SNS消費論

 「なぜわれわれ若者はInstagramやTikTokで自撮りを投稿するのだろうか」。

 この問いにはひとまず「承認欲求を満たすため」と答えることができる。他人に認められることを欲求するのはなにも不自然なことではない。さらにこれを「現代の若者は異常なほど承認欲求を持っている」というように歴史的観点からの問題化を試みるにしても、たんにSNSこそが現代になって登場したものであって、それ以前の人びとは別の方法で承認欲求を満たしていたのであろうという無理のない推察を返されることだろう。彼らがSNSで自撮りをアップロードするのはたんに自らの承認欲求を満たすためなのだ。では、なぜSNSで自撮りをアップロードすることが、承認欲求を満たすための手段になりうるのだろうか。

 この場合の承認欲求は大きく自己顕示欲と換言できるが、この欲望は「アイデンティティの確立」≒「他人との差異化」と切り離すことができない。であるならば、なぜ彼らは加工アプリを使うことで他人との容姿を判別しづらくし、流行りのダンスを踊ることで動画の内容を他人と同じにするのか。加工アプリを使うのは自分の容姿がよりよく映るからなのだろうが、加工アプリを経由してできた自分の「顔」は、造形から表情までなにもかもが画一化され、個性が失われるどころかときに他人との区別さえ困難になるほど原形をとどめないものになる。加えて、今日においてはマスクの存在も無視できない。ウィズコロナでいかに生活するかが課題になった昨今では、SNSの投稿でのマスクの不着用がコロナ対策を怠っているとの批判を招き、ただちに炎上へと繋がるなどということはほとんどない。にもかかわらず、彼らは頻繁にマスクを着用したままSNSに投稿する。たしかにマスクを着用すると容姿がよく映るのかもしれない。しかし、残酷なことだがそれは彼らの個性ではない。自分が評価されているように見えて、自分のかけがえのない容姿≒アイデンティティが評価されているわけではないのは明白である。さらに「量産型メイク」という言葉が流行ったのもSNS登場以後のことである。量産型メイクは自分をよく映らせるものなのかもしれない。しかしそれは「量産型」の額へ変化した結果であって、ただ一人の自分が承認されているわけではない。

 このようにして自分の顔を見せるだけでは他人との差異を作り出せず、アイデンティティを確立できない中でも、彼らは動画でただひたすら流行りのダンスを踊ることしかしない。TikTokの参照をおすすめするが、とにかく彼らに他人との差別化を図ろうとする意図はまったく見られない。Instagramで他人と変わらない容姿を持つわたしと、TikTokで他人が踊るダンスを踊るわたし。しかしながら先に記したように、この一見するとアイデンティティクライシスに陥りそうな事態こそを、彼らは欲求しているのだ。

 では、このように自分と他人の差異を主観的にも客観的にも見いだすことができない状況下で、彼らはどのようにして、どのような欲望を満たしているのだろうか

 ここで九〇年代以降におけるオタクのコンテンツ消費のありかたを分析した大塚英志の『物語消費論』と、この著作を念頭に置きながらオタクたちの消費行動の変化を別の視点から論じた東浩紀の『動物化するポストモダン』を参照したい。東は著作の中で、オタクのコンテンツ消費のありかたは、もはや大塚のいう「物語消費」という概念においてとらえるべきではなく、「データベース消費」と呼ぶ概念においてとらえるべきだと論じた。その消費形態の変化は、近代からポストモダンへの流れのなかで必然的に要求されたものであったが、実際にデータベース消費を可能にしたのは、詳細は後に記すがその「データベース」という語句からも窺えるように、インターネットの登場とその普及であった。『動物化するポストモダン』は二〇〇一年に出版されたが、この時期にインターネット論と括りうる論考が発表されたことは、インターネットが登場した時期と照らし合わせても自然なことだと言える。いずれにせよ、東浩紀はポストモダンの到来によって、直接的にはインターネットの登場によって、オタクのコンテンツ消費のありかたとその形態が別の段階へ移行したと論じた。

 TikTokやInstagramにおける若者の行動のありかたを説明するのに、なぜ二〇年も前のオタク論を参照するのか。大塚や東の議論は大きく小説やラノベ、ゲームなど物語コンテンツへの消費行動をいかにモデル化するかが問題であったが、これらの議論はTikTokやInstagramを対象とした使用価値に基づかない消費——すなわち「ただ見て満足するだけではない消費」とはどのようなものかを分析しうる射程を持つと本稿では考える。

 大塚英二の『物語消費論』の要旨を記そう。今日の消費社会において、人びとは〈モノ〉をその使用価値ではなく記号として消費しているのは言うまでもない。ではこのような消費形態が現代を隅々まで支配しているとすれば、物語を読むこととはどのような消費をすることなのだろうか。大塚はこの問いに、今日では物語=商品はそれそのものが消費されるのではなく、その背後に隠された「大きな物語」が消費されていることを指摘した。このことをよく表しているのが「ビックリマン」である。一九八〇年代に社会現象を引き起こしたチョコレート菓子「ビックリマン」は、チョコレート菓子という形態を持ちながら、子どもたちが実際に消費の対象としていたのはチョコレートではなく「ビックリマンシール」というチョコレートと別に商品に封入されたおまけだった。この消費状況は、一九七〇年代に社会問題化した「仮面ライダースナック」と軌を一にする。当時、子どもたちは「仮面ライダースナック」に封入されたおまけのカードのみ取り出し、本体のお菓子はすぐ道端に捨てた。子どもたちは明らかに「お菓子」という使用価値を無視していた。

 ここで、「ビックリマン」という商品においてチョコレートはたしかに消費されていないが「ビックリマンシール」はその使用価値に基づき消費されているのではないかという疑問が浮かぶかもしれない。しかし大塚によればそれも誤りである。「ビックリマンシール」は一枚につき一体のキャラクターが描かれ、その裏面には「悪魔界のうわさ」と題される短い情報が載せられていた。「悪魔界のうわさ」で書かれる情報は一枚のみでは単なるノイズでしかないが、それらを何枚か集めるとある二体のキャラクター同士の抗争といった「小さな物語」が読み取れるようになる。これが子どもたちの購買欲を加速させるのだが、コレクション熱に後押しされシールを何十枚も集めた子どもたちは、あるとき「ビックリマン」が描く壮大な世界観=「大きな物語」を発見するようになる。それは神話的抒情詩を連想させるもので、子どもたちの真の欲望はこの「大きな物語」の近くにできるだけアクセスすることへと変貌する。当時の子どもたちが消費していたのはこの「大きな物語」であったのだ。「大きな物語」は決して直接購入されることはない。実際に子どもたちが買えるのは、小さな物語の断片——断片を集めれば「小さな物語」を購入できるわけだが——であり、また「小さな物語」は「大きな物語」の情報のかけらでしかない。

 決して〈購入〉できない「大きな物語」を、「小さな物語」を積み重ねた果てに〈入手〉することができたらどうなるか。「大きな物語」=プログラムを手に入れた消費者は、自らの手で「小さな物語」を作り出せるようになる。さらにこうして消費者の創作意欲によって作り出された「小さな物語」は、オリジナルではないが、パクリでもなければコピーでもなく、さらには偽物でもない。これはフランスの社会学者ボードリヤールが予測する「シミュラークル」がまさに現実化していたことを意味する。シミュラークルとは、ポストモダンの社会において〈本物〉と〈偽物〉の区別が弱くなった結果として現れる、その中間形態としての消費のありかたを指す。

 東浩紀の『動物化するポストモダン』は、これらの議論を大枠では引き継ぎながらも、大塚の「物語消費」をいくつかの点で修正することを試みる。まず東はポストモダンな社会においては「大きな物語」はもはや失われていることを指摘する。日本では高度経済成長や共産主義との戦いといった「大きな物語」はすでに冷戦後には凋落し、社会全体のまとまりが急速に弱体化した。経済成長や打倒共産主義といったスローガンは、たしかに一見すると大塚が提唱した「大きな物語」と相いれないようにも見える。ところがそもそも「大きな物語」という概念は、フランス現代思想を代表する哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』において提唱したものであり、大塚がアニメ制作者やオタクが言うところの「世界観」を「大きな物語」という言葉を用いて表したことは、明らかに大塚がポスト構造主義を意識しながら議論を展開したことを示している。

 では「大きな物語」が失われたあとでは何が残ったのか。ここで東は二〇世紀末に登場したインターネットの特性と関連させ、「大きな物語」が凋落したあとで注目すべきはインターネットの持つ「データベース」であると論じた。当時のオタクたちはもはや「大きな物語」に興味を持っていない。またエヴァンゲリオンを筆頭に、「小さな物語」すらシミュラークルの乱立によってそのオリジナルとコピーの区別が機能しなくなり、オタクたちは原作の物語とは無関係にその断片であるイラストや設定を単独で消費するようになった。この消費行動は「キャラ萌え」と呼ばれている。さらに、東によればこの「キャラ萌え」を誘発するイラストや設定もまた、個々の作者が創作したオリジナル性を持つものではないという。たとえば猫耳やメイド服、しっぽといった要素は、当時のアニメコンテンツに登場するキャラクターによく見られるものだった。

 では当時のオタクたちは実際には何を消費していたのか。それは東によれば、猫耳やメイド服、しっぽといった要素や、作品のさまざまな設定をビッグデータとして集積した「データベース」である。消費者は作品の深層に表れる「データベース」を読み込むことによって、「ビックリマン」のように自らの手で「小さな物語」を作り出せるようになる。オタクたちは個々の「小さな物語」に感情移入し推しの萌えキャラを単独で消費しつつも、一方ではそれらを冷静に萌え要素へと分解し、データベースを蓄積していった。このようなデータベースを対象とした消費のありかたを、東は「データベース消費」と呼んだ。ここまでの東の議論をまとめると、ポストモダンな社会においては個々のオリジナルな「小さな物語」は消え失せ、代わりに「キャラ萌え」するための要素が個々の物語を作り出す。また消費者は萌えキャラへ盲目的に没入しそれらを消費しつつも、一方では冷静に萌え要素をデータベースへと相対化しているのだった。

 ここまで大塚や東の議論を紹介してきた。ここからは、大塚や東が提唱した様々な概念を、SNSにおける消費を分析するために他の様々なものと結びつけることを試みる。

 まずは、物語消費論における「大きな物語」性を「理想的な生活」に見いだし、「小さな物語」性を「ファッションモデル」に見いだしてみよう。ファッションモデルは服飾ブランドの広告塔であり、SNS登場以前には、彼らは「大きな物語」=「理想的な生活」を人々に空想させ欲望させる役割を担っていた。彼らは着たくなるような理想の服装をアピールし欲望させていただけでなく、より望ましいライフスタイル≒「理想的な生活」の規範的なありかたを人びとに提示していた。実際、ファッション雑誌は洋服や装飾品だけでなく、ライフスタイル全般を取り上げるものが多い。今でこそ紙媒体の衰退など別の要因によりファッション雑誌の持つ影響力は霞んでいるが、例えば『an・an』や『non-no』などのファッション雑誌がこれまでの若者流行文化の成り行きをあるていど規定していた側面は否めない。

 これを一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて業績を残したアメリカの経済学者・社会学者ヴェブレンの「見せびらかしのための消費」という有名な文句と関連づければ、彼らの存在は「見せびらかしのための消費をするための消費」という見せびらかしの二層構造を内包するものとして捉えることができる。ヴェブレンが『有閑階級の理論』で提唱した「見せびらかしのための消費」とは、モノをその使用価値で測るのではなく、それによっていかに羨望のまなざしを獲得できるかを意識して行う消費を意味する。これはたとえば、ある特定の記号的な意味を帯びた服装や装飾品を身に着けることで実現できる。しかし、そもそもそれ以前の段階として、人びとは見せびらかすにしても何を見せびらかすかの判断で迷うことがある。そうならないために、見せびらかしの準備として人びとは自らの欲望する「理想の生活」の参照先を求めたが、その要求にこたえて誕生したのがファッションモデルだったと言える。消費者とモデルの関係性の中には「見せびらかしのための消費をするための消費」が内在しているのだ。さらに、このような消費状況は先述した大塚の議論に照らし合わせると「小さな物語」↔「大きな物語」構造へと昇華させることができる。

 話を整理しよう。ファッション雑誌でモデルを見るとき、使用価値が意識されることはほとんどない。たとえばモデルをたんに憧憬のまなざしで、あるいはたんに性的に見て満足することを目的とするなら、それは使用価値を意識して行われている消費と言っていい。しかし人びとはたいてい「見せびらかしのための消費のための消費」をするためにモデルを見る。モデルとモデルが装う服装、モデルを取り囲むシチュエーションの全体を見て、そこに自分が思い描く理想的な生活を投影する。それはつまり、まず理想的な華やかな生活を見せびらかしたいという欲望(「大きな物語」)があり、しかし今それは現実にできないので、理想的な生活を投影することを目的に一人ひとりのモデル(一つひとつの「小さな物語」)を消費することを意味する。

 ところが人びとは、SNSの登場によって自分でその役割を演じることができるようになる。TikTokやInstagramの台頭によって、消費者は誰でもアクセス可能なインターネット空間に自撮りを投稿できるようになった。いわばモデルのみが登場していたファッションショーに自らも参加し、自らの手で演出できるようになった。Instagramで多くのフォロワーを持つ人びとを「インフルエンサー」と呼ぶが、これを職業とするかどうかはともかくとして、彼らはInstagramに自撮りだけでなく、華やかな生活風景や高級な料亭での食事、南の島で過ごしたバカンスでの写真を載せる。この振る舞いは、もともとライフスタイル全般を扱うファッション雑誌の誌面を飾った写真と構造上同じである。

 こうして「シミュラークルの乱立」が起こる。消費者とファッションモデルの間に明確な境界線が引けなくなり、両者には双方向的な関係が立ち上がる。消費者とファッションモデルは互いに「見せびらかし」あい、互いに消費しあう。さらに、このような状況ではオリジナルが存在しない。TikTokでは毎月のように流行りのBGMが変わり、それに合わせて流行りの動きも変わるが、ここで誰がそのBGMの製作者なのか、誰がそれに合わせた動きを作ったのかが意識されることはほとんどない。

 このようにして、両者の区別が曖昧になり、お互いがお互いを消費し相互に影響を与えながら見せびらかすという構造が顕在化した事態にあっては、「大きな物語」はその役目を失ってしまう。ファッションモデルのみが「小さな物語」を演じていたとき、その存在意義は「大きな物語」=「理想の生活」を背景に求めながら保証されるものだった。しかし今やファッションモデルも消費者も、いかにしてたんにヴェブレン的に「見せびらかす」かを意識するしかない。「見せびらかしのための消費をするための消費」という二層構造ではなく、いかに「見せびらかしのための消費」をするかに躍起せざるを得ない。ここに「大きな物語」が凋落したあとで、近代的な消費の原初体系へと逆戻りする人びとの消費のありかたが、逆説的に浮かび上がってくることが示される。「大きな物語」が失われたあと、それでも「小さな物語」を使用価値に基づき消費する段階までは戻りはしない中で、何がその役目を担うのか。

 ここで本稿のはじめに記した問題意識に戻りたい。現代の若者は承認欲求を持つためにTikTokやInstagramで投稿をする。しかしその投稿をするとき、他人と同じダンスをし、加工アプリによって他人と同じような顔に変え、さらにマスク着用や量産型メイクによってますます他人と近づくような行動を加速させる。それはなぜか。これが本稿の問題意識なのであった。一見すると他人と近づくために使われる数々の手段——人気の加工アプリの一つであるPhotoshop、量産型メイク、あるいは地雷メイク、マスク美人、パンケーキ食べたいときのダンスと、その動き。これは『動物化するポストモダン』で東浩紀が指摘した「キャラ萌え」と同じ構造を持っていないだろうか。TikTokやInstagramを消費するとき、これらのありふれた手段が若者のありのままの姿を隠す。ありのままの姿=オリジナルは消え失せ、投稿された画像に残ったのは「キャラ萌え」できる要素のみであった。このような情況において投稿を見る者は、その主体がこれまで想定してきた消費者であれ、インフルエンサーであれ、ファッションモデルであれ、一様に「データベース消費」をしているのである。

 さらに急いで付け加えなければならないのは、ここで「データベース消費」をする主体は、同時にその対象としての役割も担っていることである。『動物化するポストモダン』で想定されたオタクは「データベース消費」の主体でしかなかったが、SNSで投稿する人びとは言うまでもなく自分で投稿しつつも他の投稿を見ている。つまり、彼らは消費主体として投稿された画像を「キャラ萌え」できる要素に分解し若者文化全体のデータベースを消費するのだが、そのとき一方では自らも「キャラ萌え」要素の対象であり、自らがデータベースそのものであることを自覚しているのだ。挑発的な言い方をすれば、データベースそのものがデータベース消費をしていると言うことができる。ここに、SNS登場以後のきわめて倒錯的な消費のありかたが窺える。

 データベースも人びともデータベースを消費する。これはデータベースがふつうの人びとが思い描くような倉庫や在庫のようなものではなく、自らが主体となって、人びとによってだけではなく自らによっても変化し増殖するものであることを意味する。データベースは人でもあり、また人はデータベースでもある。これがたとえば人工知能を人びとがコントロールし対処することができるのか、あるいはシンギュラリティは到来するのかといった問題と直接つながるかはわからない。いずれにせよ、少なくともSNSの登場が、現代人の消費形態を変えるほどの影響力とパワーを内に秘めていることは疑い得ない。

 ウィズSNSである現代はどのような時代なのか。その問題を理解するための羅針盤を提供するのが人文系メディアや研究者の責務であり、私はこうした議論がより盛り上がることを期待したい。

 

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