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『法善厳一郎 拾うは生者の反響』   第二話 悩み事

 おいマジか。思ってたよりもガチの案件じゃねえか。優希の話しを聞き終えた霧野は、顔を引き攣らせ呆然と立ち尽くした。優希の相談内容は次の通りである。
 
 優希の家族は地元でも有名な高級住宅地に住んでいる。その向かい側に六十代になったばかりの時田真奈ときたまなと同年代の夫、時田一男かずお、四十代前半で一人息子の時田大輔だいすけの三人家族が住んでいた。優希は兄弟がおらず両親も共働きだった為、幼い頃から時田家に通い詰め、息子の大輔とは一緒にゲームをしたり、宿題を教えてもらったりと、本当の兄のように慕っていた。
 両親の帰りが遅くなった時は、時田家の三人と食卓を囲んでいた。帰り際によくお菓子をくれたんだ。優希は微笑みながら話してくれた。
 ところが七年前、幸せだった時田家を不幸が襲った。大黒柱の一男が不良の事故で亡くなったのだ。優希の話しでは、晩酌を楽しんだ一男は病院から処方された睡眠薬を飲んで風呂に入ったらしい。その後、薬とアルコールの相乗効果で、顔が湯船に浸かったまま眠りについてしまった。死因は溺死だった。一男の葬儀には優希の一家も参列した。
 しかし、不幸はこれだけでは終わらなかった。それから三年後、今から四年前になるが、今度は息子の大輔が忽然こつぜんと姿を消したのだ。直ぐに真奈は警察に捜索願いを提出し、捜査が開始されたのだが、どこを探しても大輔の姿は見当たらなかった。親戚宅や友人宅は勿論、小さい頃に行った旅行先や、万が一の事態も考慮し自殺で名の通った付近も調べたが手掛かりは何も掴めなかった。やがて時間が経つにつれ、周囲の大人達が勝手な憶測を膨らませ噂話を広げ始めた。
昨今社会問題になっている新型うつ病にかかってしまい、治療を施すため夜中にこっそりと病院の車が迎えに来て入院した。と話す者もいれば、会社の金を横領して女性にみつぎ、発覚を恐れ国外に愛の逃避行をした。という海外ドラマさながらの物語を披露する者まで現れた。挙げ句の果てには恋人を妊娠させてしまい結婚しようと決意したが、相手の両親に認めてもらえず、その女の子と駆け落ちした。なんて安っぽい創作小説を模した話まで出てきた。終いには富士の樹海に行って人知れず命を絶った。などと抜かす者まで現れたらしい。いま上げたのは全て根も葉もない噂話である。優希も時田真奈に、気にすることはないよ。おばちゃん。と声をかけていたらしいのだが、やはり失踪した息子の母親は心を痛めていたようで、勤めていた会社も辞めてしまい、現在では買い物以外では滅多に家から出なくなってしまったらしい。そもそも優希の話では、あの二人は絵に描いたような良い人達だから、絶対にそんな事はしないし、想像もつかない。とのことだ。結局今も行方はわかっておらず、優希はどうにかしてあげたいと、一人苦心する毎日を送っていたらしい。

「な、成る程な。大まかな内容は理解した」
 おそらく何かしらの答えを待っているのであろう。霧野は横から食い入るように見つめてくる優希の視線を感じた。しかし、現状その想いに応えるだけの推理が成立していなかった。霧野は取り敢えず考えている振りをするため、視線を足元に落とし、新調されたばかりの遊歩道を見つめた。
 季節は梅雨に入る一歩手前の五月下旬。テレビや携帯に出てくる天気予報は雨ばかりで晴れを表す太陽のマークはここ一週間ほど目にしていない。例に漏れずこの日も予報通りの空模様だった。
 
早朝舞うは微風になびく小雨。
正午にとどろくは波板で造られし軒先を打つ雨音。
夕刻漂うは陽光射す静寂。
 
 二、三ヶ月前ならば、冷たく乾いた風が服を突き抜け熱くなった肌を冷まし、汗も直ぐに引いたものだが、この時ばかりは違った。身体の芯が熱くなるのを霧野は感じた。普段は読者が喜ぶであろう怪奇や甘美に満ちた世界を創造している一介の物書きに過ぎないが、知り合ったばかりとはいえ、この不憫で純粋無垢な優希をどうにか助けられないか……。霧野は執筆以上に沈思黙考ちんしもっこうした。
 俺の頭に浮かんできたのは全部で三つだ。一つは違う都道府県でホームレスになって暮らしている。これなら身元がわからないから、警察が見つけられなくても不思議じゃあない。
 二つ目は真っ白な嘘になっちまうが、自分探しの旅に出て四十七都道府県を周っている。という虚構のストーリーだ。まあ現実的じゃないが、なくもない話ではある。
 三つ目は、なんだ、その、あまり考えたくはないが……何かトラブルに巻き込まれて、誰にも連絡できずにいる。もしくは親子喧嘩の末に……。この二つの場合、息子が生きている可能性は皆無と考えていいだろう。
 自分なりの答えは出た。だが、気持ちは晴れない。それを体現するかのように、汗を吸った下着が肌に貼り付いて離れようとしない。なんとも嫌な感覚である。その直感は当たっていた。優希が沈黙を破った。
「もう一つ、聞いて欲しい話があるんですよ」
「なんだ。言ってくれ」
 顔を伏せる優希に、霧野は優しく問うた。しかし、優希は袖から少し出した指をもじもじさせるばかりで、なかなか話そうとはしない。霧野は何も言わず、優希の返答を待った。
「……聞いてしまったんです」
 それは微風にかき消されてしまう程に小さな声であった。
「何を聞いたんだ」
「……声です」
「声──おいおいまさか冗談だろう」
 霧野は大きく身体をのけ反らせ声を震わせた。
「日付は忘れましたが、夜九時頃、歩いてコンビニ行ったんです。そしたら時田さん家から聞こえたんです。大輔さんの声が。優希ちゃん……助けてくれえ……って」
 嘘だろう。ここにきてまさかのホラー要素追加って……駄目だ。終わった。どうにもならん。霧野は勢いよく顔を上げ天を仰いだ。頭上を軽くなった雨雲が流れて行く。壮観にして圧巻。時が過ぎるのを忘れてしまう程に穏やかであった。流石のお前でもお手上げだろうなあ。霧野は仕事部屋に居る親友を思い浮かべ、そっと心の中で語りかけた。親友は古風な書斎机に置かれたデスクトップ型のパソコンのキーボードを忙しなく打っていたが、霧野の問いかけが届いたのか、手を止めて、大きな背もたれの付いた椅子に身体を預け、霧野をチラッと見たあと、微笑した。
《現実世界でもそうだが、もし難解な事件に遭遇した時は……まず心を落ち着かせること。そうすれば再び思考も動き出すってものさ》
 そういえば──そんなこと言ってたっけかな。霧野は無意識のうちに太く短い息を吐きながら、上を向いていた顔を戻し、右手で首の後ろをさすったあと、何も考えずに周辺を見回した。
 刈り揃えられた芝生は黄緑色の絨毯を広げ、河口側には重く湿ったパークゴルフの旗が時折り力無くゆらゆらとなびき、上流側では雨粒をまとった白いラグビーのゴールポストが二組見て取れる。そのふちを青葉を付けた木々とアスファルトで出来た遊歩道がぐるりと一周囲っている。霧野は更に視野を広げた。
 雑草が刈られさっぱりとした土手。合流した雨水を忙しなく海へと帰す川。上空を軽快に横切る層積雲。彼方まで続く青空と大海。その手前に座すは対岸へと車を渡す白い橋。連想するに至るは風景写真。文章を考えるのはいいことだ。一心不乱になれる。それで、次は何をやるんだっけ? 霧野が思い出せず悩んでいると、今度は親友の方から助言が飛んできた。
《本格推理小説を書く時の心得その三。残った可能性が合っているか否か、実際に関係者や現場におもむき情報を集めること。この時注意しなければならないのは、先程も言ったように、闇雲に歩き回らないこと。そして不用意な発言も控えること。こちらの意図を読まれたら証拠隠滅に走る可能性があるからね》
 了解した。まあやれる自信はねえけど。霧野は額から顎先へと流れ落ちた一つ筋の汗を、服の袖で拭い、返答を待ち侘びていた優希に視線を合わせた。
「そうだな。取り敢えずだ、例のご近所さんに会いに行くとするか。ここであれこれ考えていてもらちが開かない」
「それ知ってます。現場百回ってやつですね。ドラマで見たことありますよ」
 優希はなぞのドヤ顔を決めながら、何度も頷いた。
「よし、それじゃあ一度家に帰って、そのあと落ち合うとするか。どこで合流する? 」
「えっ、一度帰るんですか? 」
 優希は不思議そうに霧野を見つめた。
「君はまだ走ってないからいいが、俺は走り終わったあとだからな。さっから汗で濡れた下着が肌に張り付いて寒くてさ」
 霧野は苦笑しながらワインレッドに白の横縞模様が入ったハイネックの長袖を、指でつまみ動かして見せた。
 
 そういえば──優希はここに来た時の事を思い返した。この人、私が駐車場に入ってきた時めっちゃ険しい顔でジョギングしてたっけ。すっかり忘れてた。優希は改めて霧野の全身を下から上へ一瞥いちべつした。履き潰す寸前まで痛んだ黒いジョギングシューズ。汗を吸って重たくなった紺色のスウェット。上半身は先程述べた通り。茶色い髪の毛も汗に濡れたせいであろうか、よくよく見ると若干鈍い光りを放っているように見えた。
「……そうですね。霧野さんは一度お家に帰ってシャワー浴びた方がよさそですね」
「よし、じゃあ車まで戻るか」
 霧野と優希は駐車場まで続く道のりを目で追った。どうやら二人はいつの間にか河口側の芝生地帯をほぼ一周しかけていたようで、残すは左に大きく反ったカーブを残すばかりとなっていた。が、そこは少し雨が振っただけでも水が溜まりやすく、生憎この日も水没と言っても差し支えない程に水面が風で揺れていた。二人は無言で見合った。
「無理だな」
「うん、ちょっと……」
一言ずつ返して、吹き出したのであった。
 その後、霧野が靴を濡らさずに駐車場まで行くには芝生地帯を抜けるのがいいと提案してきたので、優希は快く同意し、二人は芝生へと足を踏み入れた。その直前、時間にして僅か三秒。優希の目に隣を流れる川が映った。若干の底荒れと上流から運ばれてきた土砂によって、川面かわもには薄茶色のもやが掛かっていた。普段は無色透明。それ以外は青みたいな緑色。それがちょっとした出来事で一変してしまう。私の心と同じだ。踏む度に土の匂いを放つ芝生の上を進みながら、優希は濁った川と自分の現状を重ね合わせた。
 でも──優希は顔を引き締め、前を歩く霧野の背中に焦点を合わせた。この人にお願いすれば大丈夫。きっとまた、前みたいに笑って過ごせる日々がくるばす。だって川もいつかは元に戻るもん。それと同じだよ。それにしても……背中デカっ。優希は吹き出しそうになるのを堪え、熊の如くノシノシと歩く霧野の後ろをついて行った。

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