マジエッセイ その1

「筆先三寸」で公開していた短文をいくつかまとめて上げる。



朝日と産経

(1999年7月23日公開)
 新聞を読むようになったのは、社会人になってからである。それまではありがちとも言えるが、テレビ欄とスポーツ欄にしか用はなかった。しかも、新聞が面白いと思うようになったのは、ごく最近、この数年になってからだと思う。ある程度、それなりにものを考えることができるようになり、政治や経済の記事に対しても自分なりにツッコめるようになってからは、すすんで面白がれるようになった。
 特に面白いのは、やはり朝日新聞と産経新聞である。リベラル・左寄り・人権派の朝日と、右寄り・保守反動の産経は、読み比べてみるとあんまり違うので非常に面白い。どっちも「それはないやろ」とか「そこまで言うか」とツッコみ放題である。ことに、この間のガイドライン法案や盗聴法案、国旗・国歌法案については、いずれの紙面も、社説はもちろん、読者の投書欄まで動員して世論誘導に血道を上げている。
 といっても私の読み方は、中立的というわけではない。どちらかといえば朝日寄りで、朝日のいわゆる「偏向記事」に対しては、「そこまで言い切って大丈夫か。またそのへんのオヤジに怒られるぞ」と、肩を持ちながら心配して読んでいる。一方、産経に対しては、ほとんど喧嘩腰である。「またこのガキ寝言ぬかしやがって」とか「俺は絶対おまえの言う通りにはならん」とか、声に出してツッコむこともしばしばである。
 いずれにせよ、新聞は面白い。自分なりの(身勝手なともいう)読み方ができるようになれば。


自虐史観

(1999年7月23日公開)
 皇軍の非道を検証しようとすると「自虐史観」と呼ばれる。教育の場で旧日本軍の侵略を語るのは、子どもたちの「愛国心」を損なうという。近年、保守層に属する歴史修正主義者たちによるそれらの主張の動きは顕著である。
 しかし、犯罪者は、「服役」することで罪を償い、「更生」することで社会に受け入れられるのではなかったか。凶悪犯罪を犯して知らん顔を決め込み、「人殺しは俺だけじゃない」「裁かれるいわれも、償うつもりもない」と居直るような人間を、「最低の下種野郎」と呼ぶのではなかったか。
 それと同じく、過去を直視しようとせず、犯罪を覆い隠そうとする動きこそ、国の尊厳を傷つけるものである。きっぱりと非を認め、謝罪すべきことは謝罪する態度こそ、世界に誇るべき態度ではないか。日本を卑怯な国としてよしとする態度こそ「自虐」の最たるものではないか。私はそんなふうに日本の誇りを傷つけようとは考えない。

 東京裁判は勝者が敗者を裁く異様な裁判であったという。サンフランシスコ講和条約の発効時に国家としての賠償義務は消滅したという。そして、起こした戦争そのものについて謝罪を繰り返す国家など、古今前例がないともいう。
 たしかにそれらはすべて事実かもしれない。しかし私は、もし人であれば当然なすべきことをなせと言いたい。
 ほかにそのような国がないのであれば、日本が嚆矢となればよい。
 南京を、重慶を、七三一部隊を、従軍慰安婦を、きちんと調査した上で、毅然としてかつ公正な態度で謝罪と補償をすればよい。現在は日本国籍を持たない当時の日本軍人・軍属に対しても、日本人同様の補償が必要であろう。
 そうしてはじめて、東南アジア諸国と本当の信頼関係を築くことができる。その信頼の上に立って初めて、そう言いたいのなら、アジア諸国に「いつまでもがたがたいうな」と言い切ることもできる。
 そして、あのアメリカに、無差別爆撃や原爆投下の謝罪を迫りたい。

 君子豹変ではないが、過ちを認め償いを正しくする国であればこそ、国民の愛国心も育つのではないか。私は「自虐史観」を叫ぶ連中が取り繕おうとしているいじましい国の姿になど「愛国心」を持とうとは思わない。
 私は日本に、「いい子ぶる、口うるさい、きれいごとばかり言う、自衛戦争と侵略戦争の区別のつかない」、軍隊自慢の馬鹿国家どもに鬱陶しがられるような、真の平和国家になってほしい。
 そうなってはじめて、私は愛国者を名乗ろうと思う。


「侵略」と自虐バカ

(1999年7月23日公開)
 かつての戦争は「侵略戦争」であった。それはまちがいない。結果としてアジアの解放に役立ったとしても、侵略と非道の事実は動かせない。
 しかし、「侵略」と一方的に叫び、旧日本軍を悪鬼のごとく罵ることの残酷さにも気づくべきであると思う。そんな繊細さの持ち合わせのない輩が多すぎる。私はそんな連中を自虐バカと呼びたい。
 前の文章と正反対じゃないかと怒る向きもあろう。それでも私は正直なところそう思うのである。少なくとも上の文章と以下の文章は私の中では矛盾しない。

 かつて、仕事で「平和のための戦争展」を開催した。そのときの展示の一環として、当時の庶民の暮らしや、兵士の戦地での様子を知ることのできる写真や日用品、おもちゃや遺品の数々を広く収集することになった。そして、私もスタッフの一人として、貸出の申し出のあった地元のお年寄りのもとへ、物品の借り受けに回ったのである。
 その家は老夫婦が二人で暮らしていた。家を訪ねると、上品で物腰の柔らかい丸顔のおばあさんと、同じく気さくで痩せたおじいさんが応対してくれた。
 訪問することは事前に連絡してあったので、おじいさんのお兄さんの遺品はほこりが払われ、手際よく整理されてあった。そのお兄さんが戦死したのか復員してから亡くなったのかは、ずいぶん前のことなので失念したが、軍隊時代の遺品を多く残されていた。たくさんの写真や手紙、徽章類、私物のカメラ、「軍隊手帳」、「慰問袋」等々である。出征兵士を見送るときに贈ったという、達筆の寄せ書きで埋まった日章旗もあった。
 見せられた写真の中の男性は軍装に身を包み、少し緊張した面持ちで胸を張って直立していた。
 展示時の説明文用に聞く必要があったのだが、年老いた夫婦は、それらひとつひとつを手にとって、いつくしむようにていねいに説明してくれた。
 「お義兄さんはおとなしい人でしたよ。写真が好きでね」と、おばあさん。
 「兄貴は〇〇連隊でね、中国ではあちこち行かされたみたいやね」と、おじいさん。
 二人は肩を寄せ合うようにして、遺品をひとつずつのぞき込み、口々になくなったお兄さんの思い出を語ってくれた。ときに笑いながら、ときにお互いの記憶ちがいをたしなめあいながら。
 私は、冷たい麦茶をいただきながら、胸が熱くなって仕方がなかった。
 こんな人たちが戦争に行ってたんだ。こんな人たちが肉親を戦争で失ってきたんだ。
 それは、悲しみよりも驚きだった。大阪大空襲の話は親から繰り返し聞かされていたが、初めて触れる戦争と兵士と遺族のリアリティだった。
 「いい人なのに、侵略のお先棒をかつがされて残念ですね」とは絶対に言えなかった。「中国では中国人民を悲惨な目に合わせたんでしょうね。虐殺とか」などとは、口が裂けても言えないと思った。そんなことをこの場で言うのは、鬼畜生にも劣る所業だと思った。

 私は、旧日本軍の残虐行為を糾弾するのにためらいはない。アジアの人々に災厄をもたらし、多くの日本人を死なせた愚かな侵略戦争を許そうとは思わない。
 けれども、個々の兵士のことを思うとき、糾弾するにも断罪するにもそれなりのやり方があると思うのである。
 そんな想像力にも欠ける自虐バカは多い。A級戦犯と、生真面目で親孝行でちり紙のように使い捨てられた下級兵士を、いっしょくたに侵略日軍の手先と斬って捨てるような言説を目にすると、それはたしかにそうなのかもしれないが、なんだかやりきれなくなる。

 一般の兵士の思いを捻じ曲げてでも大事にして、先の戦争まで美化しようとする、小林よしのりの立場は私には無縁である。先の戦争は、隅から隅まで鬼畜と馬鹿の集まりだったというような自虐バカの論調にも、上のように違和感を感じる。
 戦争に殺された兵士たちを慰め、先の戦争とその責任をきっちり断罪する、よい方策はないものだろうか。

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