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黒井氏の批判に答えて・1

参照ください。
ご批判に答えなきゃいけないのですが、どうも要領よく答えられない。ダラダラしたものになりそうで、そこだけ最初にお断りしておきます。

構成読み解きが学問になるかどうか、という話題ですが学問にはなりにくいだろうし、無理してなる必要もないと考えています。「物語学」とか「記号論」とか、いわゆる学問的な用語を随分聞いてきました。「これこれの作品は記号論的にしっかり読み解いた」という力強い宣言は聞いたことがありますが、作品の読み解きそのものは見たことがないです。有るのかもしれませんが、「闇の奥」「ギャッツビー」「銀河鉄道」「斜陽」などが十分読めていたとは到底思えない。それが本当に便利な読み解きツールで、きっちり読めるようになったのならば私が読み解く作品なんて現在存在していないだろう。しかし現実には名前は有名でも内容をきっちり理解されていない作品が大量に存在しています。つまりそれらは、学問になれないのに無理して学問的ムードを装った欺瞞の一種だろうというのが私の判断です。そして何故無理して学問的体裁を装いたがるのかと言えば、そのほうが予算が出やすいからというのもあるだろうし、いくら作品読んでもさっぱり意味がわからないから別のことやってボロが出ないようにする、というのも大きいかなと思います。あるいは「元来わかんないのに上手にわかったふりをする方法論を探求する学問分野」なのかもしれません。

構成読み解きは単に、「何十回も読めば出来る理解を、章立てきっちり立てて、登場人物見渡すことによって、効率的に達成する」作業でして、寝っ転がってダラダラ読んでいるのと本質的には変わりません。エクセルに打ち込むのが手間ですけど、打ち込んだ後はプリントして寝っ転がってダラダラ見る。つまり持ち物が本からペーパーに変換されただけで、人間の姿勢としては全く同じです。
普通の小説の読書が「学問的」とは誰も思いません。単なる娯楽です。構成読み解きも娯楽の一種です。ただ表をつくる手間をかけることによって、天才レベルの深い理解を安易に実現できることになります。料理は学問ではありません。私は「良い食材が入手出来たときは、普段の三倍手間かけて上手な料理を作りませんか?」と提案しているのです。すこぶるつきの良い食材の場合、驚異的な味を達成できます。
同じように、構成読み解きで目撃できる「文豪たちの実力」は実際ハンパありません。手間を掛けずに読んでるだけでは到底到達できない世界です。いや天才たちならば可能なのでしょうが。そして実際色々試してやってみて、結論にたどり着いたのです。
「批評家たちは実は全然読めていない」
江川卓は(研究者ですが)デュパンになりかかっています。それ以外でデュパンらしき人を見たことがない。百人一首の織田正吉もデュパンかな?しかしこれも研究者ですね。いずれにせよ作家本人とはレベルが違いすぎる批評が大多数だと思います。黒井氏は「なぜそのような構成になったかは批評家の考えること」とされていますが、そもそも批評家は構成を発見できません。発見できるほど読み込めません。したがって研究者にもわからない構成の必然性に批評家は答えられません。構成を抽出する作業自体が始まったばかりですから、もっとデーター集まればみんなで考えられるかもしれません。

批評家は原則、大量に読書しなければなりません。大量に読書をするということは、一冊あたりの理解度はどうしても低下します。別に全ての作品を深く読む必要はないと思いますが、漱石なら漱石全部、太宰なら太宰全部を浅くしか読めていない。まともに検討できている作品がひとつもない。それでは印象批評に終始するのも当然かなと思うわけです。そもそも文豪たちの能力値を把握できていない。
そんな批評家よりも自分のほうが深く読めていると考える根拠はなにか。それは寝っ転がってダラダラ読むのと本質的には変わらない読み方を、しかしながらより熱心にしているからだけ、です。ただ天才たちよりも時間がかかり、手間がかかっているだけです。批評家たちは(実は作家よりも才能あるのかもしれませんが)作家が書くよりもはるかに短い時間の消費で作品を理解しようとします。1/3くらいの時間ならば才能あればカバーできそうですが、1/100くらいの時間で理解するのははっきり無理です。では批評家が今の30倍作品を読み込むときちんと理解できるのか。出来ると思います。しかし読む本の冊数も1/30になる。つまり批評家が研究者に変換してしまうのです。そして私の見る限り、そのレベルで読んでいる研究者は文学畑には居ません。哲学には居ると思います。wikiでもこれほど細かく読めていますから。

というわけで、結論としては
1、批評家が批評家であるならば内容は読めない
2、研究者はほとんど存在していない
となると思います。

研究の方は構成読み解きでやってゆけばよいだけです。エクセルが存在する以上、過去の作品は怖く有りません。ではこれから批評家はどうすればよいのか。批評家に出来ることは二つだと思います。

1、作品に対して軽い印象批評、読みやすかった、読みにくかった、好きだ嫌いだ等々
2、作品と、その作品の構成読み解きを読んで、構成読み解きの今後の方向性や読解の不足を指摘

私自身は、太宰を4作品構成読み解きしましたが、全集は読んでいません。読むと他の構成読み解きできなくなるからです。人生は有限ですから、重要作品から潰してゆきたい。しかし焦りは視野狭窄を生みます。欠落が多く有るはずです。読み解いた作品本体と、構成読み解きの内容を読んで貰えれば、パースペクティブは批評家のほうが優れているはずです。なんせ大量に読んでいますから。そこらへんほしいなあと思っております。

次回に続きます。


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