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物語構成読み解き物語・9

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「ニーベルングの指環」→「闇の奥」読み解きのあまりのスピーディーな進行から不安になって「ロードジム」とか「西洋人の眼の下で」とか、コンラッドを何冊か読んだ。優れた作家だと思った。しかし面白くはなかった。頭が良すぎる感じなのである。読んで疲れる。しかし「闇の奥」の解釈はだいたいこれでいいんじゃないかと思った。中身が深いというより、技術の高い作家である。

三島由紀夫と宮崎駿以外に、「ニーベルングの指環」→「闇の奥」という流れが確実に読めている人が居る。「極黒のブリュンヒルデ」の作者、岡本倫である。なぜって副題が「ブリュンヒルデ イン ザ ダークネス」だから。

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「闇の奥」は「Heart of Darkness」である。それで「極黒」は、その名の通りブリュンヒルデがタイトルになり、豊饒の海と同じく三つのホクロが脇の下にあるヒロインが出てくる。つまり、岡本倫は「指環」→「闇の奥」→「豊饒の海」という派生の流れを掴んでいる。これまた凄い。どちからといえば「豊饒」の影響の強い作品で、女性たちは薬が無いと(夢のように)崩壊してしまう。

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文学研究家がまったく読めていない作品を、作家、アニメ監督、漫画家が読めている。私にもようやく事態が認識できた。自分だけが変なマニアックな読み方をしている、というわけではなかったのである。安心した。作家たちはだいたい同じように読んでいる。少なくとも読もうとしている。単に研究者がおかしいだけなのではと疑念が湧いてきているところに、ある日ブログに反響があった。投稿転記する。

「文学の深掘りを読ませて頂きました。特に刺激を受けたのは、『カラマーゾフの兄弟』の背景としてのギリシャ神話とキリスト教の解説。また、”ニーベルングの指環作品群”としての、『闇の奥』、『グレートギャッツビー』、『地獄の黙示録』とそれらの関連性です。 『闇の奥』は一度中野訳で読んだ記憶があるのですが、fufufujitaniさんのおっしゃるように読んでも苦痛でしかなかったのですが、fufufujitaniさんのまとめを読み、スッキリすると同時に元ネタとしての「ニーベルングの指環」にも興味が出てきました。 ただ、ニーベルングからコンラッドが影響を受けたエビデンス、あるいはそれに言及した論評がググっても見当たらなく、それどころか、コンラッドは書簡で、『闇の奥』(1899)出版後の1917年に、ゲルマン神話を知らないと言っています。 The Collected Letters of Joseph Conrad, 第 9 巻 →https://books.google.co.jp/books?id=MqRyrCUlux4C&pg=PA208&lpg=PA208&dq=teutonic+mythology+conrad&source=bl&ots=ukhSrjDZZe&sig=izcTfzF4ZWaFP0iXO12Bi9fWebY&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjRnquq0sXcAhXHwrwKHYKuBFEQ6AEwAnoECAQQAQ#v=onepage&q=teutonic%20mythology%20conrad&f=false 作者本人が元ネタを隠すことは大いにありそうですが、論文として書けないのが、残念です」

で、私の返答は、

「コメント有難うございます。 コンラッドそんなことを言っていましたか、、、絶句。 私の読み解き、私なりに確信ありますが、ほかの社会事象の解釈と同じく、あくまで仮説のひとつです。全部間違いという可能性も、実はあります、あしからず。 しかし私、文学プロパーではないから知識がないのですが、研究者の間では 「作者本人が**を参考に書いたと言明しなければ、作品は**を参考に書かれていると論文に書けない」 という決まりでもあるのでしょううか。それはまずいです。決まり自体が間違っています。根拠不明の決まりです。 作者が以下いずれの発言をした場合でも、 「**を下敷きにした」 「**を下敷きにしていない」 「**を知らない」 研究者は作品を分析した上で、以下のように断言することができます。 「この作品は**を下敷きにしている」 「この作品は**を下敷きにしていない」 いずれも断言は可能です。そして、その断言、判断が真実であるかどうかは、最終的には社会が決定します。作者でも、一部研究者でもありません」

というやりとりである。

状況だいたい把握できた。

1、作者本人が認めるかどうかが大きな要素になる
2、そうでなくても「影響を受けた」というエビデンスが必要
3、そのエビデンスがなければ「影響を受けた」と論文が書けない

そうである。そして構造解析はエビデンスとして認められないらしい。作家の業務内容は主に嘘つきなのに、もしも「影響受けた」と作家が言ったら信じてしまう学界の判断基準は、イカれすぎていて話にならない。信じてどうする。

これはコメントしてくださった方の問題ではなく、文学学界の問題である。大多数の先生方が「エビデンスが」のフレーズで作品理解から逃げている、と判断して差し支えない。これは読めるようにならない。文学理解滅亡への道である。

作家が近松のように虚実皮膜の間を探求したらどうするのでしょう。てゆうか近松も作家なんですけど。虚実皮膜論を言った以上近松は作家として認定しないのでしょうか。謎はガンガン深まってゆきますが、闇の奥すぎて地上世界に戻ってこれなくなりそうなので一旦中止する。


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