らくがきヱリ子さん~「微視」冒頭
昔、父と一緒に暮らしていたことがある。そのひとはある日急に母とわたしの住むアパートに現れた。アパートには部屋が二つと台所があった。もっとも、アパートにはほとんど床も見えないくらいに、空のカップ麺とか汚れたブラジャーとか蓋が開けっ放しのウェットティッシュとかが散らばっていて、それだけ見ればどこからどこまでが一部屋なのかもよくわからなかった。台所には、ありとあらゆる調理器具が揃っていた。アルミがへこんだ三段重ねの蒸し器、赤茶と黒の三毛猫みたいな鉄瓶、小口切りの葱が貼り絵のように黒く底にこびりついている雪平鍋。母は時たまそこで料理をした。たいていは、卵焼き器の上にパック入りの厚揚げをドンと出して焼いていた。熱がまわった頃にじゅっと醤油を落とすから、醤油が焦げるいい匂いと淀み切った部屋の空気の匂いで、鼻がもげそうになった。食べるときにはいつも、卵焼き器にこびりついた真っ黒な灰が、飴みたいに固まって厚揚げにくっついていた。そんな風だったから、調理器具の中でも卵焼き器は意外と清潔だったはずだ。
部屋数が二つだったと記憶しているのは、本棚に隔てられた奥の空間には台所を通らないと入れなかったからだ。半ばゴミみたいな荷物に覆われた床は、台所を突きさすように置かれた重い本棚で仕切られていて、わたしと母はどちらかが台所にいて奥の部屋に出入りしようとする際は、
「ちょっと通して」
と声を掛けるか、無言で横に突っ立って圧をかけるか、あるいは阿吽の呼吸でタイミングを微妙にずらすかして、すれ違う必要があった。やっとのことですれ違っても、奥の部屋への出入り口(それを出入り口と呼ぶのか、正確な言葉はよくわからない。通り穴と呼ぶのかもしれない)の脇に、大量のレコードと雑誌と本を絶妙なバランスで積み重ねた丈の高い塔があって、これにうまく触れずに通り抜ける必要があった。ひとまず、母もわたしもこの通り抜けの術はよく身に付いていたから、通るたびに神経をすり減らすわけではなかった。塔はとてもよくできていて、不覚にも肘や足の爪先が触れてごそりと揺れることはあっても、あの塔が倒れてきた記憶はわたしにはない。母は骨細でかなりほっそりした体つきだったし、わたしは子どもだった。だから塔とうまくすれ違えているんだろうと、当時のわたしは思っていた。大人になった今のわたしは、女にしては大柄なものの身のこなしはわりあいに軽妙で、バレエを習っていたのと時たま聞かれることがあるのだが、あの塔に鍛えられたからだと密かに思っている。塔のほうも、ずいぶんとよくやっていた。あんなにうまくやれる塔と一緒に暮らしていたわたしにとってはだから、ピサの斜塔がなぜ物珍しがられるのか、今もってよくわからない。
そんなふうだったから、父が現れたとき、何よりもびっくりしたのは、父が奥の部屋に居たことだった。決して太っていたというわけではないが、父の身幅ではとてもじゃないけど、あの塔とすれ違うことは困難だと思えた。色とりどりの必要な物や必要じゃない物や、必要なのか必要じゃないのかよくわからない物たちと地続きのようにして、父は奥の部屋に蹲っていた。父の足元にはちょうど、お菓子の材料が散らばっていた。ビニールに入った粉糖は、積もった雪が踏み固められたようにこわばっていて、半開きのジップから中身が零れ落ちる気配もなかった。白や黄や茶やピンクの使い古しのチョコペンが散乱し、プレーンクッキーミックス粉や生しぼりしょうがパウダーの袋はねとねとに固まって、抱き合うように折り重なっていた。
「危ないよ」
わたしは思わず言ったと記憶している。実際のところ、父の座っているエリアはとても危なかった。何かが雪崩のように崩れてきて下敷きになったり、何かと何かが混ざり合って爆発したり、そういう「危ない」ではない。あの塔ですら崩れてこないことをわたしは経験上学んでいたし、何かが爆発する可能性については部屋中どこにいても同じようなものだった。ただ、わたしたちは(つまりわたしと母は)いつも、まだ死んでいない物のあたりを選んで座っていた。ペットボトルや鉛筆削りや飲むヨーグルトの空や電気毛布が散乱しているあたりはまだ生きていたし、黄ばんだ賞状やWindows95のパソコンや胃腸薬でごった返しているあたりはもう長い間死んでいた。そういう死んでいるエリアに座ると、以前に見た怖い夢を突然鮮やかに思い出したり、急に食あたりを繰り返したりしてしまうのだ。わたしも母もあの部屋に慣れ切っていたから、死んでいるか死んでいないかにかんしても、かなり勘がよかったと思う。そういう意味で、お菓子の材料のあたりはとても危険だった。
危ないよ、と言うと、父とわたしの間にはずいぶんと長い沈黙が流れた。もっとも、声を掛ける前だってどちらも言葉を発していなかったのだから、やはり沈黙があったと言えるのだが、声を発してしまうと、その沈黙はとたんに重苦しい苦痛をともなって息をしはじめた。父はカーキ色のショートパンツを履いていて、よく見ると、そこから突き出た浅黒い脛にはたくさんの毛が生えていた。当時のわたしにとって、そこまで大量のちぢれ毛に覆われた男の脚は初めて見るものだったし、そこだけ見ていると生々しくて、何だかじぶんとはまったく別の生きものに見えた。それでも、父はあの奥の部屋にとてもよく馴染んでいたし、毛の生えた脚もまた、これまでのこの部屋の歴史から見れば、ささいな物の増加にすぎないと思えた。
長くて重い沈黙を、わたしはどう超えていいのかわからなくて、結局は同じ沈黙をさらに長引かせることになった。父がこの沈黙をやぶってくれることをどこかで期待しながら、しかし次の展開にまた次の新たな沈黙が訪れることも面倒に思えた。そんなわたしの考え、というか感じが伝わったのか、父はおもむろに立ち上がり、お菓子の材料のエリアを離れて、わたしが一番安全だと感じていたミニコンボとリモコンと幾何学模様のクッションのあたりに移動した。父は、うんうんと小さく顎で頷いて、生々しい脚の毛とはうらはらに、美しく生え揃ったキリンのような睫毛をわたしに向けた(今思うと、父は多少毛深かったのかもしれない)。
「ありがとう」
わたしはやはり、思わず言った。父は、わたしと視線を合わせたまま睫毛をかすかに揺らして、瞳だけでどういたしまして、と言った。あの時の父はたぶん、わたしの言いたいことや、言いたいことの裏に流れていたあれこれを、じゅうぶんに受け止めてくれていた。わたしが初めて、母以外の誰かと話が通じたと感じた瞬間だったと思う。そうは言っても、その時点で父はまだ、一言も言葉を放っていなかったのだが。父が来る前にも、父以外の男のひとが何人かあの部屋に居座っては通り過ぎていったが、わたしはあの出会いの日に、父こそがわたしの「父」だと確信したし、その確信がゆるんだことは今も無い。
わたしの無条件の確信を母は察し、父と入れ替わるようにして居なくなった。もしかしたら、わたしがそういう「父」に出会えるまで、母はいろんな父をこの家に連れて来ていたのかもしれない。父はまごうことなき「父」だっただけあって、母が居なくなっても、母の気配がこの家から消えることはなかった。部屋の様子は変わらなかったし、物が増えて変化したとしてもそれは、母がここに居続けたらきっとこうなっていただろうと思える変化だった。それに父は、ちゃんと母とまったく同じように、玉子焼き器で厚揚げを焼いた。
父は出会ったときの印象のままにとても寡黙なひとだったから、父がどんな声の持ち主だったかはまったく思い出せないほどなのだが、どうしようもないくらい明るい人柄だった。父は声を発する代わりに、わたしによく絵を描いてくれた。わたしに描いてくれたというのはつまり、絵を描くと必ずわたしに見せてくれたので。それはいつもB6鉛筆で描いた線描画で(B6鉛筆は一ダースの箱に入ったまま部屋に落ちていた)、部屋に散乱している物の仔細を写し取っていた。わたしは父の絵に対して、どのように応えていたのかよく思い出せない。父は物の全体像ではなく一部分をとても細かく描いていたから、ぱっと見ただけでは何かよくわからないのだが、じっと見ていると突如そこから本物の姿が浮かび上がってくる。わたしは、
「あ、これ、わたしのジャンパースカートだね」
とか、
「これは、かき氷機だね」
とか、描かれた物の名前をなぞなぞの答えのように返していたかもしれないが、父が現れたあのとき以来、父に対してはよく考えてから言葉を発する必要が無くなっていたから、じぶんの応答がくっきりと意識に残ることも無かったのだろう。黒い鉛筆で白い紙に描かれた絵は(部屋にはコピー紙の束も落ちていた)、今思えば異様につまびらかに描かれていて、見る人が見れば病の匂いを嗅ぎ取ったかもしれない。けれど、わたしにはいつだって、それらの絵に父の明るさが宿っていることが見て取れた。と言うのも父は、部屋の中にある物のうち、生きている物ばかりを選んで描いていたから。父はわたしや母以上に、部屋の中で生きている物を見つけるのが上手だった。ちゃんと積み重ねできるようにくぼみが付いたガラスのコップとか、将棋入門ドリルの裏表紙に描かれた駒の一覧表とか、父の絵を見て初めて、実はその物が生きていたことにハッと気づかされることも多かった。あんなに生きている物に対する感覚が鋭いひとに、わたしは父のほかにまだ出会ったことが無い。
父の絵はいつも眩しいほどに明るくて、たとえば友達に影で嫌がらせをうけた夕方には、その明るさがわずらわしくてつい苛立ってしまったこともある。わたしは小学生にありがちな幼い高飛車さで、
「気分悪いからやめてよ」
というようなことを、半ば唾棄するように言ったかもしれない。そんな時、父は差し出した絵をそっと引っ込めて、わたしの底意地の悪い自尊心を絶妙に満たしてくれる、少しだけ死に近い物の間にそっと体を埋め、静かにわたしの不全をなだめてくれたのだった。そうやって、父は母に代わってわたしの面倒をみてくれて、そうしてわたしは大人になった。
一つだけ、今でも不思議に思うのは、父がどうやって奥の部屋に出入りしていたかということだ。父以前に通り過ぎて行った男のひとたちにとって、やはりあの塔は難関だったらしく、結局はみんな手前の部屋にうろうろと滞在するに留まったまま去っていった。父はあの日に現れて以来、ずっと奥の部屋に居たわけではない。わたしが学校や友達との遊びを終えて帰宅すると、父がアパートに居ないこともあったし、手前の部屋にぽつんと立っていることもあった。そして、父が奥の部屋に続く塔の横をスルスルとすり抜ける瞬間を、わたしはついに目撃したことが無かった。塔に積まれているレコードや本の順番がいつの間にか少し違っている、なんてことも無かった。
わたしと父はああいった部屋に住んでいたから、父の描いてくれた絵も当然のように、あのおびただしい物たちの波の合間に消えてしまった。けれど現在でも、あの部屋には死んでいる物たちに近くなりつつある父が静かな余生を送っていて、父の絵はたぶん、あの波間に優しく揉まれながら今も生き続けている。