睡魔との闘い

2000年1月28日公開


 先日も私は重要な会議に出席していた。平日の午後、ずらりと居並ぶお偉方に囲まれて、ヒラの私は小さくなって座っていた。
 先ほど昼食終えたばかりで、腹もほぼ満腹と言ってよい。地下の会議室で暖房も十分にきいている。ぽかぽかと心地よいほどである。
 こんな危険な状況はない。暖かい、満腹、会議はこの上なく退屈。
 睡魔の襲来は十分に予想できた。
 しかしこちらにそのための備えはない。昨夜も2時過ぎまでネットの海を巡っていたのだ。切り札とも言うべきミントのタブレットも今は手元にない。
 私はB29の空襲に竹槍で立ち向かうような不安を覚えていた。
 目の前で課長が報告している。私は資料に目を落としながらそれを聞いていた。
 そこへついに、私の肩をやさしく叩くように、睡魔がやって来たのである。

 水魔であればウンディーネである。魔王であれば、サタン、ルシファー、あるいはベルゼブルと様々な呼び名を持つものがある。睡魔には名前はないのだろうか。インキュバス? スキュバス? それは眠る者の上に現れる夢魔の名前である。睡魔ではない。
 とりあえず、ここでは睡魔の名前を「山本さん」としておこう。あくまでも仮称であるから、どんな名であろうと特に問題はないはずである。ついでに読者の便宜をはかるために、四十歳代の男性で関西出身という設定も付け加えておこう。その設定によってどんな便宜がはかれるのかはよくわからないのだが、とにかく「読者の便宜」と言っておけば誰も不自然には思うまい。便利な言葉である。

 山本さんはまず私の額のあたりから入り込んできた。
「へえ、ごめんやっしゃ。ぼちぼち眠たい頃合いでんなあ。ぐへへ」
 いかん! ここで眠るわけにはいかん。会議も佳境で、じきに私の意見も求められる。
「まあ、そない言わんと。暖房も効いてて、気持ちよろしなあ」
 そんなことを言いながら、背後からおぶさってきた。後頭部に自分の額のあたりを突っ込んでくる。
「さあ、寝まひょかあ」
 肩のあたりが重くなった。山本さんは手を前に回して私のまぶたを引き下ろしにかかる。課長の声もだんだんと遠くに聞こえる。
 私は頭を振って山本さんの手を払った。力をこめて背筋を伸ばしてみる。
「あかんあかん。わたいもあんたに寝てもらわんと、今月の成績が……」
「知らんがな」
 私は思わず声を出していた。はっと気づくと資料を手にした課長が、ぽかんとして私を見ていた。私の苦闘に気づいていたらしい係長の目が険しい。私は山本さんが背中からすっと離れるのを感じた。そら目もさめるわ。
 しかし、すぐに山本さんは帰ってきた。今度はいちだんと体重を増している。
「あきまへんなあ。黙って寝てたら恥かかんですんだのに」
 もう耐え切れない。目がかすむ。体が左右にかしぐ。
「そうそう、それでええんや。ねーむれーよーいこよー」
 山本さんは呑気なものである。
 そのとき、司会の管理職の声が聞こえた。
「……君は、現場としての意見はないですか」
 はっと、頭を起こす。しかし、何を聞かれたのかわからない。ピンチである。会議室の全員が私を見つめている。私は眉間にしわを寄せ、考える振りをして資料を繰ってみた。山本さんのせいで、どのページが話題になっているのかもわからない。
「ええ、特にないです。細かいところは後ほどよく検討させていただきますが、おおむねこれでいいと思います」
 どんな風にでも通用する発言で切り抜けた。もし、うまく当てはまるような場面であれば、みんな好意的に解釈してくれるに違いない。
 と思ったが甘かったようである。まわりの人間の顔に「あかんわ、こいつ」という表情が浮かぶのが見えた。
 ちくしょう、お前のせいでー、と背中に乗ったままの山本さんに心の中で毒づいた。
「すんまへんなあ。こっちも商売でっさかい」
 山本さんに反省の色はない。立ち去る気配もない。
 しばくぞこら、あとでおぼえとけカス、と罵ってみるのだが、さすがは睡魔である、動じる様子はない。
 私の敗色はすでに濃厚であった。頭ががくがくしはじめた。指先からボールペンがぽとりと落ちた。
 隣の係長に机の下で靴を蹴飛ばされた。強力な援軍であるが、一瞬はっとしただけで、すでに巨大化した山本さんには通用しなかった。
 「ねーんねーんころーりーよー」
 山本さんは絶好調である。私は敗北感にまみれて心地よい睡眠に引きずりこまれていた。
 そのうちに会議も終わった。山本さんがすーっと去っていくのがはっきりとわかった。
「ええ居眠りでしたなあ。久しぶりにええ仕事させてもらいましたわ」
 そんな言葉を残して、山本さんは虚空に消えた。
 会議室からみんなでぞろぞろと出ようとしたとき、私は課長に肩を叩かれた。
「君、いびきかいとったで」
 私の顔を見て舌打ちして去っていく人もいた。
 こらー、山本さーん、私の出世の芽を返してくださーい。
 それがだめでも、とにかく私のところにはもう来ないでくださーい。
 ひーん。

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