自他共栄
淡路島にUターンしてから、高校の部活の時以来で柔道道場に通っている。高校生の時から大変お世話になった先輩が運営されている道場で小学生に教えたり(教えるというより技を受ける役目)一般部として稽古したりしている。
嘉納治五郎が創始した講道館柔道の指針として掲げられている言葉に「自他共栄」というものがある。
社会を成し、団体生活を営んでいる以上、その団体・社会を組織している各成員が、その他の成員と相互に融和協調して、共に生き栄えることほど大切なるはあるまい。(引用文)
この考え方は色々なことにあてはまると思う。
私が柔道で大切だと思っていることが、相手がいないとできないということ。武道では技を受ける方を「受け」、技をかける方を「取り」と言うのだが、当然のことだが、両方いないと柔道は成立しないのである。もちろん、一人稽古という稽古方法はあるのだが、相手と組合い、相手の動きに合わせるというのが基本になる。柔道は他者と組合い、他者が次にどう動くか、自分が動いたら他者はどう動いてくるかを想像する、その駆け引きが醍醐味だと思っている。強くなるということについても他者がいないと強くなれない。
建築にも「自他共栄」はあてはまるように思う。ここでの他者は色々と考えることができる。まずクライアントである。設計行為はクライアントとの対話で進めていくが、最後に引用する嘉納先生の言葉にあるように、対話の中で自分の考えを押しすぎてもだめだし、他者の意見を単に取り入れるだけでも他者にとってのいい建築が実現できない場合がある。自分の意見もクライアントの意見も両方がいきる(共栄)答えをみつけられる時にいい建築の芽が生まれることは間違いない。だから建築は面白い。
さらに建築の他者として敷地がある。法令上の敷地だけを建築を建てる場所とするとうまくいかない場合があるので、建築ができる「地域」という方が適切な気がしているのだが、(建築にとって他者であってはいけないのかもしれないが、)他者と考え、共栄すると考えると非常にしっくりくる。建築ができることはその場所に色々な影響を与える。周囲に影を落とすし、風の流れを変えることもあるし、土の呼吸を塞いでしまうこともある。そういう影響を与えながらもその場所(他者)と共栄しなくてはならないのが建築である。柔道と同じで共栄のためには、他者を想像しなければならない。建築ができることそのふるまいによって、他者としての場所に何が起こるのか、それをできるだけ広く深く想像すること。そうすることが柔道を基点として建築に活かすことができる「自他共栄」である。
建築にとっての他者は色々と思い浮かべることができる、建築を使う人も他者と考えることができるし、建築を考えて実現するまでに関わる関係者(協力者や施工者など)も他者といえるのかもしれない。そんな他者に対しても「自他共栄」の精神で向き合うことはとても大切で、それを考えさせてくれる柔道には改めて感謝したい。自他共栄の精神を忘れずにあらゆることに向き合いたい。
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