから「博愛的/希望的」な後半部へと楽曲はスイッチする。

後半部冒頭に登場するのはレイカーズの絶対的エースでありながら、2020年にヘリコプターの墜落事故で亡くなったコービー・ブライアントだ。「Euphoria is glorified and made His/Reflectin’ on my life and what I done Paid dues, made rules, change outta love」(至福の喜びは称賛され、神の曲を作った/自分の人生と行動を反映する—支払いを行い、ルールを作り、愛で変えるんだ)と歌われる歌詞は、偉大なコービーに自身を重ね合わせながら、文化全体をエンパワーメントしようとしている様が見て取れる。

その後のヴァースについては、ほぼ全編ニプシー・ハッスルに捧げられた歌詞として解釈できるだろう。ラッパーとして絶大な人気を誇り、活動家としてコミュニティに多大な貢献をしつつも2019年に自身の地元ロサンゼルスで銃撃を受けて死亡した、ケンドリックの偉大な友人。
「To my brother, to my kids, I'm in Heaven/To my mother, to my sis, I'm in Heaven/To my father, to my wife, I am serious, this is Heaven」(兄弟へ、子供たちへ、俺は天国にいるよ/母へ、姉妹へ、俺は天国にいるよ/父へ、妻へ、本当の話さ、ここは天国なんだよ)とニプシーの表情で伝えると、瞬間ケンドリックの顔に戻り、今度は彼自身がニプシーの言葉を代弁する様なヴァースが始まる。
「And to the killer that sped up my demise/I forgive you, just know your soul's in question/I seen the pain in your pupil when that trigger had squeezed/And though you did me gruesome, I was surely relieved」
(そして、俺の死を早めた人殺しへ/俺はお前を赦すよ、ただお前の魂に疑問が残っていることを知っている/引き金が引かれた時、お前の瞳に「痛み」が見えたんだ/お前は恐ろしい過ちを犯したが、俺は確かに安心したんだよ)。
ニプシーを殺した犯人は、エリック・ホルダーという名の対立するギャングの一員である黒人男性だとされている。

黒人コミュニティにおける希望と絶望/成功と挫折はコインの表裏であり、前半部のパートではその表裏が反転してしまった人々を描いていたと言えるだろう。しかし後半部において希望の象徴であるコービーやニプシーを引用しつつ、ケンドリックは彼らの視点を持って、その絶望を「排除する」のではなく「赦す」選択をする。

また、当然だがこれらの言葉は全てケンドリック自身を語る言葉として同時に機能している。
彼自身も、ポジティブな物語だけでなく、過去のアルバムでは自身の暴力性に苛まれる場面が登場する(To Pimp a Butterflyにおける「These Walls」など)。
そうした負の感情を、自身を触媒にすることでニプシーらと対話し、解放されようとしているのかもしれない。

■楽曲/PVのファッションについて


ここまで歌詞とPVの対応関係を見てきたが、「The Heart Part 5」においてもう一つ興味深いのが楽曲におけるドラムの使い方だ。この曲は前半部のリズムセクションはボンゴの音からスタートし、2ヴァース目以降の黒人文化で多発する悲惨な光景が描写される。その度にドラムキットのハイハットやキック、スネアがトラックに追加され、徐々に存在感が増していく。そして前半部のラストにおいてはそのドラムサウンドの激しさはピークに達するも、前述の「ドラムを止めろ」の一言で一切のリズム楽器が無音になる。

喧騒を抜けた静寂の中で響く重苦しいベースソロの中、煙を吸う音が聞こえた後に、ニプシーらが登場する後半パートがスタートするのだが、そこから再びボンゴの音が鳴り始める。しかし今度はドラムキットの暴力的な鼓動が響き始めることは無い。冷静に信念を持って進む足音の様に、空に抜ける様なボンゴの音だけがループし続けるまま楽曲は終了する。
つまりこの楽曲においては、リズムセクションが歌詞の絶望/希望と同期する様にコンポジットされているのだ。

また、PVにおけるケンドリックは今までと全く異なったファッションに身を包んでいることも面白い点だ。シンプルな白いTシャツはDAMN.のジャケットを思わせるものの、トレードマークであった髪の編み込みを解き、自然に伸びたままのナチュラルスタイル(「Twist out」と呼ばれる髪型)にしている。首元にはバンダナをギャングスタイルを思わせる巻き方で垂らしているが、ここにもケンドリックの分裂的な意識が反映されている様に感じる。
自らの髪を縮毛せずに広げたままにするナチュラルスタイルの髪型は自身のルーツ性を誇示している様に見えるし、それに対してギャング風に巻かれたバンダナは黒人文化が孕む暴力性を示唆している様だ。DAMN.で描かれたパーソナルな等身大の人間としての白いTシャツの上にそうしたレイヤーが追加され、より混沌とした精神状態を感じさせる。また、そんな彼の背景に広がるのは血を思わせる深い赤だ。これも血脈(ルーツ)/暴力、どちらの意味も感じさせる色だ。


■「ロスト・ハイウェイ」的な自我


さて、本稿も後半部へと移ることにしよう。
ここで一本の映画を取り上げたい。「ロスト・ハイウェイ」という、デヴィッド・リンチが1997年に製作したサスペンス映画だ。
内容は複雑怪奇のため詳細は省略するが、ロサンゼルスに暮らすサックス奏者であるフレッド・マディソンは、妻であるレニエ・マディソンを殺害した容疑で逮捕されてしまう。フレッドは独房に収監されてしまうのだが、そこで彼はピート=フレッドという別の男に変貌する。まるで別の男の見た目のため、彼は釈放されるのだが、そんな彼の特異な存在は信じ難く、警察はその後も行方を追う……そんな隠喩に満ちたストーリーとなっている。
さて、「The Heart Part 5」から何故この映画の話に飛んだかと言うと、実はこの複雑怪奇なストーリーは、PVにも登場したO・J・シンプソン事件をモデルに作られているからだ。リンチはインタビューで下記の様に語っている。


「あの映画のアイデアはテレビでO・J・シンプソンがゴルフをしているのを観たことから始まっている。この男は奥さんを殺したのに、どうしてこんなに楽しそうにゴルフなんかできるんだろうって思ったんだ。そこで僕は瞑想をしてシンプソンの気持ちになってみた。そうしたら理解できたんだ。彼は妻を殺した時の自分を記憶の中で別人格として分離しているに違いないってね。人格乖離、心因性記憶喪失というやつだ。
シンプソンは自分の中で複雑に、しかし精緻に記憶を組み替えて殺人という現実から自分を守っているんだよ。その精神構造をそのまま映画化したのが僕の『ロスト・ハイウェイ』なんだ。でもね、いつかシンプソンにも殺した時の記憶が蘇ってくるかもしれないな。たとえばゴルフでクラブをスイングした瞬間に記憶がわっと蘇ったりしてね(笑)」

こうした人格の入れ替えというのは「The Heart Part 5」で象徴的に描かれていたことだ。さて、そう考えると前述の暴力と博愛は表裏、というテーゼは一気に疑問に満ちたものに見えてくる。
O・J・シンプソンが殺人者という側面を、精密に記憶を入れ替え、平穏な日常の顔で覆いかぶせてしまった様に、博愛/成功/希望は、暴力/挫折/絶望を切り替えるものでは無く、重ねて覆ってしまえるものではないのだろうか?

PVで使用された、DeepFakeという技術は顔そのものをすげ替える技術ではない。一種のバーチャルな特殊メイクの様に、顔を覆う様に表示されるものだ。そのため、出来の悪いDeepFakeは激しく顔を動かすたびデータの顔が引き剥がされ、その下に隠された本当の顔がノイズの様にちらつく。
冒頭で「The Heart Part 5」でケンドリックは様々な顔に切り替わると表現した。しかしそれは切り替わっている様に見えているだけで、本当は上から「覆われている」のだ。暴力の顔の上に博愛の顔が堆積し、さらにその上に暴力の顔がもう一度積み重なっていく様に……。
それでは、そうした嘘の顔は意味がないと言うのだろうか?ケンドリックは趣味の悪いジョークのためにDeepFakeの技術を使用したと?そうではない。
ここで自分は暴力も博愛も全ては塗り重ねた嘘であり、それは真実ではない、と言いたいのではない。

大事なのは例えいくら塗り重ねた顔であっても、自分と言う存在はその深くに確かに存在している、ということだ。
その自我の存在を証明するのが「瞳」だ。ひと昔前のDeepFakeは、ある見破り方が存在した。
実は、DeepFakeで作られた顔は瞬きをしないのである。

生きている人間は、必ず瞬きをする。だからどれほど巧妙に作られたDeepFakeの映像であっても、その瞳を見れば真実が分かった。
それはまるでニプシー/ケンドリックが、殺人者の瞳に「痛み」を見たことと似ている。私たちはどれほど上塗りされ、誤魔化された顔を持って生きていたとしても、そしてそれが真実になり得なかったとしても、その瞳に、その奥に宿る魂の痛みを見ることが出来るのだ。

「The Heart Part 5」のPVの冒頭では黒塗りの背景に一言、「I am. All of us.」というセンテンスが表示される。


これは一見「私は私たちすべて」と訳すことが可能だが、しかしよく見ると「I am」と「All of us」の間にピリオドが差し込まれていることがわかる。それはまるで生きている人間の瞬きの様に、一瞬だが、しかしそこに実存を感じさせるピリオドだ。

「私」と「私たちすべて」は混ざり合っている様でいて、実際にはまるで別の存在である。
いくら巧妙に別人に塗り重ねたところで、私は私以外たり得ず、痛みは魂に残り続ける。

だが、それは絶望ではないのだ。


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