「非当事者が怒るのは筋違い」ってほんとかな?

最近、LGBTの人権を損なうヘイトスピーチを取り上げた雑誌に対する批判に関連して、「騒いでるのは非当事者だけで、当事者はそれを冷めた目で見ていた」という主張が話題になっていた。

「非当事者がなんで怒るのか」みたいな言説、僕はいつもものすごく違和感を覚えるんだよなぁ。自分が当事者かどうかなんて二の次で、目の前で不正義が行われていたら腹立つのは当然、と僕は感じるけど。

善悪に関して、僕には自分事と他人事の区別はない。どっちにしたって回り回って社会を悪くしているし、見過ごしたらいつかは自分に帰ってくると思うから。

すべてのことについて「当事者と非当事者なんていない」というのは言いすぎだとは思う。例えば国籍とか、人種とか、生まれたときの性別とか、変えられないものはあるから、明確に「当事者」が存在することもある。でも「当事者への差別を批判できる(するべき)のは当事者だけ」というのは違うと思う。

僕は外国人ではないけれど、クラスに外国人を差別するやつがいたら批判したい。そしてそれは「外国人がかわいそうから」ではない。あえて言うなら、「不正義が許される環境に耐えられないから」ということになるだろうか。それを認めてしまうことは、社会が悪いままでいることを見過ごしてしまうことだから。

もちろん僕はそんなに強くも高潔でもないから、実際には注意できず、見過ごしてしまうこともあるだろう。でも、そこで怒りを覚えること自体が「当事者でもないのにおかしい」と言われることには納得できないなぁ。

どちらかというと僕は、自分事よりも他人事で怒っていることの方が多いかもしれない。ブロックしている人も大半は「直接僕とは関係ないけど、ヘイトスピーチをまき散らしている人」だし。

僕の言いたいことをまとめると、「何を言ったかより誰が言ったかを気にするの、もうやめない?」ってことなのかもしれない。

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