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#4 子どもには教えなくて大丈夫?

こんにちは。
幼児教育ドラマトゥルクとして活動しています、塚田ひろみです。

「プリミティブな教育」シリーズとして、太古の教育のことや自然とともにある教育について、調べ、感じたことを綴っています。

今までの教育の活動から、大事なものは引き継がれていくように。

また、子どもたちも、子どもと一緒に過ごす大人も、生活・時間・人間関係などの面で無理がない形(継続)ができるようにと願って集めたことです。

#1はこちらからどうぞ(#1 狩猟民族の子どもたち

前回の記事では、ピーター・グレイの『遊びが学びに欠かせないわけ〜自立した学び手を育てる』から、いくつか、効果的な学習効果のエビデンス(実証・実験)を引用しました。

今回は、それをもう少し詳細に見ていくという意味もこめながら、<大人は子どもにが教えないほうがいい>ということは、いったい、どういうことなのか?ということをまとめていきたいと思います。

教えないほうが、子どもは多くを学ぶと言われる背景

よく、「子どもは好奇心のかたまりだから、それに任せておくのがいい」という話を耳にします。もっと進んだ意見には「大人が子どもの育ちを邪魔している」「大人が子どもから学ぶのだ」というものまで様々です。

主に、決まったことを、決まった時期に教える、という学校教育の側面をネガティブに指摘しながら、こうした意見は生まれているように思います。

「もっともらしい意見」というように感じられますし、私もそのとおりだなと思うことが多々ありますが、もう少し事実関係を整理しておくことが、こうした見方を主張していくうえで大切な気がしています。

ピーター・グレイの紹介する実証実験より

赤ちゃんのことは、現時点でも、まだほとんどわかっていないと言われています。その中で、新しい実験結果を目にする機会が、少しずつ増えてきたように思います。

こうした情報は、とても有益です。ただ、実験の結果をそのまま受け取って、示された結果のとおりに行動を変えていく、という方法は、大人の思考力を奪ってしまう、危険なことでもあります。

私は、
・子どもと向き合う大人の持っている、固定概念を壊してくれる=違った可能性をもって、子どもと向き合う機会を与えてくれるもの

あるいは

・子どもと過ごす上で困難に向き合ったときに、実験の結果を取り入れてためしてみる

という風に、それぞれの大人と子どもの個々の関係性の中に、あくまで当事者が主体となって(実験が全て正しいではなく)、実験が活きてくるといいなと思っています。

話はそれましたが、ピーター・グレイの著作において、端的に子どもたちには教えないほうが学習効果が高いということを紹介している実験の例は、以下であるように思います。

心理学者のローラ・シュルツの実験です。

子どもたちは、あるおもちゃを渡されます。ボタンを押せばランプがついて、筒を抜くと音がなる。というように、いくつかのしかけがあるおもちゃです。以下に、引用文を示します。

4〜5歳児が違ったことをすることで4つの異なる結果をもたらすおもちゃで遊ぶ機会が提供されました。1つの筒からもう1つを引っ張りぬいたときにキーキー音が鳴ります。1つの筒の端に隠された小さなボタンを押すと、ランプが点きます。黄色いパッドの一部を押すと、音楽が鳴り出します。1つの筒を子どもがのぞき込むと、自分の顔が反転して見えます。

実験では、大人は、

①おもちゃがキーキー音が鳴ることを教えてから、おもちゃを渡す
②おもちゃでキーキー音を出して遊んで見せてから、子どもにおもちゃを渡す
③なにもせずに、ただ子どもにおもちゃを渡す

という3パターンの行動をとりました。

結果は、①よりも②、②よりも③の子どもたちのほうが、たくさんの時間遊び、おもちゃの機能をたくさん発見したというものでした。(以下に引用しますが、本文では十分に結果を説明していない点があり、要旨を追加していることをご了承ください。)

教える状況では、実験者は意図的にキーキー音が鳴るのを説明しました。実験者が遊んで見せる状況では、実験者は子どもの前でキーキー音を鳴らして遊びましたが、子どもにそれを教えるのではなく、自分がそれで遊ぶようにやりました。対象実験では、実験者は子どもにおもちゃを渡す前に何もしませんでした。結果は、対象と実験者が遊んで見せる状況でおもちゃを渡された子どもたちの方が、教える状況の子どもたちよりも長い時間そのおもちゃで遊び、キーキー音を出す以外の結果も発見することができました。教える状況でおもちゃを渡された子どもたちは、実験者がみせたのはそれだけだったので、おもちゃができるのはキーキー音を出すことだけだと判断したようです。教えられなかった2つのグループの子どもたちは、実験者が自分たちにおもちゃについて何かを教えたとは思っていないので、それの可能性をより幅広く探求することができたのです。

教えられることは、子どもの関心だけでなく、発見するチャンス(能力発達の機会)をも奪ってしまうことがあるということが、ここでは示されていいます。

目の前の子どもの心から

私の娘が6歳になりたてのころ、どうやったらお金を稼げるのか?ということに関心を寄せていました。

何かを売ってみたらいいか?動画配信をして人気者になるか?

など、様々に考えていたので、私はつい、どんな風なやり方で?
どうやってネットショップをつくったり、広報すればいいのか?
知っていることを話して伝えました。

娘は、ちょっと不満げな様子で

「ママ、そういうことは前もって教えてくれなくていい。私は、体験して知りたいの」

と言われました。

子ども自身も、そうやって、体験したいと望んでいることを言葉にして教えてくれました。

大前提としての子どもの権利

親のキツネは、子どものキツネと一緒に過ごすことで、生きていくために必要な狩りのやり方などを伝えるそうです。教えるのではなく、自分のやっていることを見せるというやり方です。

また、子どものキツネが、いつ、親のキツネから学びとるか、そのタイミングを親が決めることはありません。子どもが学びたいと思ったら見る、まねる。もちろん、より早く!ということもありません。

これは、原始的な狩猟民族の子育てのスタイルと同じだと言われています。農耕や労働の必要性は、そのタイミングをコントロールし、子どもから自由をうばってしまった。そのために、従順な労働者を育てる必要があった。

けれど、今、子どもたちには、自分の好きなことを追求してほしい、枠にはまらずに生きていってほしい、そう願っている親はいっぱいいますよね。

そのためには、子どもたちに学ぶタイミングの自由を保証してくこと。大人から、教え込むことは必要ないのではないでしょうか?


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塚田ひろみ |アーティスト気質のためのビジネスマインダー
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