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私の卒論のテーマと、執筆を通じて学んだこと

この記事は、筑波大学人文・文化学群Advent Calendar 2022の23日目の記事です。
大幅に遅れましたことを、この場を借りてお詫び申し上げます。

はじめまして、あるいはご無沙汰しております。F^−(ふっか)です。
今回は、アドベントカレンダーなるものを書いてみようとふと思い立ち、ちょうど卒業論文もひと段落ついたのでそれについて(振り返りも兼ねて)書こうと思います。
特にこれといったプロットもなく、書きたいことを書きたいように書き散らしていくつもりです。また、専門用語についてあまり説明をしておりません。この2点についてご容赦ください。

私の卒業論文のテーマ

一口に卒業論文といえども人によってテーマは様々です。私は日本語・日本文化学類という学科相当の組織に所属しているのですが、そこで卒業論文のテーマとしてよく扱われるものは「日本語」「日本文化」「国語教育・日本語教育」の3つに大別できるような気がしています。中でも私のテーマは「日本語」、特に「現代日本語」の「文法」というものに該当すると思っています(より専門的な見方をすれば違うのかもしれませんが、この場ではこういうことにしておきます)。
「現代日本語の文法」といってもさらに細分化できるのですが、ここでは詳細は割愛します。では私のテーマは何かというと

「Twitterにおける読点付き文頭名詞句の機能」

というものでした。

「Twitterにおける読点付き文頭名詞句」とは

「読点付き文頭名詞句」という文字列を見て、何を指しているのかピンとくる人はどの程度いるでしょうか。百聞は一見に如かず、説明を重ねるよりも実例を見た方が早いと思いますので、作例(実際に収集したデータではなく、筆者の作為によるもの)を以下に示します。

(1) 長崎の水族館のペンギン、日本で一番可愛い。
(2) パスタ、いくらでも食べられる。

(作例)

引用ブロック中太字部分読点付き文頭名詞句に相当するものです。文法に詳しい人であれば、「「文頭名詞『句』」というので、「長崎の水族館のペンギン」のように修飾語句(「長崎の」「水族館の」といったもの)が連なっている形だけが相当するのでは?」と思うかもしれません。しかし実際に収集したデータを見てみると、「パスタ」のように単独の名詞が文頭に現れる場合も多かったため、この場合も含めることにしました。

このテーマのどこが面白いと思ったのか

ここまで読んだ人の中には「それで?(これのどこが面白いんだ、動機はなんなんだ)」と思った人もいるでしょう。あるいは「これについて何かわかったところで何の役に立つのか?」と思った人もいるかもしれません。後者については「卒業論文レベルでそのようなことを問われても困る」というのが私個人の正直な所感ではあります。しかし、前者について、確かにここが分からないとどうにも話に入り込めないと思ったので、このテーマの面白さについて3つの点から説明します。

「は」や「を」でも言い換えられるにもかかわらず、「読点付き文頭名詞句」が出てくる

先ほど「読点付き文頭名詞句」について2つの例を出しましたが、これらの例は次のようにも言い換えられます。

(1)' 長崎の水族館のペンギンは日本で一番可愛い。
(2)' a. パスタはいくらでも食べられる。
  b. パスタをいくらでも食べられる。
  c. いくらでもパスタを食べられる。

(作例)

(1)'aと(2)'aは(1)(2)の読点を「は」に言い換えたもの、(2)'bは(2)の読点を「を」に言い換えたもの、(2)'cは(2)'bの語順を変えたものになっています。いずれも(多少違和感を覚えることはあったとしても)明らかに言えない文ではないはずです。しかし、Twitterのタイムラインを眺めていると、「は」や「を」等の助詞ではなく、「読点付き文頭名詞句」を用いたツイートがそこそこ頻繁に流れてくる気がします。筆者のツイートを探してみても……

内容がとんちきなことには目を瞑ってもらうことにして、これも「かわいいペンギン……世界線、」で1つの「読点付き文頭名詞句」が形成されています。また、

(3) かわいいペンギンになってお世話される世界線を狙いますか

(作例)

のように、「を」でも言い換えられます。しかし、なぜか「を」は出てきません。

他のTwitterユーザーも、「Twitterにおける読点付き文頭名詞句」について言及しているが……

この現象について、実は既にあるTwitterユーザーが別の呼び方で言及しています(リンク先はtogetterまとめです)。
その言及について見てみると、「慣れるとそれ以外の文をTwitterで書けなくなるから気をつけたほうがいい」という注意がされているのです。

名詞を先に出して読点を打つ記法、なれるとそれ以外の文をTwitterでかけなくなるから気をつけたほうがいいよ

みすく(@misc47), togetter(https://togetter.com/li/1503735)より(2022/12/29閲覧)

この言及自体が「名詞を先に出して読点を打つ記法」になっているのも興味深いのですが、今回注目したのは「それ以外の文をTwitterで書けなくなる」という点です。言い換えれば「名詞を先に出して読点を打つ記法(本稿でいう「読点付き文頭名詞句」)はTwitter及びツイートとの親和性が高い」ということにもなるでしょう。ではなぜ「読点付き文頭名詞句」はTwitterとの親和性が高いのでしょうか。残念ながら、先の言及ではこの点まで触れられていません。

「読点付き文頭名詞句」はTwitter特有の現象ではないが、Twitterを対象にした先行研究はほぼ見当たらない

ここまで読むとあたかも「読点付き文頭名詞句」がTwitter特有のもののように見えますが、実はそうではありません。日本語学では「助詞の脱落」や「無助詞(句)」といった用語で「読点付き文頭名詞句」と同様の現象が扱われています。それらのほとんどは「話しことば」に現れるものを対象としています。
また、鋭い人は「新聞やニュースのヘッドライン(見出し)でも「読点付き文頭名詞句」はよく見るのでは?」とお気づきかもしれません。

ワクチン接種後死亡、調査委が初会合 再現現場を視察、愛知県愛西市

朝日新聞デジタル(https://www.asahi.com/articles/ASQDY61YDQDYOIPE003.html)より(2022/12/29閲覧)

新聞やニュースのヘッドラインは「書きことば」に相当します。
このように、「話しことば」でも「書きことば」でも現れることから、「読点付き文頭名詞句」がTwitter特有の現象ではないことがお分かりいただけるかと思います。
しかし、管見の限りでは、Twitterで見られる「読点付き文頭名詞句」を対象にした先行研究は(ほぼ)見当たりませんでした(注;同じ学類の1つ上の学年の先輩に、Twitterの「読点付き文頭名詞句」を扱った人がいましたが、その論文は公には公開されていません)。
また、長くなるため詳述はしないのですが、GoogleスカラーやCiNiiでヒットするような先行研究が提示する、「話しことば」の「読点付き文頭名詞句」の知見がそのまま「Twitterにおける読点付き文頭名詞句」にも当てはまると思えませんでした。よって、卒業研究という形で調べてみようと思ったのです。

この節のまとめ

ここまでで長くなってしまったため、この節について簡単にまとめます。

  1. 「は」や「を」でも言い換えられるのに、Twitterでは「読点付き文頭名詞句」が使われることがあるのはなぜか

  2. どうやらTwitter(ツイート)と「読点付き文頭名詞句」は親和性が高そうだが、なぜそうなるのかについては言及がない

  3. 「Twitterにおける読点付き文頭名詞句」に関する先行研究がほとんど見当たらず、よく分からない

  4. 以上3点を解明するために、卒業論文のテーマとして「Twitterにおける読点付き文頭名詞句」を研究する

こうして見ると、「自分が知りたかったから」という知的好奇心から始まっているのがよく分かります(し、私自身はそれでいいと思っています)。

執筆を通じて学んだこと

ここまで、卒業論文のテーマについて書いてきました。そのまま論文の内容について書いてもよかったのですが、

  1. 諸事情により卒業論文を今年度提出しない

  2. 初稿段階で50ページを超えるほど内容が多く、説明しきれない

という2つの理由により、今回は内容の詳述を差し控えます。悪しからず。
代わりにといってはなんですが、執筆を通じて学んだことを書こうと思います。学んだことについては色々とあるのですが、この段階で既に3000字を超えているので、(備忘録だけでなく今後卒論を書く人にも向けて)1つだけ取り上げようと思います。

主指導教員(主査)への報連相はなるべくこまめに

これに尽きると思います。はい。
これは他の人文系学徒の話に基づく筆者の類推ですが、人文系の卒論指導の特徴は「研究室・ゼミが無い(定期的な指導の機会が無い)こと」だと思います。私の主査は「2週間に1回、オンラインミーティング」という形で指導学生の進捗報告の機会を設けてくださいましたが、このような場合は珍しいようです(特に日本語・日本文化学類の日本語系の場合。文化系の人たちがどのような指導を受けていたかは知りません)。話を聞くと「自分で研究を進め、不明な部分等あれば都度主査に連絡してアポを取り、個別に指導を受ける」というスタイルが多い印象を受けました。このスタイルの良いところは自分の思うように研究を進められる点だと思いますが、難しい部分もあると思います。それは、

研究で躓いたときに、アドバイスを受けにくい

という点です。困ったときにすぐに主査に連絡できる(泣きつける)人なら良いのですが、中には躊躇う人もいるのではないでしょうか。私も「こんな些細な悩みやつまずきで主査に手間をかけさせていいのか……自分の怠惰のせいで進まないだけで、ちょっと努力すれば済む話ではないのか」としょっちゅう悩んでいました。ただそう思う時こそ、他者の、それも自分よりもはるかに専門知識や経験がある人(=主指導教員)に頼るべきだと今となっては思います。そう思う理由は次の2つです。

  1. 1人で悩むとどん詰まりにはまりやすいから

  2. 他者だからこそ見えるものがあるから

1については思い当たる節がある人もいるでしょう。1人で悩むと思考が碌な方向に進みません。そうなると見えるものも見えなくなります。見えるものが少ないと、思考はより悪い方向に流れていきます。負の循環が続いていくのです。そのような時に1人で思い悩んでも、その負の循環から抜け出すのは非常に難しいものです。そこで他者の、学術のプロに頼るべきなのです。他者からの指摘により見えていなかったものが見える可能性があり、かつプロであればより的確な指摘がもらえるからです。
負の循環の中で悪い方向にしか物事を捉えられない時に、他者に対して希望的観測を持てるのか(否持てない)と思う人もいるかもしれません。ですが、これだけは覚えておいてほしいのです。

考慮を重ねた上で他者を頼るのは悪いことではない

私自身、行き詰まっていた時に、
「何が分からないのか」「どこで行き詰まっているのか」
をある程度明確にして主指導教員に相談したところ、指摘や示唆をいただいて展望が開けたという経験が幾度もありました。このことがなければ書き上げられなかったでしょう。主指導教員には感謝してもしきれません。
さて、少々語りがくどくなりました。これ以上言葉を重ねても、私の能力では良い文章は出てこないでしょう。この辺りで今回は論を閉じたいと思います。

最後に、人・文学群のアドベントカレンダーを企画・作製し、素敵な機会を設けてくださったAzumabashi氏に感謝します。ありがとうございました。

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