見出し画像

India~Bangladesh 2016.2.28-3.21 ⑤

(前回の話はこちらから)

3.日々の旅の記録 つづき

(アイアプラル・・・ありがとう)

3月3日 木曜日  晴れ
調度いい気温。シャツにカシミアの長袖に木綿の丈長上着。ホテルの前の大通りをわたってメモリアル8時オープンに出かける。今日の朝食は、ホテルのレストランでゆっくりパンとコーヒーを味わう。8時きっかりにメモリアルホールがOPEN。時間厳守とは意外や意外。そう言えばタクの運チャンも時間厳守やった。 
 
チェックアウトをすます。1泊1500R、2泊で3000Rと思って用意おいたのに2800Rだった。

その時フロント係の兄チャンが私にどこへ行くのかと尋ねた。ディマプールからsillongに行ってバングラデシュに行く、と言った。ディマプールで1泊して早朝シーロン(sillong)に向かえば明るいうちに着く、と思っていたがバスでは丸一日かかるらしい。なので今日、

(上の図)この予定で行った方がいい。なぜなら昼頃にsillongに着いたのでは、宿は見つからないかもしれないと教えてくれた。

上記のようにのりあいタクシーに乗り9時出発する。合い乗りの乗客は助手席に弟のお見舞いに行くという50すぎの男性、20才の若い男性、80才は過ぎていようかと思う杖を持った老人の四人。

この運転手の車内に流す音楽が実に軽快でアップテンポ。なんだか気持ちが軽くなる。その上昨日と違って道路の状況も良くおじいさんの鼻をつくにおいがなければ100店満点なのに!思わず外の砂ほこりも無視して窓をあけないとたまらない。

車内に流れるアップテンポのミュージックのようにディマプールへと車窓から入る風を受けて心地良く風景が過ぎ去る。

時間調度にディマプールに着く。同乗の客に鉄道の駅は聞いておいたので、タクシーの支払いを済ますとチケット売り場へと向かった。3ヶ所あいている(チケット売場の)窓口に人々が人々を押しのけて、チケット(売り場)の小さな窓口にお金を差し込んでいる。私もまけまいと、すかさずメモ用紙を入れる。何とか(チケットを)手に入れたが、このチケットが何時発?なのか、今日はいつ乗ってもいいのか、解らない。

窓口で聞いてもなまりの英語で、その上マイクを通じて。あきらめてホームへ行ってみる。売店にお客が誰もいなかったので、私のチケットを見せて心配なことを聞いて見る。このチケットは今日なら①何時に乗ってもいい。ただし②寝台列車はない。③グワハティで乗り換え(3時着)。そこへもう一人の紳士が来て、もしなにか不都合があればここに電話する様にと、私の手持ちの封筒とメモ用紙に書いてくれた。④この駅に8時(午後)に来ること!

これで一応の仕事は終わったのでディマプールで唯一いこうと思っていた遺跡に行こうと、オート力車をつかまえる。写真をみせ、値段交渉をしていく。駅からわずかオート力車で10分足らず。チケット売り場もなくゲイトの(扉の)鍵が壊れて半開きになった所から無理やり入る。観光客は私一人。意外と来てよかった!

写真をとり、長居しようにも何も無い。ゆっくり帰りかける。オートに乗ってくる途中マーケットをみかけたので、ウロウロそこで時間をつぶそうと考えたので歩くことにした。マーケットに入る前に、角でたくさんの人が入っているレストランを見つけ、昼食とする。どれも美味しかった。

王宮の遺跡までオートリキシャ 50R
マーケットから駅まで     30R

ひややかし半分に結構大きなマーケットに入る。屋根はテントでおおわれているので日差しがさえぎられて涼しい。大きな荷物の預け場所がなくずっと背負っているのは何かと不便。ズーーとサンダルを持参しなかったのが誤算。サンダル屋でサンダル二つ買う。一足は私、一足は一チャンの。

待っている時間がながいので果物も買う。トマトもほしいと思いトマト屋さんで2個というと、もう持っていけと言ってくれた。もう何も欲しいものはないのでオート力車にのって駅まで戻ることにする。

この日記はポリスマンが座っている横の椅子にすわらせてもらって書いている。ここまでくると、やっぱりインド人の顔つきが増え、サリーをまとった姿もよく見かけるようになった。大きなバッグをポリスマンに見ててもらって駅構内のトイレに行く。使用料5R。

シーロンのHOTELをガイドブックを見てチェックする。アレ??アレ ??
コヒマと桁が一つちがう。高級ホテルで590R~1000Rもいかない。おかしい。一番先に、sillonに着いたらその高級ホテルへ行ってみよう。ずーーーと駅入口のポリスマンの椅子に座っていると、さっきチケットの件で色々教えてくれた人が現れた。私も顔を覚えていた。どうやらこの駅の警備担当のボスらしい。

ここから先は

3,743字 / 6画像

今回の旅は第二次世界大戦で戦死した叔父の慰霊のための企画でした。 叔父の戦歴を取り寄せて調べてみると五年間の戦歴が詳しく書いてありました…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?