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物語構成読み解き物語・25

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コロナで暇だったので、2020の夏には生まれてはじめて「文芸評論家」の本を大量に読んだ。凄かった。丸谷才一なんかハイパーな碩学である。読書量はおそらく私の千倍くらいだろう。断じて百倍レベルではない。無論英語を原文で読める。翻訳もしている。ジョイスの権威である。日本古典文学の造詣も深い。勅撰集全部読んでいる。深刻な不眠症としか思えない。自力で新しい百人一首まで編纂してしまう。凄い。仰ぎ見るような知能と勉強量である。

丸谷の代表作「笹まくら」は以前に読んだ。これまたコンラッド系時系列グチャグチャ作品だが、時系列の操作ははっきりコンラッドより上手い。物凄い小説技術である。でも貨幣経済についての言及はなく、一つの作品を細かく読み解くアプローチもない。なくなるはずである。ある意味コンラッドよりも達者に小説書けるのだから。

彼の漱石評論も読んだが、「坊っちゃん」がファウストとは読めていない。「夢十夜」の対称構造も言及がない。多分気づいていない。文学の勉強は、本当に文学理解に役立つのか。

私は文学プロパーではないから、大量に小説を読んできたわけでも、文学理論を研究したわけでもない。哲学書は若い頃ヘーゲル近辺を少し読んだが、たいして理解できていない。そもそも教養全般不足しているし、勉強しても頭に入らないから努力する気もあまりない。文学解析をネチネチしているが、遅々とした歩みである。実は少しはペースは上がっているのだが、誰も気づかいないレベルの加速である。遺憾である。

そんな素人視点では、評論家、研究者、ほぼ全員間違っている。ほぼと書いたのは文芸評論、文学研究をさほど読まないからだが、2020夏に読んだ分だけでだいたい見積もりは立ったつもりである。そもそも連中は小説の内容が読めていない。内容読めていない状況でどんな理論や評論組み立てても、全部ムダだと私は思う。

「カラマーゾフ」の頃は発見が嬉しかった。
「闇の奥」は少し研究者が気の毒になった。
「ギャッツビー」では、これはヤバいことになっているなと気づいた。
「暗夜行路」では正直呆れた。近代日本文学の代表作である。ところが志賀の専門家がまるで意味を取れていない。

だから現在はもっと抜本的に考えなければいけないと思っている。

そもそも「大学」とか「学界」とかあるのは、研究者の間で論文を共有することによって情報を集中処理することが目的である。そのことにって大学の研究者たちは、かつては一般よりはるかに上の知力を持つことができた。保持する情報量がまるで違ったのである。
しかし今日、これほどネットが発達してみると、もう大学の知的優位性が消滅しているのに気がつく。興味さえあればどこに居ても情報が取れるのである。理系で実験が必要なところは別だが、大学の文系は必要なのだろうか。外国語問題が最大のポイントだったが、それも機械翻訳の発達により解消しつつある。もう大学文系は必要ないのではないか。文系の私としては嫌な結論だが、本当なので仕方がない。

例えば経済学界は、この20年以上、正直日本にとっての呪いでしかなかった。多くの人々の生命と幸福と可能性をすり潰してきた。そしてそのような愚劣化はおそらく日本だけのことではなく、世界的な現象のはずである。優れた人材も居ることは否定しないが。

大学という知のシステム全体が、相当ヤバいことになっている。そして現在、システムの中に居る人々のほとんどが、そのことに気づかないか、気づいても発言できない状況のようで、大多数は自分の昇進のことばかり考えている。

太平洋戦争の最終盤に沖縄戦があるが、沖縄戦の最中でさえ「このあとの自分の昇進」についてしか考えることが出来ない将校が、存在したそうである。陸軍どころか大日本帝国が消滅寸前なのに。組織が老朽化すると、そういう人材が増えすぎる。その上テクノロジーの発展が大学の改善を阻む。先生が昔のようには尊敬されないので、今は尊敬されない人たちが先生になるようになる。悪循環なのである。

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