秋の夜長に
2000年10月23日公開。第五回雑文祭参加作品。
秋の夜は長い。つるべ落としに日が暮れて、清々しい風が吹き渡るころになると、心もしんと静まって夜の長さに思いをはせるようになる。
それはちょうど一日の仕事を終えて家路をたどる時分と重なる。夕暮れの中を地下鉄の駅に向かい、すっかり日が暮れた夕闇の中を郊外の駅から家に向かって歩く。夜気は清涼で、ネクタイの首筋から緊張と疲れを吹き払って行く。すれちがう車も、夏に比べて心なしかスピードを落として走っているようにも感じられる。
今夜はパソコンを離れ、静かに本でも読んでみようか、などと思う。仕事のあれこれや悩みを忘れて、虫の声を聞きながらゆっくり酒でも飲んでみようか、とも思う。そんなことを思うと知らず知らずのうちに足早になったりしてしまう。
秋はまさにそんな季節である。秋の夜長には、激務で鳴る大銀行の頭取でも、そんなしんみりした思いを、一人で物思いにふけりたいような思いを、感じてしまうのではないか。分刻みのスケジュールに追われるという与党の幹事長も感じちゃうのではないか。
しかしながら私にしても、帰宅してしばらくは、くつろぐことなどできるものではない。すでに母親と風呂も食事もすませた二歳と五歳の息子たちが、のべつまくなしにどたばたとじゃれ合い、食事中の父親に飛びかかってくるのである。叱っておとなしくなるような年ではない。二人そろって、おもちゃ箱をひっくりかえし、プラスティックのバットを振り回し、障子を破り、畳にジュースをこぼす。妻も始終金切り声を上げている。まったく秋の夜長などあったものか、切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ。
そんな毎晩の喧噪も、九時には終わりを告げる。
まず、ついさっきまでキャーキャー笑い声を上げていた下の子が、突然眠そうな顔になって「ともちゃんねんねー」と母親にしがみつく。妻はほっとしたような笑顔で、歯磨きを手伝ってやり、おむつを替える。抱き上げて茶の間の座布団に横たえると、半分目を閉じたままもぞもぞとうつぶせになって、すぐに寝息をたてはじめる。
座布団は二枚も並べれば十分だ。その上ですやすやと眠るこの小ささはどうだ。まだまだ赤ん坊じゃないか。小さな布団をかけてやりながら、私はふと頭をなでてやる。
チビさんが寝ると、お兄ちゃんもおとなしくなる。自分で歯を磨き、トイレにも行く。そして「おとうさん、いっしょにねよー」と言ってくれる。けれども、添い寝をすると私も寝入ってしまうことが多いのである。今夜は窓を開けて、秋の夜風を感じて本でも読みながら過ごしたいと思っているのに。だからここは、「お父さんは起きているから一人で寝なさい」と言いたいところなのだが、目を輝かせて私の手を引く息子に向かって、それだけはどうしても言えなかった。
妻は下の子を抱き上げ、私は上の子と手をつなぎ、みんなで床をのべてある二階へ上がる。四人並んで布団に入ると、上の子は案の定、体をを丸めるようにして私の脇にもぐりこんでくる。私は仕方なく、息子の背中をとんとんと叩いてやる。しっかりしているようでも、こっちもまだまだ甘えん坊だ。
息子が眠ったのを確認して、私はそっと立ち上がり、一人で階下へ下りる。妻も子供たちと一緒に寝入ってしまったようだ。
私は、散らかったおもちゃを片づけて、ひとまず風呂に入る。熱い湯の中で手足を伸ばすと、一日の疲れが全身から溶け出していくように感じる。ゆっくりと時間をかけてあたたまっていると、心の中までぬくもりがしみ込んでくる。
パジャマに着替えて、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。窓を開けると、ひんやりとした夜風が流れ込んできて、風呂上がりの肌に心地よい。
こくりと一口ビールを飲んで、大きく息を吐き出す。茶の間には、子どもたちの声がまだ残っているように感じる。いや、私の耳の中に残っているのだ。気がつくと、私の右手にはさっきつないだお兄ちゃんの手の感触が残っている。左腕には抱き上げたチビさんの頭の重さが残っている。胸元にはまだお兄ちゃんの寝息がある。
部屋の壁には子どもたちが描いた絵が貼ってある。画用紙いっぱいにクレヨンでぐしゃぐしゃの線を描きなぐってあるのは、チビさんのだ。手足が妙に大きい人間らしきものを何人も描いてあるのは、お兄ちゃんのだ。よく見るとすべり台や鉄棒も描かれている。園庭で遊んでいるところらしい。道理でみんな笑っている。いつの間にこんなに器用に絵が描けるようになったのだろう。
私はテレビもつけず、夜気の中で缶ビールを飲みながら、子どもたちのことを思った。たいした親父ではないけれど、お父さんはお前たちが大好きだ。お母さんも一緒に、また今度キャンプに行こう。次の日曜は、ともちゃんとタイムレンジャーごっこをしよう。お兄ちゃんとは公園で自転車の練習だ。大きくなったらキャッチボールをしよう。サッカーもしよう。面白い本ならいくらでも教えてやる。
私は思わず目をしばたたいて、窓の外を見上げた。秋の夜空にくっきりと白く三日月が浮かんでいた。
もう一本缶ビールを飲むことにしよう。秋の夜長に、子どもたちのことを考えながら、缶ビールを飲もう。
思うことはいくらでもあるし、まだ時間も早い。
そう、夜はまだ続く。
第五回雑文祭
kazu-p(kazu-pのざれごと)さんと ジャッキー大西(大西科学)さんの主催だったようだが、すでに当該ページが見当たらないので「縛り」がはっきりしない。
・タイトルは「秋の夜長に」
・書き出しは「秋の夜は長い」
・結びは「そう、夜はまだ続く」
・以下のフレーズを入れること「幹事長も感じちゃう」「それだけはどうしても言えなかった」「切れた堪忍袋の緒が蘇生する暇もないほどだ」
だったような気がする。
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