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芝生と椅子

よく晴れた残秋のころである。
いつもは外食でランチをすることが多いが、今日はピクニックをしたい気分だった。11月には珍しい雨続きの週で、私はただ日の光をからだ一杯に浴びたかった。

同僚に私のような酔狂な人間はいなそうだった(あるいは、いたとしてもおのおの友達と過ごしている)ので、コンビニで買った和風パスタとコーヒーを手に、私はオフィス前の芝生でピクニックを楽しんだ。どこからかやってきた赤とんぼが芝生と縁石のふちで羽を休めた。

そこに、総務の女性が声をかけてきた。

「大丈夫?体調悪いの?」

「いえ、ただピクニックをしたかっただけです。」

「よかった。他の会社の人もいて、見た目がよくないから、椅子に座ってもらっていい?」

と彼女は椅子に座るよう促した。

椅子に、太陽は当たっていなかった。

声をかけてくれた彼女を告発したいわけではない。

私はただ、日光を求め、芝生に尻をつけて食事をとりたいだけだった。そこにあったのは、自由を求める気持ちであった。

「オフィス前の芝生でピクニックをすること」は何ら実社会に悪影響を与えていない。ただ、「外部の人のイメージが低下する恐れがある」ということを理由に芝生から追放された。しかし、椅子ならばいいのか。椅子に座る、という行為によって、ピクニックは社会的に正当化されるらしい。

そこに椅子があることが悪いのか。否、椅子は単なる存在であり、いかなる価値判断も持たない。存在に価値を与えるのは、あくまで人間であり、この場合世間様である。

とすると、私のピクニックを妨げたのは、世間の価値観ということになる。この世間というものは、「オフィスの前で椅子に座らず、独り芝生で食事を食べる男性」を体調が悪いかと心配するか、あるいは会社に対して悪いイメージを持つか、いずれかの価値判断しか持ちえないようである。

私の日の光の下でピクニックをしたいという感情は、世間において想定されないし、どうやら世間は価値判断から外れるものを許容できないようだ。

悲しいことに、これで世間は多様性社会を標榜しているのだ。

日の光と自由を求める私は、裏の駐車場のわきのほうの芝生に腰を下ろした。

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