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思い入れの深いもの

身バレを避けたいものの、世間の目に触れずに生涯お蔵入りは悲しいため、やはり思いきって公開しようと思い、勇気を出してみます
荒もかなりあるでしょうし手法も稚拙かも知れませんが、長期に渡って推敲、書き直しもたくさんしました
私のオリジナルの物語の中で最も思い入れが強い作品です
後半、特に第三章以降それが強いです
序盤は少し展開が遅いかも知れませんが、文章のプロではなく素人ですので、察してください

楽しんでくれる人が1人でも居たならとても嬉しいです

かつてブログをした際、序盤のみを公開したことがありましたが、全編を公開するのははじめてです
思いが届いてほしいなと思います
読むのが早い人でしたら、きっとすぐ読めちゃうと思います

※作品の内容、また本文、挿し絵など、決して無断転載、拝借等をしないでください

寅太
みい

 
「 寅太の空」


  小さなそして些細な出来事は、空の大きさより小さいだろうか。
  あの時、空に滲んで見えたのは僕自身だったのだ。


   序章 

 何だかこの頃兄ちゃんがひどくよそよそしいんだ。
 兄ちゃんは僕が眠る時にはいつも本を読んでくれていたし楽しい話を聞かせてくれていた。今の季節みたいに寒い時期なんかはたいていいっしょの布団で眠っていた。
 それがこの頃の兄ちゃんときたらほとんど口を聞いてくれないし、おまけにいつもむすっとして暗い顔をしているんだ。

 僕の家は二階建てで正直話してしまうとかなりのボロ家なんだけど、それでも家族四人いつも楽しく幸せに暮らしていた。
 本当は五人家族なんだけど、兄ちゃんのお姉ちゃんが遠くの街に働きに出てしまっているので今はこの家には四人しかいないんだ。
 お姉ちゃんのことは僕がまだ本当に小さかった時に家を出てしまってたのでほとんど写真でしか見たことがなくて、たまに電話がかかってくるけど僕は電話に出たらいけないらしい。だからあまりお姉ちゃんのことは知らないんだ。でも兄ちゃんから聞いた話だと、お姉ちゃんはとても明るくて活発な性格なんだそうだ。
 それから、僕の母ちゃんと父ちゃん。
 母ちゃんは美味しいご飯を毎日作ってくれるし、兄ちゃんほどじゃないけど僕には結構優しいんだ。たいていは鼻歌なんかをふんふんと歌っている。
 でも父ちゃんときたら、本当にいつも僕のことを怒鳴ってばかりでろくに話も聞いてくれない。そればかりか何か気に入らないことがあると決まって僕を殴るんだ。だから僕は父ちゃんのことが苦手で大嫌いなんだ。
 僕が殴られたりした時は決まって兄ちゃんが助けてくれるし、兄ちゃんは父ちゃんに、何てことするんだ、やめろよって怒鳴ってくれるんだ。そうすると父ちゃんは、酒を飲みにいってくるとかいって表に飛びだしていってしまうんだ。
 父ちゃんの行動が世間でいうところの虐待なのかどうか、僕にはわからないが、少なくとも僕には兄ちゃんという頼りになる味方がいた。だから兄ちゃんは僕にとって正義のスーパーヒーローそのものなんだ。本当の父親よりも優しいんだから、僕は兄ちゃんが父ちゃんだったらどんなにいいだろうっていつも思っていた。
 そんな兄ちゃんが最近本当に元気がなくなって、大の仲良しの僕にもよそよそしいから僕は毎日が不安で不安でたまらなかった。

 ある日の午後、その日は休みの日だったので朝から家族が皆家にいた。といっても僕は学校には通っていなかった。どうして僕が学校に通っていなかったのかというと、僕が小さかったからではなくて、うちには非常に複雑な事情があったらしい。その事情というのは僕には理解できないものなんだけど----。
 でも僕は兄ちゃんと違って学校に通っていなくても、この家の中ではそれが当たり前のようにすべての物事はうまく機能していた。実際うちの家庭はそうとう変わっていると思う。僕は特殊な家庭環境の中で育ったのかもしれない。
 僕は本来なら少なくとも小学校の高学年か、または中学生になっているはずの年齢だと思う。けれど兄ちゃんは常日頃、ひょっとしたら僕のほうが歳上かもしれないなどとわけのわからないことをいっていた。僕をからかっていたのだろうか。僕にはその意味がよくわからなかったから、おそらく精神年齢のことをいっているのだと勝手な解釈をして安心することにしていた。
 そんなことすらわからないんだからこれはそうとう異常な状態に違いないと思う。でも兄ちゃんは学校に通っていたし、といってももう卒業して社会人になってしまったんだけど----。でもそれはつい最近のことだったように思う。
 兄ちゃんはそんな複雑な家庭で育ってきたからか、普段とても無口だったし僕以外の人間とはあまり親しく話をしなかった。

 僕はベランダで日向ぼっこをしながらついうとうとと眠ってしまったらしくて、気がついたら夕方になってしまっていた。
 お腹が空いたから下に降りて何か食べようと思っていたら、下のほうで兄ちゃんが凄く大きな声で怒鳴っていたので僕はびっくりして階段の上で固まってしまった。
 その時兄ちゃんは、どうして寅太を連れていけないんだって何度も怒鳴っていた。
 僕には何のことだかさっぱりわからなかった。でも明らかに僕のことが話題の中心になっていて、しかも兄ちゃん以外は皆僕のことを、連れてはいけないとかいってるんだ。僕にはどうしても話の内容がつかめなくて、どこにも連れてってもらえないんだったら家で一人で留守番してればいいやって、そんな風に考えていたんだ。でも何だか皆ひどく僕に冷たいような気がして、なぜか急に悲しくなってきて僕は階段の上でひそひそと泣いてしまった。
 そんなことがあったその日から、家族の皆が急に僕に対して優しくなった。
 とりわけ兄ちゃんは、まるで神様のように優しくなった。

 それから幾日か経ったある日のこと。
 その日はとっても風が強くて、もうじき春だというのに凍てつくほどの寒さだった。
 家の皆は何やら慌ただしくせかせかとしていて、家の中を整理したり掃除したりしていた。
 兄ちゃんも一所懸命部屋の片付けをしていた。
 お正月の前の日もそうだったけど、この日もそんな感じで家じゅう大忙しという感じだった。
 兄ちゃんがいうには、僕はかえって邪魔になるだけだから手伝わなくっていいんだって。だから僕はできるだけ皆の迷惑にならないように、またベランダでごろごろすることに決めた。
 だけどベランダはとても風が強くて寒かったので、これではお昼寝もできないなと思った。何とかならないものかと考えた末、兄ちゃんが部屋の片付けに使っているらしきダンボールを一つ拝借することにした。
 僕はそのダンボールをそうっとベランダまで持ってくると、それを広げて中に入りそこで寝ることにした。
 風がダンボールに当たるとぼうぼうと低く鈍い音を立てた。
 そうこうしているうちにだんだんと眠くなってきて、僕はそのまま眠ってしまった。

「寅太、こんなところにいたのか」
 兄ちゃんだった。
 僕ははっとして目を覚ましたけれど、どうにもこうにも眠くてとても起きられそうになかった。
 兄ちゃんはダンボールの中の僕をじっと見たかと思うと、その重たいはずのダンボールごと僕を持ちあげ、悠々と階段を降りた。いくら僕がチビだといってもそれなりの重さがあるのは確かなので、兄ちゃんは痩せて見える癖にかなりの力持ちなんだなと思った。
 そして裏の玄関の戸を開けるとそうっと僕を降ろして地面に置いた。
「ごめんな、寅太」
 兄ちゃんの声はとても優しくて、けれどなぜかとても悲しそうに聞こえた。
 僕はそのままダンボールから出ずに兄ちゃんのこととか色々なことをあれこれと考えていたが、気がつくとまた浅い眠りの中に落ちていった。
「ごめん----」
 風の音はやがて聞こえなくなった。

           *

 トラックの走り去るような轟音がして僕ははっと目を覚ました。けれどそれ以外はとても静かで、時おり風がびゅうと吹くくらいだった。
 外で寝てしまっていたのに少しも寒くなかったのでどうしてだろうと思っていたら、ダンボールの中に僕の周りじゅう兄ちゃんの毛布がいっぱい詰めてあった。僕はとても幸せな気持ちで、毛布の温もりがまるで兄ちゃんみたいだと思った。
 僕はこうしていると自分が社会的に駄目な人間----そう、まるで浮浪者のようだと思った。
 浮浪者がどういうものかくらい僕だって多少なりとも知っている。もちろん何となくだけれど。
 僕のように家族がいて毎日温かいふとんで寝ていられる身としては、浮浪者がどういう人たちなのか、それは想像の域を出ないけれど。
 こんなふうにダンボールの中で寝起きしている人たち、食事もその日暮らしで、冬はダンボールの中で冷たい風を凌いで暮らす----。でも僕はまだ社会にさえ出たことのない人間だから、浮浪者の生活だとか苦労はまったくわかっていないに違いない。けれど今の僕は、誰が見てもまさしく浮浪者のようだと感じることだろう。
 だんだんに眠気も取れてきたのでダンボールから這い出ると、外はもうすっかり暗くなっていた。
 僕はお腹が空いてきたので家の中に入ろうとしたが、どうしてか戸が開かなかった。一所懸命、戸を引っ張ってみたけどびくともしなかった。
 無用心だけど僕のうちはいつも裏の戸の鍵なんて閉めないはずなんだ。
「おーい、兄ちゃん。母ちゃん」
 僕は大きな声で叫んでみたが、返事は返ってこなかった。
 もうみんな寝てしまったのかな。
「に、兄ちゃん!」
 僕は戸をごんごんと叩いてみたが家の中から返事はなくて、しんとしたままだった。

 ----変だ。

 まるで家の中に誰もいないみたいじゃないか。
「兄ちゃああーん!」
 僕は力の限り戸を叩き続けた。
 ついさっきまで温かい毛布の中で幸せな気分で眠っていたというのに。
 どうして。
 いったい何が起こったんだ。
 また風がびゅうと音を立てて吹いた。
 体は寒さで思うように動かなくなっていた。
 兄ちゃん、僕今日はダンボールで寝るしかないのかよ----。
 ダンボールのほうを見やると、その横に何やらたくさんのものが置かれていた。はじめは暗くてよく見えなかったが、近づいてよく見るとそれが食べ物だということがわかった。僕の大好きなソーセージやシーフードの缶詰、それに山盛りのマクドナルドのフライドポテト。
 フライドポテト!
 兄ちゃんと二人でいつもいっしょに食べていた僕の大好物のフライドポテト。
 缶詰は綺麗に開けられていていつでも食べられるようになっていた。僕は空腹に耐えきれず、外灯の微かな明かりのもとでそれをむしゃむしゃと食べた。寂しくて切なくて寒くて悲しくて、じわりと涙が出てきた。
 兄ちゃん、何でだよ----。
 ねぇ、皆どこにいっちゃったんだよ----。
 その時、兄ちゃんの怒鳴っていた言葉が頭をよぎった。 
 ----どうして寅太を連れていけないんだ!
 ----バカ。あんなの連れていけるわけがないだろう。
 ----寅太を置いていくなら俺も残る!
 兄ちゃん。
 ----そんな聞きわけのないこといわないの。
 ----今のうちの状況を考えたら。
 に、兄ちゃん。
 ----ごめんな、寅太。
 ----ごめん。
 にぃちゃあああーーん。

 空を見あげると星が滲んで輝いていた。


   第一章    春

 その出来事があってからいったいどれくらい時間が過ぎたのだろう。
 置かれていった食べ物はほとんど食べてなくなってしまっていた。
 朝が過ぎ夜が過ぎそしてまた朝が来て----。僕はその繰り返しの生活に疲れていた。
 待っても待っても兄ちゃんも母ちゃんも帰ってきてはくれなかった。涙も渇れて鼻水さえも出なくなっていた。
 近所のおばさん共が僕のほうをじろじろと見ながら、可愛そうにねえなどというのにも聞きあきていた。僕は決して信じたくはなかったが、これだけ時間が過ぎたのだから認めなければならないのだろう。

 ----僕はおそらく棄てられた。

 よく母ちゃんと父ちゃんがお金のことで揉めていたから、夜逃げか何かをしたのかもしれない。それで学校に通っていない僕は当然働けるわけがないし、お金もかかる一方だから棄てられたんだ。
 兄ちゃんはきちんと学校も卒業して働ける年齢だから連れていってもらえたに違いない。
 けれど、こんなひどいことがそうこの世の中にあっていいものだろうか。
 僕はこの先何を信じて生きていけばいいんだろう。
 兄ちゃん、会いたい----。
 さすがに近所でも僕のことが話題になっているみたいだった。こんな生活を続けていたら、いつ孤児院や施設に送られるかわかったもんじゃない。
 ----だとしたら。
 だとしたら、僕はここから逃げるしかない。
 今の僕にできることは、きっと逃げることくらいしかないんだ。

 僕は駅の改札に向かって走っていった。そして何とか駅にたどり着いたが、さあ困った。切符を買おうにもお金なんて持ってないし着ている服もかなり汚れていたので、駅員さんに不審がられやしないかと心配になった。
 どうせお金がなければ電車に乗れるはずがない。けれどどこか遠くへいきたかったら電車に乗るしか方法はない。
 僕は駅員さんのいるほうをじっと眺めていた。
 よし、こっちを見ていない。
 僕は全速力で自動改札のほうへと走っていった。
 見るな、見るなよ!
 自動改札を下からくぐり抜けると、駅員さんに気づかれてしまった。
「お、おい。待て」
 待てって。待ってられるか。
「誰かそいつを捕まえろ!」
 ---- 白線の内側まで下がってお待ち下さい ----
 電車だ。電車が来た!
 僕はゴミ箱の脇に身を隠すと、電車が止まるまで息をひそめて待った。時間にしたら三十秒くらいかもしれないけど、僕にはそれがまるで永遠のように感じられた。
 駅員さんはどうやら僕を見失ったようだ。
 僕は見知らぬ顔でそうっと電車に乗り込み、そして電車のドアはすっと閉じた。

 僕は兄ちゃんがよく枕元で読んでくれた『ハックルベリィ・フィンの冒険』という本の物語を思いだしていた。それは兄ちゃんが大好きだった小説だった。僕にはちょっと難しくてよくわからなかったけど、何だか今の自分がその物語の主人公のように思えてならなかった。
 椅子にひょこんと座ると乗客が僕のほうをじろじろと見つめていた。
 何だよ、そんなにじろじろと見ることないじゃないか。
 それとも僕はそんなにみじめな格好なのか----。

 どのくらいの間、電車にゆられていたのだろうか。
 僕は兄ちゃんや家族のことをあれこれと考えているうちにすっかり時間の感覚を失ってしまっていた。
 どこでもいいから次の駅で降りよう。
 よし、そう決めた。

 次の駅で電車が停止すると、僕は何もないような顔でホームに降りた。
 自動改札はこりごりだから駅のホームの柵から外へ出ることにした。
 小さな駅らしくて人はほとんどいなかった。
 柵の下のほうからくぐり抜けると思ったよりもずっと簡単に外へ出られた。
 出てみるとそこは人気のない商店街だった。
 今度は駅員さんも追ってこない。
 商店街を歩いていくと、どの店も皆閉まっていてしんとしている。今日は日曜日なのだろうか。
 何だかとても寂しい気分になってきたので、僕はその場を早歩きで離れることにした。
 もうじき陽が暮れるので、それまでに何とか今日の寝床を探さなければならない。
 ----その時だ。
 背後から誰かが僕を呼び止める声がした。
 僕はとっさに振り返った。
「おう、坊主。このへんじゃ見ねえ顔だが、どこのもんだ?」
 中学生か高校生くらいだろうか。こざっぱりとした格好をしており、服装も上品で育ちの良さのようなものが感じられた。
「転校生か? ふん、そんなわけねえな」
「おう。そんなに警戒するこたァねえんだぜ!」
 その少年は僕に向けて何ともいえない不快な笑みを浮かべていた。 
 僕は何かこの少年に不吉なものを感じ、瞬時に危険な種類の人間だと判断した。
 僕はすでに逃げる体勢に入っていた。
「よう。逃げようってんじゃないだろうな」
 僕は逃げる。
「こ、こら待て!」
 僕は走る。
「この野郎! 待てっていってるのが聞こえねえのか」
 僕は走る。
 振り返ると、少年は追いかけてきていた。
 僕は全速力で走り続ける。
 僕の頭の上を空き缶か何かが追い越していった。
 そして、石。
 ----痛ッ!
 そして、石。
 それが僕の肩、そしてまた次の石が僕の頭に直撃した。
 ----あうう。
 少年が何か口笛のようなものを吹くと、前方に一人、そしてもう一人が横から現れた。
「手前ェら、そいつを捕まえるんだ!」
「よっしゃ、了解」
「俺らにまかせときッ」
 仲間がいたのだ。
 僕は慌てて進路を変える。
 商店街の細い路地だ。
 ガシャン。
 何か大きな音と同時に僕は転んだ。
 ゴミ箱か? ビール瓶、雑誌のようなものが散乱している。
 脚に激痛が走る。
 目の前が、紅くぼやけて----。
 行き止まりだ!
 そこは行き止まりだった。
 万事休す。
 僕の前に姿を現す少年たち。
 皆、綺麗な服装をしている。
 僕はなぜかそんなところに目がいっていた。
 そして、先ほどの少年だ。
 僕は精一杯の凄みをきかせて睨んでみせた。
「そこまでだな、坊主」
「手こずらせてくれるじゃねえか」
「俺らの仲間に入るきゃい?」
 笑い声。
 ----くそう。
 だが、相手は三人だ。とうてい勝てるわけがない。
 彼らと年かっこうは対して変わらないように思えたが、僕は体が小さかった。
 そのことが今はとても悔しく感じられた。
「仲間に入るなら、いっしょに遊んでやってもいいきゃあ」
 仲間の一人が妙な言葉遣いで、けらけらと笑っている。
「俺たちはな、あまり暇がねえんだよ。忙しいんだよ」
「そうだきゃ」
「その忙しい合間をぬって遊んでやろうってんだ」
 うんうんとうなずく少年たち。
 最初に出会ったこの少年が仲間のリーダーなのだろうか。
 僕は後ろに目をやる。
 壁だ。
 三メートルはある。
 だが、タンスのようなもの----。
 それに脚をかけてそこからジャンプすれば----。
 逃げられないことはない!
 僕は逃げる。
 僕がまた逃げる体勢に入ったその時----。
 そう、その時。
 彼らの一人がつぶやいた。
「毎日つまらねえな」
 ----?
「だな」
「来年は受験だしな」
「うむ」
 リーダー格らしき少年がゆっくりと頷く。
 ----?
「おう、手前ェら。お遊びはこの辺にして俺ァ帰るぜ」
 ----何?
「やってられねえよな」
「本当。この先に何があるってんだよな」
 ----何だ?
「お前ェ、春のゼミはとったのか?」
「そりゃあ入れたさ。俺んとこは私立はだめなんだ。だからよう」    
「そうか。よし、じゃ帰るか」
「はあ。つまんねえよな」
「遊びにもならねえ」
「帰ろう。帰ろう」
 ----。
 帰る----?
 遊びにもならねえ----?
 ----。
 遊びにも?
 少年たちは路地を出て歩き出していく。
 僕は助かった。
 だが。
 遊びにもならねえ----?
 何だ。
 なんなんだ!
 石をぶつけて、追いかけてきて、仲間で路地まで追い詰めて。
 それで、遊びにもならねえ?
 ふざけるな!
 ふざけるな!!
「く、くそう----」
 額に汗が流れる。
 目の前が紅くなる。
 僕は汗を手でぬぐった。 
 だが汗ではなかった。
 汗じゃない。
 僕の手は真っ紅に染まっていたのだ。
 その紅が、濃くなったり薄くなったりしながらぼやけて見えた。
 目からでる汗と、額から流れる紅いものと。
 だけど、僕は泣いているんじゃない。
 泣いてなんてない。
 こんなことで泣くもんか。
 泣いてない!
 僕は。
 僕は----。
 ----兄ちゃん、どこにいるの----。
 
 僕は商店街を後にした。 

           *
 
 商店街を出ると、つき当たりにコンクリートの小さな階段と土手が見えた。
 僕はさっきの出来事からあまり立ち直ってはいなかった。
 けれど、前に進まなければいけない。
 もう僕の後ろには何もないのだ。
 何もかもなくなってしまった。
 僕の家族はあの日----消えたのだ。
 だから、後ろを振り返ってはいけない。
 いけないんだ。
 だから、前を向かなくちゃ。
 忘れるんだ。
 忘れるんだ!

 ----兄ちゃん。

 僕は気を取り直し、急いで目の前にあるその小さな階段を上った。
 

すると、すぐ目の前にびっくりするほどの大きな川が現れた。
    何て壮大な景色なんだろうと目を疑った。
 夕陽が巨大な川に落ちて黄金色に輝いている。
 僕は時間の経つのも忘れて、その雄大な景色に見とれた。

川に落ちた夕陽

    少し離れた橋のほうで、ごうと物凄い音を立てて電車が走っていくのが見えた。 ああ、あれが今日僕が乗ってきた電車なんだな----。 けれど今の僕はそんな悠長な感傷にひたっている暇などないことくらい思いだすのにたいして時間はかからなかった。 暗くなる前にとにかくどこか安全で暖かく過ごせる場所を見つけなければならない。

  すると少し離れた橋のほうで、ごうと物凄い音を立てて電車が走っていくのが見えた。
 ああ、あれが今日僕が乗ってきた電車なんだな----。
 けれど今の僕はそんな悠長な感傷にひたっている暇などないことくらい思いだすのにたいして時間はかからなかった。
 暗くなる前にとにかくどこか安全で暖かく過ごせる場所を見つけなければならない。


 僕は土手を走りながら、川の反対側で遠くに丘になっているところへ目を向けた。
 きっとあの辺りならば人も少ないに違いない。
 そんな直感が当たるかはずれるか、そんなことはちっともわからなかったが、僕には残された場所がそこにしかないよう感じられた。
 ようやく丘のすぐ側までたどり着くと、それは思った以上に急な斜面だった。
 僕は小走りで斜面を駆け上ると、前方にとても大きな、そして綺麗な公園が目に入った。
 斜面が緩やかになり、走るのをやめて歩きだすと、また脚がひどく痛みだした。
 僕ははあはあと息をきらしていたが、目の前に広がる大きくて綺麗な公園がとにかく待ち遠しくて、脚の痛みに逆らうようにまた小走りになっていた。
 そこは何だか神様が僕のために取っておいてくれたような気がして、わくわくする気持ちは一向におさえられなかった。
 公園にたどり着くと、僕は目を閉じて軽く深呼吸をした。
「よし、今日はここで寝場所を探すとするか」
 公園の木々は花を満開に咲かせており、木の下では花びらが舞っていて、まるで雪でも降っているかのように美しかった。
 僕は何だか今までの苦労がむくわれたような気がして、少しだけ興奮した。

 つい何日か前まではまるで世界が崩壊でもしたかのような気分になっていたが、自然と気持ちは落ちつきを取り戻していた。
 その美しい木は十本くらい並んで立っていて、その下には幾つかベンチが備えつけられていた。
 じき夜になるというのにそれがよく見えたのは、街灯のようなものが何本か立っていたからだ。もしその街灯がなかったなら、この公園は地獄のように真っ暗で恐ろしい場所だったに違いない。
 風がびゅうと吹くと花びらが舞うのがよく見えた。
 僕はベンチに腰かけ、一息ついた。

 今日はたいへんな一日だった。
 電車に乗って、変な三人組にいじめられ、そして見知らぬ公園にたどり着いた。
 僕はその木の下で、自分がどうしてこんな目にあってしまったのかを考えていた。
 兄ちゃんは今どこで何をしているんだろうか。
 僕はどうしてここにいるんだろう。
 そもそもここはどこなんだろう。
 何だか急に家がなつかしく感じた。
 でも僕は自分の住んでいた家がどこの何という駅にあるのかを知らなかった。
 学校に通ってなかったこと、興味のあること以外覚えようとしなかったこと。好き勝手生きてきたツケがまわってきてしまったと思った。
 そして同時に僕を虐待し、学校へと通わせなかった父親を怨んだ。
 ----僕は帰れない。

 何だか急に悲しくなった。
 自分の家の住所も知らなければ電話番号も知らなかった。僕が知っていたのは家のそばの風景だけだった。
 家の前の道や近所の本屋さん、駐車場、そしていつも遊んでいた空き地。
 帰りたい。でも帰れない----。

 僕は何て馬鹿なことをしてしまったんだろう。
 せめて、もう一度兄ちゃんに会いたい。それはもう叶わぬことなんだろうか。
 脚がまたじんと痛んだ。
 それもそのはずだ。今日はたいへんな一日だったのだ。
 舞う花びらが皆滲んで、兄ちゃんの顔のように見えた。

          *

 真っ白な光に覆われていた。
 辺り一面眩しくて何も見えない。
 痛い。脚が痛い。
 この眩しさは何なのだろう。
 ここはどこなのだろうか。 
 天国なのか----。
 天国とはこんなに何もないただ光だらけのところなのだろうか。
 遠くで人の声が聞こえる。
 何ていってるのだろう。
 とても小さな声だ。
 だけどそれはどんどん大きな声になっていき、急にうるさく感じられた。
 ----新入りさんかい?
 新入り?
 ----どこから来たのかな。
 僕はどこから来たんだろう。
 はっとなって僕は飛び起きた。
 太陽だ。
 太陽が眩しかった。
 知らず知らずのうちに眠ってしまっていたらしい。
 すると急に目の前に見知らぬおじさんの顔が現れた。
 わあ!
 おじさんの顔がどんどん近づいて、そして太陽をさえぎった。
「お前、初めて見るね」
「痛ッ!」
 起きあがろうとした時、僕の脚は激痛に襲われた。
「大丈夫、何もしやしない」
 おじさんは優しげにそういった。
 何なんだ。いきなり見知らぬ人に何かされたらたまったもんじゃない。
 そのおじさんは、よいこらしょというと僕の横に座った。
 ベンチがみしみしときしんだ。
 逃げだしたかったが脚がひどく痛んで、これではとても逃げられそうにないと思った。
 僕はベンチの一番端に避けて姿勢を正して座った。
「春だね」
 おじさんはそういうと、胸ポケットから煙草を出してそれに火をつけた。
 どうやら悪い人ではなさそうである。
 きちんとした身なりをしていて度の強そうな眼鏡をかけている。髭がとても濃かったが綺麗にそられてあった。白髪交じりでだいぶ老けて見えたが、老人というほどではなかった。
 どことなく真面目そうな人に見えた。
 だが、それにしてもなぜこんなに慣れ慣れしいのだろう。
 おじさんは、ふうとため息をつくと独り言のように話しはじめた。
「三十二年も勤めてきたってのに」そういうとつけたばかりの煙草を地面に捨て、足で揉み消した。
「うちのにはどうしてもこれ、いえんくてなァ」
「背広着て毎朝行くとこもないのによ。どうすりゃいいんだ」
 おじさんは何やらとても難しい顔をしていた。
 そしてとても寂しそうに見えた。
 春の風がおじさんのえり元を揺らしている。
「俺ら技術畑の人間はよ。そう簡単にあっちこっちってわけにはいかんもんなァ」
「今じゃ何でもコンピュータ、ロボットだ。だけどな、ミリ単位で○・ ○○一ミリとかってんで作れるはずがねえ」
「こっちゃァ命かけてんだ。精度じゃロボットなんぞに負けるわけがねえ!」
 僕には何のことだかさっぱりわからなかった。
 こどもの僕に話したってどうなるもんでもないだろうにと思った。けれどなぜかそのおじさんがひどく気の毒に思えて、何か言葉をかけてあげたかったが、結局何も思いつかなかったのでそのままじっとしていることにした。
 ただそのおじさんの捨てた煙草の吸殻が妙に気になって、ずっとそれを眺めていた。
「お前さんにゃわからんだろうがな」そういうと僕の頭を軽く撫でた。
 ぞくっとしたが飛び跳ねて逃げるわけにもいかず、僕はその場を何とか我慢した。
 おじさんはこめかみに手を当て、そして目頭を押さえると、聞きとれないような小さな声で何かをいった。
 おじさんの手は微かに振るえ、おじさんの言葉は風の音にかき消された。
 しばしの沈黙の後、じゃァまたなというとおじさんはすくっと立ちあがり、僕のほうを振り返りもせずに立ち去った。
 風が花びらを巻きあげ、その後ろ姿はとても小さく見えた。

          *

 お腹がきゅうと鳴った。
 昨日から何も食べていないことに気がついた。
 お腹が空いた----。
 何か食べたくとも、お金など一銭も持っていなかった。
 どうにも困ってしまった。
 ああ、本当にお腹が空いた!
 僕はまた兄ちゃんがよく聞かせてくれてた例の本の話を思いだした。
 その小説の主人公は----宿無しのろくでなし、だったのだが----川で魚を釣ったり豚を捕まえたりして生活をしていたらしい。
 だが僕の場合はどうだろうか。時代も違うしどうしようもない。釣ざおなどないし、あっても使い方すらわからない。ここからさほど遠くないところにある川だって魚なんているようには思えなかった。
 もしいるのだとしても、釣りというものがどういうものなのか、釣り竿も実物を見たことがなかったし、それは漠然としていて僕には理解できない代物だった。
 僕は辺りを見まわし、何か食べ物につながるものはないものかと考えた。
 ベンチから起きあがり後ろを振り返ると、この公園がとてつもなく大きいということに気がついた。
 そうだ。僕はまだ公園の入り口の木の下のベンチ付近しか知らなかったのだ。
 公園は広く一面緑の芝生でできていて、ところどころ花が植えられているのか、紫や黄や青に染まっていた。そのずっと奥のほうは大きな木々が茂っていて、まるで森のように感じられた。そしてその少し手前に小さな四角い箱のようなものが二つあった。
 僕は痛む脚を引きずりながら、それに向かって歩きだした。
 つい何日か前まではとても寒く感じられていたのに今日は何だかポカポカしていて気持ちが良かった。
 よく見ると一面すべて芝生というわけではなく、コンクリートでできた小さな道が幾つもあった。
 また昨日眠ってしまったのと同じようなベンチがそこここにあった。
 色とりどりの花がたくさん植えられているその場所には小さな噴水があった。その噴水の上のほうには天使のような可愛い少年の像が二人向きあって建てられていた。
 その四角い箱のようなものは、近づくにつれてかなり大きなものであることがわかった。
 僕の背丈よりも高いだろう。
 僕はとてもチビだったのだ。
 ようやくたどり着くと、案の定僕の身長よりもずっと高かった。
 一メートル半以上あるだろうか。
 それぞれに何か文字が書かれてあったが、僕は文字を習ったことがないので何て書いてあるのかはわからなかった。
 勉強は嫌いだけど、学校に通わせてもらえるように頼みもしなかったことを僕は後悔した。

 その時、いきなり後ろのほうから人が走ってきたかと思うと、片方の箱のほうへ何かを放り投げた。
 僕はびっくりしてすぐさま走って逃げようと思ったのだが、どうにも脚が痛くて動くのをあきらめた。
 その人----人といってもそれは小さな少女だった。
 どうやらこの箱はゴミ箱なのかもしれない。
 きゅうとお腹が鳴った。
 ゴミでも何でも食べられるものなら食べたい気分だった。
 するとそこへその少女が突然僕に向かって話しかけてきた。
「君、お腹空いてるの?」
 僕は一瞬言葉を失って何も答えられなかった。
 少女はとても上品な洋服を着ていて育ちもうんと良さそうに見えた。薄いブルーのブラウスに真っ白なスカート、見ようによってはまるで天使のようだ。
 僕とは大違いだ----。
 目はまん丸で大きかったが鼻は少しひしゃげていた。髪の毛は綺麗に三つ編みにされていてさっぱりとした印象を受ける。頬も微かに紅く健康的だ。僕より少しだけ歳下という感じがした。けれどおそらく中学生ではないだろう。小学校の高学年くらいだろうか。口元には小さなホクロがあり、それが少女を少しだけ魅力的に見せていた。しかし僕と同じで背丈はうんと低かった。やはり僕と同じように身長や見かけのことなどで苦労があるのだろうか。女の子はそうでもないだろうか。しかし僕は女の子ではないので、あまりうまく想像することができなかった。
 それにしても今日はよく人に声をかけられる日だ。
 少女は小さな鞄から食べかけらしい袋菓子を取りだすと、それを僕に差しだした。
「みんな食べちゃっていいんだよ。ハートチップルだよ」といった。
 食べられるものなら何でもよかった。
 僕は乞食のようにそれにむしゃぶりついた。
 味など全然わからなかったが、でも嬉しかった。
 とても嬉しかった。
 僕はあっという間にそれを食べつくしてしまった。
 少女は大きな瞳をさらに大きくして僕を見つめていた。
 そして、何か持ってきてあげるからちょっと待っててねといって走り去っていった。
 僕はそれを食べたら急に胸や喉に何か詰まったような感じになって、どこかに飲み水はないのだろうかと辺りを見まわした。
 喉がひどく熱くなったような感じでいてもたってもいられなくなってきたのだ。
 噴水!
 そうだ、ここに来る途中に噴水があったではないか!
 僕は痛む脚を引きずりながら何とか噴水のもとまでたどり着くと、人目もはばからずにがぶがぶと水を飲んだ。
 何だかとても生き返ったような気がした。

「こんなところにいたの?」
 それはさっきの少女だった。
「うち、すぐそこだから。早かったでしょ」
 そういうと少女は僕のほうを見て微笑んだ。
 この公園の近くに少女の住んでいる家があるらしい。本当にすぐに帰ってきてくれたのだ。
 少女は鞄からビニール袋を取りだすと、中からティッシュペーパーのようなもので包まれたそれをそっと開け僕に差しだした。
 ----から揚げだった。
 その大きめで清潔そうなティッシュペーパーの中には十個近くものから揚げが入っていた。
 から揚げだ!
 僕はその少女を気にしながらも、むしゃむしゃとそれを頬張った。
 どうもありがとう、とそういおうとした瞬間何だか喉がつかえたような感じになり声が出せなかった。
 そうだ。それはさっきのおじさんの時もそうだったのではないか。何か話そうとしても喉がつまり声にならないのだ。食べ物のせいではない。何か胸や喉が詰まったような感じになって声が出ないのだ。
 ああ、僕は今喋れなくなっているのだろうか。
「そんなに急がなくてもいいのに」少女は楽しそうに微笑んだ。
「あんた、初めて見るけどどこから来たの?」
 僕は、そう。どこから来たんだろう。
 家から来たのだ。
 やはり、胸や喉が変な感じになって声は出なかった。
「名前は何ていうの?」
 寅太、それが僕の名前だ。
「名前がないなら、あたしがつけてあげる」少女はいたずらっぽい表情になっていた。
「そうね。とらちゃんっていうのはどうかしら」
 ----ドキっとした。
 この小さな少女は僕のことを知っているのだろうか!
 知っているはずがない。当たり前だ。僕は昨日ここにたどり着いて、この少女ともさっき知りあったばかりなんだから。
 それにしても、どうしてそんな、そんな偶然があるのだろうか。
 僕の心臓は激しく波うった。
 それにしたっていくら僕でも名前がないわけがない。
「あたしの名前はね、みい。皆そう呼ぶの」
 少女はそういうと僕の手を取り、よろしくねといった。
 僕は少し嬉しくなったが、残りのから揚げが気になりまた食べはじめた。
「明日も明後日も、これからもずっとお食事持ってきてあげるから。だから」
 少女----みいは少し悲しそうな表情をした。
 僕はやはり声が出ない。
「だから、あたしの友達に----」
 みいは精一杯の笑顔で僕にそういった。
 から揚げの横には花びらが落ちていた。風でここまで運ばれてきたのだろう。
 よろしく、と僕はこころの中でつぶやいた。
 少女は何度も振り返りながら、また来るねといって帰っていった。

 から揚げは一度に全部食べきれなかったので、晩ご飯のためにとっておくことにした。
 これから先の、自由でいて、しかし先の保障が何もない生活を考えると食糧はとても貴重に思えたからだ。
 僕はお腹がいっぱいになったせいか急に眠気をもよおしてきたので、どこか安全に休める場所はないものかと周囲を見まわした。
 公園の入り口付近のベンチには人がしょっちゅう来るような気がして、別の場所を探すことにした。
 奥の森のように木が生い茂っている場所、あそこの中ならきっと静かに寝られるところが見つかるに違いない。
 これでも僕の勘はかなりの確立で当たるのだ。
 僕はまだ少し痛む脚を引きずりながら、茂みのほうへと歩いていった。
 茂みが近づくにつれて僕はその木々の大きさに驚かされた。
 どの木もそれは巨大で十五メートル以上はあるだろうか。とても立派で何か威厳すら感じられた。威厳という言葉は実はよく知らなかったのだが、きっと偉いという意味に違いない。
 お化けの森があるとしたらこんな木々の中ではないかと思った。
 その茂みの入り口付近には緩やかな階段がある。ここから先は少しだけ高くなっているのだ。
 僕はその階段を上りながら、この公園で生きてやるんだと誓った。

 どこまで進めば奥にたどり着けるのだろうか。
 昼間だというのに陽は射さず、とても肌寒かった。
 数分ほど歩いたところで小さな池を見つけた。その上は小さな滝になっており、ちょろちょろと湧き水が出ている。
 人工で作られたものだろうか。
 もしそうだとしたらあまりにショボい。
 こんな池には魚もいないだろう。大きな水たまりのようなものだ。
 その少し先には小さな休憩所のような建物があった。
 わら葺きの屋根があり、中には丸太をデザインしたようなコンクリートの椅子が四つあった。
 入り口は前と後ろに二箇所あり、窓はたくさんあるが中は薄暗い。もちろん窓にはガラスなどははめられていなかった。きっとそういうデザインなのだろう。
 休憩所の中、奥のほうには大きな箱があった。
 それは僕がいつも見慣れているものとよく似ていた。
 近づいてみると案の定それはダンボールだった。
 それにしてもかなり大きい。
 ダンボールの下には大きな穴が開いていて、それは僕でも軽く中に入れるくらいの大きさだった。
 僕はとっくに決めていた。
 ダンボールとわかればそれは僕の住家だからだ。
 ここなら家屋の中だし雨が降っても大丈夫だろう。
 僕は眠くなった目をこすりながらその中に入ると、から揚げを頭の横----枕元に置いて横になった。 もちろん枕などはなかったのだが----。

 僕は家族のことを思いだしていた。
 兄ちゃんは今どこにいるのだろう。
 兄ちゃんや母ちゃん達はどうしていなくなってしまったのだろう。
 皆どこへいってしまったのか----。
 兄ちゃんの声が頭をよぎる。
 
 ----寅太、こんなところにいたのか。
 今となっては、兄ちゃんが見つけてくれるはずもなかった。

          *

 それから幾日かが過ぎた。
 公園の入り口の綺麗な花を咲かせる木々達はすっかりとその姿を変え、葉を若葉色へと変えていた。
 僕はというとお昼頃には決まってみいが持ってきてくれる食事を当てにして毎日出かけていた。
 いつの間にかみいとの待ちあわせの場所は、噴水付近のベンチ辺りと決まっていた。そして少しだけ話を聞いてあげては寝床と往復した。
 相変わらず僕の声は言葉にはならなかった。

 その日のみいは少し機嫌が悪かった。
「もうね、信じられないって」
 ずっとこの調子である。
「咲ちゃんと山本さんが隠したのに決まってるの。だって由美子がこの目で見たっていってるんだよ。あたしの机の前でコソコソしてたって。あの真面目な由美子が嘘をつくとは思えないでしょ」
 由美子って誰とは思ったが、適当に相槌ちを打つことにした。
「それからね、隣のクラスの本郷さん。例の杉田君にメラメラなんだって」ここで話は急展開し、みいは目を輝かせた。
 メラメラって死語じゃないかとは思ったが僕は今声が出ないのだ。
「でもその杉田君が好きなのは三組の前嶋さん。あたし聞いちゃったんだ。これって確実!」
「あ、それ食べちゃっていいのよ。あたしは食べてきたんだから」みいは優しく微笑んだ。
 今日のご飯はバタービスケットとそれにポッキーだった。僕はこのバターの香りが何とも好きだった。ポッキーのほうも負けずにそのバターの香りを発していた。
「でもね、その前嶋さんが好きなのが何と二組の菅原君。世の中うまくいかないものね」みいはふうとため息をついた。
 と、その時、遠くのほうで何か叫ぶような声がした。
 女の人の声だった。
「ああ、母さんが呼んでる。じゃ、またいっしょに遊ぼうね」
 みいは、はあいと大きな声で答えるとお母さんのほうへと走り去っていった。
 僕はいつもの大きめの上品なティッシュペーパーにご飯を包み直しながらそれを口にくわえて運び、寝床へと戻った。

 我が家----ダンボールに戻ると僕はいつものようにそれを枕元に置いて一眠りすることにした。
 どうにも毎日眠くて仕方がなかった。
 そして夜になって起きだすと、残りの食事を頬張ってはまた明け方までたっぷり眠る。
 そんな毎日の繰り返しだった。
 そしてそれは、いつものようにだんだんと睡魔に襲われ、夢の世界へ入りかけていたちょうどその時のことだった。
 いきなり睡眠を妨害されたのである。
「お、おい! 手前ェそんなとこで何してんだ」
 わあ、と僕はびっくり仰天して跳ねあがった。
「ひ、人様んち勝手に入り込んでうたた寝たあ。いい度胸してるじゃねえかァ!」
 僕はぐいと胸ぐらをつかまれるともの凄い勢いで外に放りだされた。
 痛ッ! 治りかけていた脚がずきんと痛んだ。
 怖る怖る顔をあげるとそこには----真っ白い、だがかなり薄汚れた少年が仁王立ちしていた。
 ところどころに丸く真っ黒な模様がある可笑しな服を着ている。
 僕はとても怖かったが、当然何も答えないわけにはいかず、声を振りしぼった。
「そ、その----。ここは君のお家」
 こ、声が戻った!
 僕は混乱した。
「誰が見ても俺の家じゃねえか。手前ェそんなこともわからなかったのか!」
「し、知らなかったんです」
 僕はとても弱々しく小さな声で、それはみっともない受け答えをした。
 しかし相手はどう見ても僕と同じくらいの歳格好をした少年だった。僕よりも少し背が高いくらいだ。
 驚いたとはいえ急に敬語になってしまった自分がひどく情けなく感じだ。
「悪いこたァいわねえ。そいつを渡しな」
「そ、そいつとは」
「そのく、食いもんに決まってるじゃねえか」
「ああ、これ」
 僕がそのビスケットを取るより早く、少年はダンボールの中に手を入れるとティッシュペーパーの包みごとそれを取りだした。
「これをどうした」
「そ、それはも、もらったんです」
 だめだ。すっかり相手のペースに飲まれている。
「これは税金だな。こいつをくれれば許してやってもいい」
 そういうと少年は僕の許可もとらずにせっかくの上品な包みを乱暴に破り、中のものをがぶりとかじった。
「ところでお前、こういうもんをどこからもらってくる」
「ま、いいけどな。お前がいつもこういうもんを俺にわけてくれりゃあここに置いてやらねえこともねえ」
 少年はもやは僕の目には盗っ人のようにしか映っていない。
「一人暮らしも長いことやってると退屈でな。相棒にしてやってもいいといってるんだ」
 僕は泣く泣くその少年に従う以外他に手はなく、住まわせてくださいと小声でいった。
 少年は一通り食べ終わると満足したのか少しだけ笑みを浮かべ、満腹満腹といった。
「お前がどこから来たのか俺は知らねえ。そんなことを聞くほど俺は野暮じゃねえ。だがここじゃあ昔から古く住んでる奴が一番偉えと決まってるんだ」
「もちろん俺が一番偉えといってるんじゃねえ。もっと古くからここに住んでる奴はいくらでもいらァ。池のほとりの御銀、ここのすぐ脇の大岩の陰だ。それから北のはずれの長老、生地蔵御老。これはお前ェとても偉えお方なんだ。この辺じゃわからないことは何でもその生地蔵様に聞くもんと決まってる。後ァ場所はいえねえが又吉の兄貴ってのもどこかにいる----」
 少年は手をお腹の辺りでふいて、食後の手洗いを済ませているように見えた。
 その話をそのまま鵜呑みにするならば、この公園には幾人かの宿無し----ホームレスがいるようだった。
 ならば僕もそのうちの一人。そしてその中では規則----ルールという奴に従わなければならないのだろう。
 何だかまるで学校のような気がして少し嫌な気分になった。しかしその学校には一度もいったことがないのだから僕の感想は少しも当てにならないのだろう。
「俺の名はホワイトファング。この白シャツが目印だ」
「以後俺のことはホワイトファング様と呼ぶように」
 少年----ホワイトファング様はきりっとした目つきで僕をにらんだ。目は大きく顔立ちも凛々しかったが、右目に比べてやや左目が小さかったせいもあり目つきはいっそう悪く感じられ、妙な凄みを発していた。
「ところでお前。俺がお前に名前を教えてお前は何もいわねえってんじゃ、こりゃあ筋ってもんが通らねえだろう」
 そういうとホワイトファング様は不敵な笑みをこぼした。
 僕は半ば泣きそうになりながら、か細い声で自分の名を彼に告げた。
「ぼ、僕はその、寅太と申します----」
「寅太----だな。以後よろしく頼むぞ」

 それが僕とその少年----『ホワイトファング』との出会いだった。

                 
 それ以来というもの僕らはその大きなダンボールの中で共に暮らしていた。
 大きいとはいってもやはりそれはダンボールで、二人も入れば当然せま苦しい。
 ホワイトファングは相変わらず口は悪かったが、色々と話をしていくうちにそれほど悪い奴ではないだろうことがわかってきた。
 例えば僕がみいと仲良くしているのを見ても、ホワイトファングはきちんと気をつかってくれていっさいよりつくことはなかった。
 僕の食事の取り分は半分になってしまったが、ホワイトファングはこれでなかなか親切だったので食べ物は仕方がないとあきらめることにした。
そのかわりといっては何だが、ホワイトファングが食糧----どこから仕入れてくるのかは不明だったが----を調達してきてくれることもたまにあった。
 そして僕は結局ホワイトファング様とも呼ばなくて済むことになった。
 それは僕がホワイトファング様と呼ぶとひどく気持ちが悪いというのが主な理由らしかった。
 だがホワイトファングは、縄張りに関しては殊のほか手厳しかった。
 灰色の服の貴婦人、池のほとりの御銀が我が家に少しでも近づこうものなら、おのれえといっては追い返していた。
 僕はこの公園にもだいぶ慣れてきていた。それはホワイトファングが要所要所僕を案内してくれたおかげだった。
 僕らの住んでいる場所はちょうど公園の真ん中に辺り、そして森はさらに奥のほうまで続いていたこともわかった。

          *

 ある日の午後、その日は少しばかりの雨が降っていて少々肌寒かった。
 僕がみいからご飯をもらって帰ってきた時、ホワイトファングは森の茂みの入り口付近----階段の上で僕を待ち伏せていたようだった。
 ホワイトファングはいつになく落ちつかない様子でそわそわしながらこういった。
「寅太、今ァ来ちゃだめだ。ちょっとまずい」
 僕は何が起こったものかまったく要領を得なかったので、何がそんなにまずいんだと聞いてみた。
「出やがったんだ。ちくしょう、あいつは普段こっちまで来ねえはずなんだがな」
 僕には何のことだかさっぱりわからない。
「幽霊でも出たっていうのかい? ホワイトファング」
「そんなもんじゃねえよ。名前は知らねえ」
ホワイトファングは、ひと呼吸開けて落ち着きを取り戻そうとしてた。
「あのな。この公園を出てだいぶ歩いていくと、そうだな二百メートルは先か。そこには大きな池のある巨大池の公園があるんだ。いやそれは池ってなもんじゃねえ。湖みてえにバカでけえんだ」
「そこのまあ簡単にいってしまうと、そいつはそこの主なんだ」
 よくわからなかった。
「そいつがさっき御銀のところで暴れてて」
「池のほとりの、その池と大きな池とは?」
「バカ、お前は頭が悪いな。その池は関係ねえよ。ここじゃない公園の大きな池のそこを仕切ってる薄気味の悪い----」
 その時、何かが僕らの前を物凄い勢いでよぎった。
 ----誰だ!
 突然、ホワイトファングは宙を舞う。
 男だ。
 真っ黒い姿かたちで巨体。
 不気味な妖気を全身から発している。
 まるで幽霊、いや悪霊のようだ。
 僕は何が起きたのかわからない。
 ホワイトファングが起きあがる。
「ち、ちくしょう! ちゃんと前向いて歩きやがれこのクソ野郎!」ホワイトファングが吠えている。
 その黒い巨体----男は歩を止めこちらを振り返る。
 狼のような鋭い目。よく見るとそれは片目だ。
 片方の目はつぶれていて頬まで大きな傷がある。
 腕には何か風呂敷のようなものをはさんで抱えている。
「気をつけるんだな坊主ども。こんなところに餓鬼が群れていると----」その声は地の底を這うように低くその姿に劣らず不気味だった。
 男の言葉を即座にホワイトファングがさえぎる。
「バカ野郎、き、気をつけんなあ手前ェだ!」ホワイトファングは精一杯の抵抗をしていた。
 男は不敵に笑みを浮かべると何事もなかったような顔をして大事そうに荷物を抱え、あまりいきがるとろくな大人にならねえぞといいこの場を去っていった。
 僕はホワイトファングに大丈夫かと声をかけると、その悪霊が去っていく姿を目で追った。
 そして僕らは我が家に戻る途中、池のほとりの御銀が大岩の陰で、ご飯も今夜のご馳走も皆取られてしまったと泣きわめいているのを目撃した。
 僕が声をかけようとするとホワイトファングは、そっとしておいてやれといった。
 雨は冷たく降りそそいでいた。 

          *

 その日の夕方、僕は御銀の住む池のほとりの岩場を訪れた。
 僕とホワイトファングの食糧をさらにわけてそれを御銀におすそわけしにきたのだ。
 ホワイトファングは何であんな奴のためにとたいそうごねたが、何とか説得して三等分することにしたのだ。
 御銀は浮浪者そのものといった姿でボロをまとい顔はやつれて痩せ細っていたが、どことなく品があり凛として構えていた。
 きちんとした身なりで綺麗にしていたならきっと立派な貴婦人に見えたに違いない。
 もしかしたら昔はいい暮らしをしていたのかもしれない。
「ありがとうね。あなた最近こちらに越してきたのかしら。ホワイトファングのお友達ね。名前は何ていうのかしら?」先ほどのあの姿とは大違いでとても上品に感じられた。
「僕は寅太と申します。よろしくお願いします」釣られて僕も上品な言葉が口をでた。 
 僕が御銀と向きあって話すのは今回が初めてのことだった。
 御銀は申しわけなさそうに幾度も礼を述べると、今日は散々な目にあったのだとこぼした。そして今度もし何かご馳走が手に入った時は、誰かに取られてしまう前に僕らにわけ与えてくれると約束した。
 取られた風呂敷の中身は、昨日の午後に巨大池のある公園で裕福そうな家族から拝借してきたものだとうちあけた。
 そして雨に濡れたろうから風邪をひかないようにといって僕の体を優しくふいてくれた。

 僕は我が家に戻るとホワイトファングにそのことをくわしく話した。
 ホワイトファングはあまり興味を示さなかったが、一言独り占めした罰があたったんだとつぶやいた。
 僕とホワイトファングはみいからもらった残りのご飯で簡単な食事を済ませた。
 食事が済むとホワイトファングは、あの男はまるで悪魔だといった。僕はまったくその通りだと思った。
 全身黒塗りの巨体でそれでいて俊敏な身のこなし、しかも片目だ。悪魔の条件はそろっている。
 ホワイトファングはその男のことをこれからはブラックシャークと呼ぼうといった。シャークという言葉がどういう意味なのかわからないと僕がいうと、ホワイトファングはそんなことはわからなくていい、俺もわからねえんだといって笑った。
 ホワイトファングは僕の頭をこつんと叩くと、お前もここに居を構えるんならそろそろ生地蔵御老のところに挨さつにいかにゃあならねえと告げた。
 そして出発は今日の夜がいいだろうといった。
 なぜ夜なのかと聞くとホワイトファングは、御老は陽のでている間はずっと寝ているからだと教えてくれた。
 僕らはそれまで少し寝ておくことにした。

 夜はあっという間にやってきた。
 先ほどまでの雨はやんでいた。空気はとても澄んでいた。
 そして夜の森は少しだけ怖かった。
「そこを左」と、いつになくホワイトファングは言葉少なめである。
「下、気をつけろ。大きな岩」と合図した。
 僕はいわれなかったらおそらくそれに気がつかず、また治りかけの脚を痛めていただろうと思った。
「助かる」と僕も言葉少なめにいった。
 生地蔵御老はこの茂みの奥にある丘のように盛りあがっている小さな山の頂に住んでいるらしかった。
 僕はそこには一度もいったことがなかったので少し緊張していた。
 暗くて脚元がよく見えなかったので慎重に登っていった。
「御老はこの丘の上の巨木の根元、大きな穴蔵に住んでいるんだ」ホワイトファングもまた少し緊張しているようだった。
「寅太。言葉にゃ気ィつけるんだぞ」と僕を少し威嚇するようにいった。
 丘を登りきるとその場所はすぐにわかった。中央に巨大な木が一本そびえ立つようにして生えており、やたらと目立っていたからだ。
 ホワイトファングはそこに着くと、扉もないのに巨木をこんこんと丁寧に叩き----生地蔵様、俺です。ホワイトファングですといった。
 巨木を大きくえぐり取ったようなその穴蔵から不気味な目が二つ光っていた。
「さあ寅太。お前も挨さつを」いつになくホワイトファングは真剣である。
「い、生地蔵様。初めまして。僕は寅太と申すものです」何だかホワイトファングの緊張が僕にも乗り移ったかのようで、上手に挨さつができなかった。
 すると御老は微かに微笑み----といっても暗くてよくわからなかったのだが、どうぞとだけいった。
「夜分に失礼致します」ホワイトファングに連れられ僕も失礼しますといった。
 御老は老体にしてはかなりがっちりとした体系をしており、目は細く眉毛や髭はうんと長かった。
「どうだの。御銀とは仲良くやってるかの」御老の言葉はひどくゆっくりとしていて口調も優しい感じだったので僕は少しだけほっとした。
「は、はい。その、仲良くしておろうございます」本当だろうか。変な日本語だ。
「それは良かった。身よりのないもの同士、仲良くせにゃならん」
「ごもっともです。生地蔵様」ホワイトファングは冷や汗をかいているに違いない。
「そこの若いの。君は新入りだね? どれよく顔を見せておくれ」僕はいわれるままに御老のほうに顔を向けると、いや誠実そうな若ものじゃといわれた。
 どこから来たのだと問われたので、僕は家族を失い電車に飛び乗って気がついたらこの街、この公園にたどり着いていましたといった。
「ここに住むものは皆それなりの事情を持って暮らしておる。棄てられたり帰るところを無くしたものばかりなのじゃ。だからよけい仲良くせにゃならんな」相変わらず穏やかな口調で御老は話した。
「はい。仰せの通りです」答えたのはホワイトファングだった。
「ところでホワイトファング。もう馬鹿ないたずらはしておらんだろうな」御老は少し厳しめの口調でホワイトファングに問うた。
「は、はい。大人しゅうしておりますです。今日などはそ、その。ひもじくしている御銀さんに食事をわけ与えてあげたくらいでして」おそらくホワイトファングは以前にひどいいたずらを仕出かし、この御老----生地蔵におおいにしぼられたのだろう。
「そうか。それはよろしい」と御老は幾度もうなずいた。
「寅太殿よ。まだここに来て日も浅かろう。何か困ったことがあればいつでも相談に来るがよい」そういって微笑むとその長い眉毛の先を幾度も撫でた。
「ありがとうございます」僕は深々と頭を下げて礼をいった。
「で、では今日はこの辺で。生地蔵様。どうもありがとうございましたです。と、寅太君もたいへん喜んでおりますです。はい」ホワイトファングはもう帰りたくて仕方がないという様子だった。
 御老は決していたずらはいかん。皆仲良くせにゃあならんと繰り返しいうと、ホワイトファングはわかっておりますと神妙に頭を下げた。
「では今日のところは挨さつというアレでして。またゆっくりとうかがわせて頂きたいと存じます」といいその慌てぶりを御老に笑われると、さあ帰るぞ寅太君と奇妙な声を出して僕にいった。
 僕は、失礼しますと丁寧に挨さつし再度頭を下げた。
 そして最後に御老は、森の奥には決して行くな。陰の男にはじゅうぶん気をつけなさいといった。
 僕は初め何のことだかわからなかったが、すぐにそれはブラックシャークのことだろうと考えた。
 二人で再び礼をいうと、僕らは御老の居を後にした。

 帰路----といってもさほど遠いわけではなかったが、ホワイトファングは一言も口をきこうとしなかった。

          *

「七が三つそろってなァ」

 その男は微かに笑みを浮かべていた。
 以前この公園で初めて話をしたのがこの男----そしてこの場所だった。
 もう少しも肌寒くはなく、太陽が眩しく照りつけていて少々暑いくらいだった。
「今日はお前に何か美味しいものでものと思ってなァ。なに遠慮するな」
 男----そのおじさんは今日は少しだけ機嫌が良かった。
 白いビニールの袋からそれを取りだすと透明な容器の輪ゴムをはずし、僕にさあお食べといった。
 それはまぎれもない、正真正銘の焼き鳥だった。
 ----焼き鳥だ!
「おォ、口を怪我してしまう」どれどれといいながらおじさんは、僕のために一本一本焼き鳥の肉を串から抜いてくれた。
 僕はチビだから何もできないと思っているのか。でもその時のおじさんはとても楽しそうだったので僕は口をはさまないことにした。
「いいの? こんなにたくさん」僕はそういうとおじさんのそれが終わらないうちにもう横から手をだして食べはじめていた。
 何だかホワイトファングに悪いような気になったので、少し残して持って帰ることにした。
「七が三つって何なの?」僕はむしゃむしゃと食べながらおじさんに聞いてみた。けれどおじさんは何も答えず、お前は可愛い奴だなァとわけのわからないことをいった。
「もうずいぶんと昔のことだがね。私ァこどもの頃は宇宙飛行士になりたかったもんさ。当時はアポロが月面に着陸して国じゅうが大騒ぎでね」
 僕は食べながら耳を立てて話を聞いていた。
「NASAは私の憧れだったなァ。そりゃあ一所懸命勉強したよ。だが天文学なんてもんは一握りの奴しか学ぶことすらも難しかった時代だ。そりゃあ凄い競争率だったんだなァ。限られた大学、その中でも数えきれるほどの学生しか本格的に学べなかったァ」
 僕はうんうんとうなずきながら焼き鳥を食べていた。
 それは本当に久しぶりのご馳走で、とてつもなく美味しかったのだ。
「おじさんはその大学に受かったの?」
「私の家は小さな印刷屋だったが、その頃は景気が悪くてなァ。金もなく私ァ大学をあきらめて働きにでることになったんだなァ。親の紹介でそれは大きな印刷会社に就職できましてね。あのままそこで働いていたら私ァ----」
 僕はうんうん相槌ちを打ちながらねぎを避け、綺麗に焼き鳥を食べていた。
 ねぎはちょっと苦くて苦手だったのだ。
「ところがある日、その印刷工場で働いてる時にな。刷ってるチラシに目がいってしまってなァ。私ァそのチラシを一枚失敬してすぐにそれに書いてある連絡先に電話をかけたんだなァ。なに、NASAの部品を作っているとは本当かとね。私ァあきらめかけていた夢がよみがえったような気がしたもんさ。そこは大きな会社じゃなかったが、こりゃあ神様が与えてくれた最後のチャンスじゃないかって思えてね。そっち方面にゃうとかったんだが、そりゃもう何べんも頭下げて頼み込んでだよ。ま、晴れて転職できたわけだなァ」よくはわからなったが面白そうな話しだと思った。
「それでどうなったの?」
「確かに大きな会社じゃなかったが、本当にNASAのもんを作ってたんだなァ----。私ァ死にもの狂いで勉強したさね。だが当時はそらァごく一部のもんしか手をだせないような極秘の仕事でなァ。下っぱの私ァひたすらネジばっかり作ってたんだよ。大きなもんから針のように小さなもんまでなァ。ネジっつっても光学部品に使うような特殊なもんから音響用の一般のもんまで、こりゃまステレオだがね。一応受注生産よ。でな、結局その会社はネジの一流どこになってしまったんだなァ」
 何だか難しい話になってきた。僕はほとんどわけがわからなくなっていた。
「NASAは大手さんに仕事移すわ、うちの会社はネジ会社になっちまうわで。それからは先はもう焼けクソだ。ネジ一筋に生きるのも悪かねえやと----」おじさんは、そういうとずずと鼻をすすった。
「そしてコンピュータにロボットの登場さね。ちょっとしか作らねえようなネジすらロボットが作るようになった。私らァ何も作る必要はなくなってしまってなァ。そうなりゃもう先は重役になるか会社を追われるかよ。私ァ後者だったんだなァ。それでも現場主任なんてもんを長いことさせてもらったがね」
「今はお前ェ、退職金で暮らしてるってわけだがなァ。あっはは」おじさんは笑って見せたが、どうにも楽しそうには見えなかった。
 何だか気の毒になってきた。焼き鳥を食べている場合ではないのではないか。
「どれ、美味しいか。そうか、良かったなァ」おじさんはそういうと優しそうに微笑んだ。
「今日はお前ェ、パチで確変もきたしでな。そろそろうちのにも本当のとこを話してみるさね。チビちゃん、世話になったな」おじさんはそういうとまた以前のように僕の頭を軽く撫で、じゃあなといって去っていった。
 不思議なことに今日は以前に比べさほどぞくっとこなかった。

          *

 やがて季節は梅雨に入り、毎日雨ばかり降っていた。
 雨の降らない日は時おり蝉が鳴いた。
 みいは欠かさず毎日ご飯を持ってきてくれていた。
 僕はみいの話----咲ちゃんや由美子さん、杉田君のことが少しだけくわしくなっていた。杉田君は三組の前嶋さんを主人公にした漫画を描きだしたのだそうだ。
 ホワイトファングは、雨は嫌いだといって毎日あきもせず我が家でごろごろしていた。
 ブラックシャークには以来一度も会わずに済んでいた。
 じめじめとした雨の季節が終わると、空は限りなく青に染まり雲はほとんどその姿を消した。
 梅雨はその青に吸い込まれるようにして消えてなくなった。


   第二章    夏

 毎日が死ぬほどの暑さだった。
 ホワイトファングはこの季節決して日中外を出歩かないらしい。我が家に篭りっきりなのだ。
 あのせま苦しい場所にこの陽気の中二人でいるわけにはいかなかったので、僕は木陰を好んで時おり地べたに寝転がったりしてやり過ごしていた。
 梅雨の季節も今では妙になつかしく感じられた。

 そしてこの時期、僕の兄ちゃんは幾度もあの家におもむき僕を捜していたのだという。だがそこから遠く離れたこの場所に居を構える僕にはそんなことなど知る由もなかった。
 気がつくと脚の痛みは癒えていて、喋れなくなっていた僕の口はホワイトファングのおかげもあり元気に言葉を取り戻していた。

「実はね、とらちゃん。犯人がわかったのよ」
 みいの話を聞くことは今では僕の日課の一つになっていた。
「やっぱり咲ちゃん達だったのね。もう信じられない。由美子が授業中にシャーペンの芯がなくなったから咲ちゃんに借りようとしたの。そしたら何と咲ちゃんの筆箱からあたしの消しゴムが出てきたんだって。あ、由美子の席は咲ちゃんの隣なの。あたしの消しゴムはシールがたくさん貼ってあったからそれは一目でわかったんだって。それを聞いてあたし咲きちゃんを問いつめたわ。それがあっさり白状するじゃない。何ていったと思う? 少し借りただけだっていうのよ。あたし新しく筆箱買っちゃったのに! ああ悔しい。返してっていったら咲ちゃんは筆箱の中身しかもってなくて筆箱自体は山本さんが持ってるっていうの。山本さんにそれをいったらすぐに返してくれたわ。でもそれが筆箱だけじゃないの。定規や新しいノートまでいっしょに返ってきたの。そのノートの裏には小さく前嶋って書いてあったわ。他のクラスにまで犯行が及んでたわけ。定規の持ち主はわからない。なのにあの二人ちっとも懲りてなくて涼しい顔してるもんだから、あたしその場で絶交してやったわ! だってそんなの盗っ人じゃないの」みいは早口でまくしたてると、あんたには難しすぎるかしらねとつぶやいた。
 明らかに僕のほうが歳上のように思えたのだが、みいは少し機嫌が悪かったので何もいわないことにした。
「でも新しいの買ってもらっちゃったし、まあいいけど。杉田君の漫画はね、もうラストシーンを残すのみで今や佳境に入ってるんだって。でもなかなかいいラストが思いつかなくて、夏休みに入ったら本腰を入れて描きあげて、それで二学期になったら前嶋さんに読んでもらうんだって。でも前嶋さんは菅原君にラブラブだし、ちょっとこれって切ないわよねえ」僕は学校ってのはひどくややこしい場所だなと思った。
 大きな雲が空を横切り、少しの間日陰になった。
「今日は少し風があるのかしら」
 僕とみいは空を見あげた。
「はあ、毎日毎日暑いわねえ」みいは手で顔をあおぐような素振りを見せてそういった。
「暑いねぇ」と僕も同意した。
「あのね、とらちゃん。実は、今日はこれしか持ってこれなかったの。母さんに見つかっちゃったの。ごめんなさいね」みいは少し悲しそうにいうとそれを僕に手渡した。
 いつもの綺麗なティッシュペーパーの包みの中には----かっぱ海老せんやポテトの揚げ物、そして初めてみいと出会った時に食べたハートチップルが少しずつ間隔を開けて入れられていた。
 熱い陽射しと、そして蝉の声がやけにうるさく感じられた。

 我が家に戻るとホワイトファングはいびきをかきながら眠っていた。
 大の字になってそこを占領していたため、僕はあきらめて散歩に出かけることにした。  
 僕は生地蔵御老に止めらていた森の茂みの奥のほうへと脚を踏み入れようとしていた。
 森は奥に進むにつれて木々は高さを増していた。日中陽の当たっているところに比べると森の中はうんと涼しかった。
 我が家も木陰にあったのだがそれよりもずっと涼しく感じられて、それは少々肌寒いほどであった。
 そして奥にいくほど薄暗くなっていった。
 鴉がかあと鳴いた。それ以外はしんとしている。
 地面はでこぼこで至るところに木の根がうず巻いてた。歩きにくいことこの上ない。
 それに加え先の雨のせいだろうか。地面は柔らかくていちいち脚を取られる。
 この辺りはどこもかしこも日光がさえぎられ、光はほとんど届いていない。一度濡れてしまうとなかなか乾きにくいのだろう。
 急いで歩を進めると遠くに緑色の金網が見えた。
 どうやらこの辺りがこの公園の最終地点なのだろう。
 金網の奥は何だろうか。何やら少し白っぽい。民家か。だが人気はまるでない。
 さらに近づいて見るとそれは墓石だということに気がついた。この公園の裏手は墓地になっていたのだ。
 この涼しさはその霊気のせいなのだろうか。そう思うと少しだけ怖くなった。
 僕は生地蔵御老の言葉を思いだし、急いで帰ることにした。木の根に脚を取られ幾度も転びそうになった。
 森の中ほどだと思っていた我が家は実は入り口付近にかなり近いもので、まだまだこの公園には見知らぬ場所が多くあることに気づかされた。
 ホワイトファングは起きているだろうか。きっとまだ寝ているに違いない。
 夕方になると起きだすのだが、しばらくして夜になるとまた眠ってしまう。彼はこの頃寝てばかりなのだ。そういう僕も夜は早く寝てしまうし、お昼近くまで寝ているのだから人のことはいえないのかもしれないが。
 無事何事もなく我が家まで戻ってきた時には僕はうっすらと汗をかいていた。
 風が汗を撫でていっそう涼しく感じられた。

 もうじき陽が暮れる。
 ホワイトファングはまだ横になっていたが、眠っていたわけではなかった。脚をかゆそうにしてこすりあわせている。
「ずいぶん遅かったじゃねえか」ホワイトファングがだるそうな声で僕にいった。
 僕は今日はご飯が少ないことを告げると、その包みをホワイトファングに手渡した。
 包みを開け中身を確認するとホワイトファングは、ありがてえことだといって手をあわせてそれを拝んだ。
「なあ寅太。あの娘は今までずいぶんと無理して食いもんを調達してきたんじゃねえのか?」
 僕はドキッとした。
 それは僕も常々考えていたことで、しかしどこか頭の隅に追いやっていたことでもあったからだ。
 そうかもしれないと僕はいった。
 ホワイトファングは、よしとかけ声をかけると、ちょっと出かけてくらァといって飛びだしていった。
 包みの中身のご飯はみいに渡された時よりもさらに細かく砕けていた。僕はそれを見て、遠出をしたことを少しだけ後悔した。

 気がついたらもう夜になっていて、僕は知らない間に眠っていたことに気がついた。
 耳元で蚊の飛ぶ音がして落ちつかない。
 いつの間に帰ってきたのか、ホワイトファングは我が家の入り口から顔をだし外を眺めていた。そして僕が起きたことに気がつくと、ようやく起きたじゃねえかといった。
「いいからお前枕元を見てみろ、な。ちょっとすげえだろ?」
 枕元----枕はなかったのだが、頭の脇を見てみるとそこにはサンドウィッチやお米のご飯、鮭の煮物とそしてみいからもらったご飯が並べられていた。
「どうしたんだい? これ」僕が眠っている間にホワイトファングは一働きしたらしい。
「ま、いいってことよ。お前には散々世話になってるからな」そういうとホワイトファングは、わけは聞くもんじゃねえといった。
 おそらくどこかゴミ箱か何かから拾ってきたのだろう。または御銀のところから拝借してきたものか。

 その食べ物はどことなく少し臭ったが、僕はお腹が空いていたしホワイトファングの働きも嬉しかったので喜んでそれを食べた。なかでもサンドウィッチは僕の好物のハムとシーチキンでとても美味しかった。
 ホワイトファングは、俺が取ってきたんだといって鮭の煮物は渡さなかった。だがハートチップルだけは以前に食べた時の経験から手をつけられずにいた。
 ホワイトファングもその匂いをと嗅ぐと、こいつは頂けねえといって食べるのを避けた。そして、これは御銀に進呈してやろうといった。
 だが今日の食事はいつものそれよりずっと美味しかった。
 みいやホワイトファングが苦労して持ってきてくれた今夜のご飯----。
 僕は手をあわせて拝み、二人に感謝した。

          *

 それから幾日かが経ったある日のこと。
 その日は朝からとても強い風に見舞われていてほとんど身動きが取れなかった。
 空は暗く、いつ雨が降ってもおかしくないほどぶ厚い雲に覆われていた。
「こりゃあ一雨くるかもしれねえなァ」ホワイトファングは眠そうにあくびをしている。
 僕はみいのことが心配になった。こんなに風の強い日でも僕らのためにご飯を持ってきてくれるのだろうか。
 僕は半信半疑だったが、もうお昼になっていたためいつもの場所まで行くことに決めた。
 風は思った以上に激しかった。前に進むのもやっとでなかなかうまく進めない。
 時おり突風が吹くと、僕はそのままどこかへ飛ばされてしまうんじゃないかと思った。
 何とか噴水の付近までたどり着くと、そばのベンチのところではなく風を避けるために噴水の石像のそばで身をかがめた。
 もちろん今日は噴水が動いていなかった。水が風に飛ばされることはなく濡れる心配はない。
 だがその時いよいよ恐れていた雨が落ちてきたのだ。
 初めは少しだけだったがあっという間に本降りになった。いや本降りどころじゃない。これは土砂降りだ。
 風は定期的に方向を変え横殴りの雨が僕を叩いた。
 やはりみいは今日は来ない。それも当然だ。
 僕は豪雨の中、いつもみいと話をしていたベンチを見つめた。
 ----今日はもう帰ろう。   
 そう決め、僕は我が家を目指した。
 地面はところどころ川のようになっていた。
 コンクリートの小道の上では雨が激しく跳ね返り、何か見知らぬ生物がダンスでもしているかのように見えた。
 僕は途中何度も暴風で倒れそうになったが、無事何事もなく我が家まで帰ることができた。
 全身がびしょ濡れになったのでホワイトファングは僕に、来るな近よるなといったが、そのまま外にいたのでは僕は間違いなく風邪を引いてしまったと思う。なのでホワイトファングの言葉は無視した。
 我が家はもともと休憩所の家屋の中にあったので濡れる心配はほとんどなかったが、それでも時おり横から強く雨に叩きつけられた。
 僕は外に出られなくて何だか少し退屈になってきたので、この間一人で森の奥まで探検をしにいったことをホワイトファングに話した。するとホワイトファングはかなり驚いたようで、顔をしかめながらこういった。
「森の奥までいったって? じゃァお前又吉の兄貴に会ってきたってえのか」かなり不機嫌そうである。
 又吉の兄貴とは何ものなのか----。
「そ、その人には会っていないよ。いや、誰にも会わなかった。森の裏手は墓地になってるんだね」僕は道がひどく険しかったことも併せて話した。
「あいつァ頂けねえ。この辺じゃあ一番の偏屈だ。くだらねえ理屈ばっかこいて相手を煙に巻くんだ。いや悪趣味この上ねえ。俺ァ関わりたくないね。ごめんだ」ホワイトファングはさらに顔をしかめ、ぷいと横を向いた。
「その又吉さんというのはこの森の奥に住んでいるのかい?」なぜだかわからないが僕は急にその又吉という人物に興味を抱いた。
「俺ァ知らねえ。そんなこたあ生地蔵御老しか知らねえことだろうよ。ただ又吉の兄貴は公園の表側にゃあ出てこねえ。森の奥にひそんでるってえのがもっぱらの噂だよ」ホワイトファングはまたあくびをするとひどく眠そうに目をこすったので、僕はそれ以上何も聞かなかった。

 気がつくと雨はだいぶ弱くなっていた。といっても風は相変わらず強かったのだが。
 今日は食事はなしだと思っていたちょうどその時、我が家の壁を誰かがこんこんと叩いた。実際はダンボールの壁なので、ぼんぼんといった音だったが。
 僕とホワイトファングはびっくりして飛びあがると、二人して恐る恐る入り口から外へ顔を出した。
 表には全身真っ黄色の姿をした少女が同じく黄色の傘を従えて立っていた。
 ----みいだった。
 僕はさらにびっくりした。ホワイトファングも口を開けている。
「とらちゃん、こんなところに住んでたのねえ。ずいぶん捜したんだよ! いつもお話が終わるとこっちのほうに帰っていくから、きっとこの辺じゃないかと思って。あら、お友達もいっしょなのね」みいはにこりと笑顔を見せると、はいご飯ですよといっていつもの綺麗な包みを僕に手渡してくれた。
 みいは黄色のビニールコートを着ていた。鞄こそ青かったが傘も黄色だったので、知らない人が見たら宇宙人と見間違えてしまうのではないかと思った。
 包みを開けると、中には玉子焼きやハンバーグ、ソーセージ、ポテトなどが食べきれないほどたくさん詰まっていた。
 僕とホワイトファングは驚嘆して目を輝かせた。
 僕が美味しそうといったのと同時にホワイトファングは旨そうだといった。それを見てみいは満面の笑みを浮かべた。
「台風ね、たいしたことないみたいよ。 すぐそれるんだってさっきニュースでいってた」
 僕はもうソーセージに手をだしていた。ホワイトファングは玉子焼きが気に入ったのか僕が手をだそうとするとふがあと奇妙な声を発した。
 慌てないでいいのよとみいが笑った。
 みいは、雨弱くなってきたしこのまま通り過ぎちゃうかしらといいながら、屋外のほうへと歩みでた。靴がぺちゃぺちゃと妙な音を立てている。
 みいは雲の様子をうかがっていた。
 ホワイトファングは無心に食べ続けている。
「台風弱くなってきたみたいだし、あたしもういくね」というとみいは僕に笑顔を向けながら傘を広げた。そしてまたねと手を振り外へ走りだしていった。
 ホワイトファングは、あっという間に来てあっという間に帰っちゃったなあとつぶやいた。
 みいが帰ってしばらくすると雨はやみ風もほとんどなくなった。そして雲の隙間から太陽が顔を出した。
 休憩所の屋根からこぼれる雨の雫が、時おり差し込むわずかな光と重なって宝石のように輝いて見えた。

 みいが置いていってくれたたくさんのご飯を枕元に置き、僕らは満面の笑みを浮かべた。
 これでしばらく幸せな気分でいられるなァ、とホワイトファングが僕にいった。
 ホワイトファングは美味しいご馳走でお腹を満たし上機嫌だった。
 僕はそのご飯を見つめながら、何となく家族と離れてしまったあの夜のことを思いだしていた。それがなぜなのかはわからないけれど、もしかしたらダンボールの住家とたくさんの食糧という組みあわせがそう思わせたのかもしれない。
 僕は世間話のつもりでホワイトファングに話しかけてみた。
「ねえホワイトファング、僕は実は君に話しておきたいことがあったんだ。君は興味はないかもしれないけど 」
 ホワイトファングが不思議そうな顔で僕を見ている。
「ん? 何だ。話してみろよ」ホワイトファングはあくびをしながらそういった。そして、どうせお前の話すことだ。ろくなもんじゃねえだろうなどと意地の悪いことをいった。
 僕は枕元のそれを見ていたら何だかとても切なくなって、兄ちゃんや家族のことを口にださずにはいられなくなった。
 ----兄ちゃん。
 僕はホワイトファングにできるだけわかりやすく、僕がこの公園にたどり着いた経緯を話した。
 あの夜、なぜ僕だけが取り残されて家族は消えてしまったのか。
 僕にはとても仲の良い兄ちゃんがいて、兄ちゃんは僕にとても優しくしてくれたこと。
 特に僕らが離れる前には、いっそう優しくなったこと。 
 僕にとって兄ちゃんは、かけがえがなくて----。
 今すぐにでも兄ちゃんに会いたいくらいだということ。
 ----兄ちゃん。
 そしていつかまた絶対に会えると信じているということ。
 僕はもの凄い勢いで、それらのことを話した。
 けれどなぜ僕はこんなことをホワイトファングに話しているのだろうか。
 ホワイトファングにとっては面白くも何ともない話かもしれないのに。
 案の定、ホワイトファングは不機嫌そうにしている。 
 でも、それはつまり、こうなんだと思う。
 僕はこの公園で同じ屋根の下----といってもダンボールの中だったのだが、共に暮らし共に生きるホワイトファングと、もっとこころから打ち解けたかったのだと、そう思う。
 そして僕が熱く語れば語るほどホワイトファングの機嫌が悪くなっていくのは目に見えてわかった。
 それは僕の思っていた以上の反応で、僕はまずいことを話してしまったのかと少しだけ後ろめたいような気持ちになった。
 ホワイトファングは目は吊りあげ、一点を見つめている。
 そして僕のほうに顔を向けるととても怖い顔をして僕をにらみつけた。
「どうでもいいじゃねえかよンなこたァ!」ホワイトファングが声を荒げた。
 僕は急に大きな声を出されたのでびっくりして大げさに後ろにのけぞった。
 どうでもいいとホワイトファングはいった。
 どうでもいいだって?
「ガタガタ何くだらねえことぬかしてんだこの野郎! 手前ェがどうやってここに着いたか、手前ェ自身でもわからねえようなことをその兄ちゃんとやらがわかるわけがねえだろうよ。手前ェの居場所がよオ!」
 それはそうだけど----。
「で、でも。そんなふうに!」
 どうでもいいわけがないじゃないかホワイトファング。
 僕は胸の中が痛みでいっぱいになった。
「それで手前ェはその兄ちゃんとやらを捜しにいくとでもいうのか。そンなら話ァ聞いてやるが、そうじゃあねえんだろ?」
 ホワイトファングは僕のこころの痛い部分にずかずかと入り込んでくる。
 だって捜したくてもどこに消えてしまったのかもわからないし、手掛かりになるようなものも何もないのだから捜しようもないことなのだ。
 それに僕はホワイトファングともっと互いに理解しあえたらと思って、そして信頼しているからこそ話しているというのに----。
「ひどいよ。あ、あんまりだ!」
 君はどうしてしまったんだ?
「ひでえなあ手前ェの脳味噌のほうなんじゃねえのか!」
 ホワイトファングは逆上した。
「ああ。つまんねえつまんねえつまんねえ。くだらねえぜ! めそめそ泣き言ばっかりたれやがってよ」
 けれど僕はなぜこんなにまでひどくいわれなければならないのだろうか。
 僕の昔の話はそんなにくだらないことなのか。
「いいか寅太。昔なんざァくだらねえことなんだよ。クソ面白くもねえ! 昔にすがって生きてちゃあ良くなるはずの未来も良くなるわけがねえ。そンな昔だのって幽霊みてえなもんはどうしたって変えるこたァできねえんだ! そしたら手前ェ、ンなもんは綺麗さっぱり忘れちまうのが一番だろう。そうじゃねえか?」
 でも----。
 僕は返事をすることができなくなっていた。
 だいたいよう、とホワイトファングはこぼすようにいった。
「話せるような、希望が持てるような生温けえ昔があること自体ェそりゃ恵まれたことなんじゃねえのか? だ、だがよ」
 だが?
「は、話すこともならねえような、思いだしたくもねえような昔があったとしたら手前ェ----」
 そこまで話すとホワイトファングは話すのをやめてしまった。
 そして僕はホワイトファングの目に涙がたまっていることにその時初めて気がついた。 
 ホワイトファングが僕に背を向ける。
 彼の肩が小さく震え----。
 ホワイトファング?
「ああ。くだらねえくだらねえ。昔なんざァ、くだらねえ」
 ホワイトファングの声が微かに震える。
 君は----。 
 君は僕の話を聞いて辛いことでも思いだしたのか?
 ああ。そうだ。
 そうだった。
 ここは、この公園にいる浮浪者は、皆それぞれに悲しい昔があるのだろう。
 ホームレス----浮浪者である以上、人にはいえないような辛い事情がきっとあるに違いないのだ。そう考えるほうが自然なことだった。だから皆仲良くしなくてはならないのだ。
 そういっていたのは、そう。この公園の長老である生地蔵御老だった。
 僕は大切なことを忘れていた。
「ごめん。ホワイトファング」
 僕はホワイトファングの事情など何も考えずに自分勝手に自分の思いだけをぶつけてしまっていた。
 ホワイトファングの背中が悲しかった。
 ごめん、と僕はもう一度ホワイトファングに謝った。
 謝る必要などないのかもしれない。ホワイトファングが一言、そういう話は辛いんだっていってくれたなら僕はこんなに熱くは話さなかっただろう。
 でも、いえなかったのか----。
 ホワイトファングが鼻をすすっている。
 それを聞いて僕はとてもやりきれない気持ちになった。
 そしてホワイトファングは一言僕に背を向けたまま、すまねえといった。
 僕は静かにうなずいた。

 その後、僕とホワイトファングはこのことについてはいっさい話をしなかった。
 ホワイトファングが嫌だろうと思ったから僕のほうからも話さなかった。
 けれどそれ以来、彼が僕に冷たくなったというわけではもちろんなかった。
 その証拠に、明くる日僕が同じくらいの年齢の子供達に、汚ねえといわれては石を投げられていじめられていた時にホワイトファングはもの凄い剣幕で彼らを追い返してくれた。その意地の悪い子供達はびっくりしてすぐに逃げだした。僕はホワイトファングによって助けられた。そしてこの公園に来る途中で同じように石を投げられていじめられた時のことと比べたら、僕はもう少しも孤独ではなかった。今は僕のそばにホワイトファングがいてくれる。
 彼が怒ったり理解できないような行動を取った場合、それは必ず彼なりの理由があるのだ。ただホワイトファングはとても不器用な性格の少年だ。けれど彼のいいところは、済んでしまったことに対してはとても寛容でわだかまりを残さないことだった。彼はそれを話しあいで決着させるのではなく常に行動で示してくれた。僕にはそんな彼がとてもうらやましく感じられた。

 僕とホワイトファングはようやく暑さにも慣れてきて、毎日外へ出かけてはいっしょに遊び呆けていた。
 すっかり以前と同じように仲良く過ごしていたのである。
 それは何よりホワイトファングの裏表のない性格のおかげだった。そして幸い僕も根に持つような性格ではなかったことが結果良かったのだろう。
 今ではいくら気があうとはいっても、ずっといっしょに過ごしていたなら喧嘩の一つもするだろうと思えるようになっていた。 

          *

 夏も終わりに差しかかった頃のことである。
 その日は僕がこの公園に来てから初めて公園の外へ出た日だった。
 公園の入り口から外へ出て、そのまま坂を降りるとそれは大きな川がある。
 僕とホワイトファングはそこへおもむき土手の上から一日じゅう川を眺めていた。
 小さな漁船が行き来するの見て、あれは何の船なのかとか他愛もないことで議論した。
 そんな些細な毎日がとても楽しく感じられた。
 ホワイトファングも笑顔だった。
 
 そしてこれはまた別の日のことである。
 僕は以前から気になっていた巨大池の公園にいこうとホワイトファングを誘ってみた。どうしても一度その池を見てみたいと思ったのである。
 だがこれにはホワイトファングは猛反対をした。
 そんなに綺麗な池じゃないし、何よりブラックシャークの縄張りに自ら乗り込むなど正気の沙汰じゃないというのがホワイトファングの言い分だった。
 なるほどそれはその通りなのかもしれない。
 僕は少しがっかりした。
 ホワイトファングはそれを見て悪いと感じたのか、それでは何か別の楽しいことをしようといいだした。
 僕がそれは何なのかと問うと、ホワイトファングは森の茂みの大きな木を一本指差して、あれに登るんだといった。
 いってしまえば木登りである。
 僕は巨大池の公園のことなどすっかり忘れて、その面白そうなに企みに一つ乗じてみることにした。
「この木は十五メートル、いやもっとあるかもしれねえぞ」
 ホワイトファングの口車に乗せられたかのように僕は勢いよくその木に飛び乗った。
 ホワイトファングも負けじと僕に続く。
「一番高いところに登ったものが勝利者だ」と僕はいった。
 いった後で気がついたのだが、二人しかいなくては勝利者も何もないだろうと僕は思った。
 だがそんなことはどうでもいい。僕はとにかく楽しかった。
 どんどん上へ----。
 高く、高く。
 天にも昇る気持ちになった。
 ホワイトファングが追ってくる。
 僕はさらに上の枝に手をかけて高みを目指した。
 その枝に飛びつくと、僕はかなり高いところまで登ってきていたことに気がついた。
「おおい、それ以上登ったら危ねえぞ」
 ホワイトファングが心配そうに声をかける。
 僕もさすがにこれ以上は無理だと考えて、その枝から手を離し今いる枝に落ちついた。
 ホワイトファングも僕の枝までたどり着いた。
 周囲を見渡すと公園の表側の景色が一望できた。
 十メートル近く登っただろうか。
 枝に腰かけ下を見おろす----。高い。
 少しだけ脚がすくんだ。
 だがここまで登った高揚感がそれに勝っていた。
「おう、綺麗じゃねえか。こころなしか皆小さく見えるなァ」
 びゅうと風が吹いた。地上に比べるとそれは幾分強い。
「何だか鳥になったような気分だよ。ホワイトファング」
「ああ、そうだな。気持ちがいいぜ」ホワイトファングはいつになく清々しい顔をしていた。
 本当に気持ちが良かった。
 同じ高さで鳥が飛んでいる。あの鳥は何ていう鳥なのだろうか。
 鳥の目線になってみて初めて世界の素晴らしさに気がついた。
「今日のところは引きわけだな」そういってホワイトファングは笑った。僕も釣られていっしょに笑った。
 最高に幸せだった。
 だがずっとここにいるわけにはいかず、何より危ないので僕らは地上へ降りることにした。
 ホワイトファングはすいすいと簡単に降りていく。どうやら運動神経が優れているらしい。
 僕はおっかなびっくりでそれに続く。
 登る時よりも降りる時のほうがずっとたいへんだった。
 僕は慎重にゆっくりと降りていく。
 鴉がかあと鳴いた。
 すると急に景色が一転し僕の視界に青空が広がった。
 脚の感覚がおぼつかない。
 背中に何かが当たったようだ。
 ホワイトファングが僕の名前を叫んでいる。
 僕の視界は、枝や葉、幹、そして空、地面が交互に映る。
 脚元をすくわれて僕は木からすべり落ちていたのだ。
 そして気がつくと僕は地面に着地していた。
 脚がじんとしびれる。
 ホワイトファングが駆けより心配そうに手を差し伸べた。
「だ、大丈夫だったかお前!」ホワイトファングはたいそうびっくりしていた。
 僕は声を失っていたが、何とか深呼吸をして平静を取り戻した。
「いやあ、スリル満点!」
 ホワイトファングはポカッと僕の頭を殴りつけた。
 今考えると実に幸運だったのかもしれない。
 あの高さから落ちて無傷だったのは奇跡のようなことだったかもしれない。
 それでも僕は幸せだった。
 ホワイトファングはしきりにぼやいた。
「お前といっしょにいたら、命が幾つあってもたりねえ!」

          *
                 
 それからまた幾日か経ったある日のことである。
 僕は公園の入り口付近のベンチに腰かけていた。
 なぜだかわからないが、ここにいたらネジのおじさんがまた来るんじゃないかと思ったからだ。
 僕は少し暇を持て余していたし、今日こそは何か景気のいいことをいってあげられそうな気がしていたからだ。
 だがいくら待てどもおじさんは現れなかった。おじさんどころか誰も来ない。
 こうして待っている時に限って誰も訪れないのだ。
 風が頬を撫ぜ、とても気持ちが良かった。
 夏じゅううるさかったかった蝉の声はもうどこからも聞こえない。 


   第三章    秋

 みいはこのところやけに上機嫌だった。
 新学期が始まって話題にこと欠かないのである。
 みいは口に飴を頬張りながらいつものように早口でまくしたてた。
 夏が終わり木々は緑を失うと、別の綺麗な色達に姿を変えはじめていた。
「例の杉田君ね、ついに漫画を完成させたのよ。夏休みを全部それに費やしてほとんど家から出なかったんだって。そしてついに前嶋さんに読んでもらったの。凄いでしょ? そしたら前嶋さん、何とそれ読んで感極まって泣いちゃって! それ以来杉田君のことが大好きになっちゃったんだって。もう菅原君のことはどうでもよくなっちゃったみたい。あたし本当にびっくりしたわ。だってその漫画、実はあたしも読ませてもらったんだけど、勇者になった杉田君が杉ノ王子になって洋美ノ姫を悪の古城から救いだすってっお話なんだもの。あ、洋美っていうのは前嶋さんの下の名前ね。で、晴れて二人はと思うでしょ? ところがそうじゃないのよ。その後二人は意識しすぎちゃって前よりも話をしなくなったの。せっかく両想いになったというのに。はあ、難しいものなのねえ」
「女の気まぐれは鴉も食わないって、これ本当ね」
 そんなことわざがあるのかどうか僕は知らなかったが、本当にそうだと思った。
「今日のご飯は、あなたとても気に入るんじゃないかしら」みいは含みを持たせたようないい方でそういうと、いつもの綺麗な包みを僕に渡してくれた。
 何やらとても素敵な香りが漂う。これは何だろう。
 僕は急いでそれを開けると見たこともないそれに釘づけになった。
「これはね、あなた向きのクッキーってとこかしら」みいは嬉しそうに微笑んだ。
 僕はこらえきれなくなって、それを一つ口に放り投げた。
 ----美味しい!
 これはみいのお母さんが僕に作ってくれたものなのだろうか。物凄く美味しいのである。
 僕はこんなに美味しいものを食べるのは生まれて初めてだという気がした。
 マクドナルドのフライドポテトだってこれにはかなうまいと思った。
 とてもふっくらとしていて、なのに味はさっぱりと上品で、これならいくら食べても食べあきることはないと思った。
「どうもありがとう。こんなに美味しいクッキー僕初めて食べたよ」僕は一礼すると、一刻も早くこれをホワイトファングに食べさせてあげたいと思った。
「すっかり涼しくなったのねえ」
 そういうとみいは僕の顔をまじまじと見つめた。
「実はねとらちゃん。あたし明日から学校で運動会の練習が始まっちゃうの。あたし運動大ッ嫌いなのに。だからしばらくの間少し遅くなっちゃうけど、でも必ず来るから。だから我慢して待っててね」
 僕は学校ってのは本当にやっかいで、意味もなく忙しいものだなと思った。
 と、その時突然みいが、母さん! と大声で叫んだ。
 噴水の少し向こうにとても上品な格好をした中年の女性が立っていた。
 その女性はみいの声に気がつくと顔を向け、あらまあといいながらゆっくりとこっちのほうに歩いてきた。
 僕は少しだけ緊張して背筋を伸ばした。
 どんどんと近づくにつれ、女性は殊のほか背が高いということがわかった。
 ブルーのセーターに紺色のスカートをはいている。腕には高価そうなブレスレットが光っている。それとも時計だろうか。
「あなたが噂のとらちゃんなのね。まあいつも娘がお世話になって」
 その女性----みいのお母さんは僕を見つめると急にくすくすと笑った。
 僕はぞっとして少しだけ後ずさった。
「ど、どうも」それしか言葉がでなかった。当然だ。
 まあ可愛いこと、といってお母さんは満面の笑みで僕を見て笑った。
 僕のどこがそんなに可笑しいのだろうか。僕は可愛いのだろうか。
「あんた。この子にご飯をあげるのもいいけど、お弁当くらいきちんと食べなくちゃいけないわよ」お母さんはみいを横目でにらんで見せた。みいはうつむいて何もいわない。
「たくさん食べないと大きくならないんですからね。知ってるのよ。お夕食のおかずも持ちだしてるんでしょう」お母さんはみいを叱るように少しだけ厳しい口調でいった。 
 そうなのか。みいは自分のお弁当や晩ご飯のおかずまで持ちだして僕らにわけ与えてくれていたのか----。
 そういえばみいは初めて出会った頃に比べてだいぶ痩せているように思えた。
 みいの手が大げさに細く映った。
 お腹を空かしてまで自分のご飯を僕らに----。
「まあ仕方がないわね。この子のご飯はちゃんと他に用意しますから、あんたはきちんと自分のものは残さずに食べなさいね」
 お母さんの言葉にみいはかしこまって小さく、はいとつぶやいた。
「それでこの子。今日のご飯は気に入ったのかしら?」
 僕はそれが先ほどの美味しいクッキーだとすぐに理解した。
 そして、美味しかったですといったが無視されてしまった。
 みいは、とっても喜んだみたい。そうよねとらちゃん? といった。
「気に入りました」僕は再度いった。
「そう。じゃあこの子には当分これでいいわね?」と芯の強そうな----だが優しい声でみいに問うた。
 みいは、それでいいです、母さんと答えた。
「じゃあそろそろ帰って今日の宿題を済ませちゃいましょうね」というとお母さんは僕のほうを見て、またね黄色ちゃんといった。
 ----黄色ちゃん!
 どうして黄色ちゃんなのだろうか。
 そうか、そうだった。
 僕はずうっと黄色い横シマの服を着ていたのだ。
 それにしても黄色ちゃんはないだろうと思った。
 みいが僕のほうを見ながら手を振っている。
 お母さんはみいの手を取るとそのままいっしょに遠ざかっていった。

 僕は大急ぎで我が家へと戻ってきた。
 ホワイトファングは息をきらした僕を不思議そうに見て、何かあったのかといって目を丸くした。
「いいからこれを食べてごらんよ。今日のご飯だ」僕は得意げにそういうとその包みをホワイトファングに手渡した。
「へえ、旨そうじゃねえか。どれ」
 ホワイトファングはふんふんとその匂いを嗅ぐとそれを一つ二つ口へ投げ入れた。
 予想した通りホワイトファングもいたく気に入ったのか目をさらに大きく見開いて----これは旨え、こいつはすげえと驚嘆した。
 僕もたまらず横からそれに手をだした。そして食べながら、今までのご飯はみいのお弁当の中身や晩ご飯のおかずだったんだと告白した。そしておそらく今食べてるものはみいのお母さんが用意してくれたもので、しばらくこのご飯が続くだろうことも併せて伝えた。
「そりゃお前ェ、いいことだろうよ。俺たちは旨えもんにありつけるし、あの娘も苦労しなくて済むんだろうしよ」
 ホワイトファングは美味しそうにそれを食べ続けている。
 ちゃんと意味がわかっているのだろうか。
 僕はどことなく痩せてしまったみいの細い腕を思いだし、これまでまったく自活してこなかったことをひどく後悔をした。

          *

 後から聞いた話である。
 僕の母ちゃんとあの例の意地悪な父ちゃんは離婚をした。
 お姉ちゃんは相変わらず遠くで働いていて姿を見せず、兄ちゃんはしばらく母ちゃんと暮らしていたのだが、母ちゃんが母ちゃんのお父さん----つまり僕のお爺ちゃんの田舎へ戻ることを決めたため、兄ちゃんは小さなアパートを借りて一人で暮らすことになったという。
 兄ちゃんはそれでも僕のことを気にかけてくれていて、仕事を宅急便の職に変え----というよりそもそもその前に何の仕事していたのか僕は知らなかったのだけど、その仕事で荷物を届ける家々にいちいち僕の写真を見せては見覚えがないかと尋ねていたらしい。
 兄ちゃんは僕を置いてきてしまったことをひどく後悔して、本格的に僕を捜しはじめていた。
 兄ちゃんの生活は一変した。
 宅急便の仕事は人捜しをする上でとても効果的だった。様々な情報を得ては勤務先を移動させてもらい、少しずつ僕のもとへと近づいてきていた。
 僕が兄ちゃんに会いたかったように、兄ちゃんも僕に会いたいと思ってくれていたのだ。
 僕が取り残されてしまったあの日以来、家族はばらばらになってしまったが、その絆----結びつきはよりいっそう深くなっていた。
 兄ちゃんはお姉ちゃんに頻繁に連絡を取るようになり、事情をよく理解してくれたお姉ちゃんは積極的に兄ちゃんのことを援助した。お姉ちゃんは早くから家を出て色々な苦労をしてきたために、兄ちゃんにとって良き教師となったのだ。
 母ちゃんはというと、複雑な家庭の事情から解放されて日増しに元気を取り戻していったという。
 
 そんなことも露知らず、僕はこの公園で呑気に暮らしていた。

          *

「よう、久しぶりだなァ。しばらく見ない間に少し大きくなったんじゃないか?」
 ネジのおじさんだった。
 僕は確かちょっと前にまたこのおじさんと話してみたい気分になっていたのだが、なぜか今日はあまり気分が乗らなかった。
 都合良くいかないものだなと思った。
「いやァ。あの後うちのにね、いやカミさんだがね。話してみたんだなァ」
 ふむふむという感じである。確かこのおじさんは職を失くしたことをずっと奥さんにいえずに悩んでいたのである。
 僕はすっかり忘れていて思いだすまでに少々時間を要した。
 僕は元来あまり記憶力が優れているほうではない。
 おじさんは夏には全然見かけなかったのだが、何をしていたのだろうか。
「夏のよ。あれは台風の前だったか後だったか。お前せっかく報告しにきたってえのにどこに隠れちまってたんだァ」
 なるほど、一応来ていたらしい。
「ま、いいか。いやうちのにな。アレ話したら私ァ家追ん出されるんじゃないかってずっと思ってたんだがなァ。それがまったく逆だったわけさね。うちのカミさんはああ見えてデカかった。いやデカいってえのは背丈とかじゃなくてだな。ま、気持ちがなァ」
 おじさんは嬉しそうにそういった。
「長い間お疲れ様でしたっつうんだなァ。いやあ私ァどういうのかこれ、びっくりしてしまってなァ。うちのは普段本当そういうんじゃないんだなァ。休みの日に寝転がってたりすっと、掃除の邪魔だ、どきやがれえとなァ。そういうまァ、よくいるだろうそういうのが」
 どういうのだろうと思ったが、悪い話じゃないような気がしてわりと安心して聞いていられた。
「職をなくして帰ってきたってえのにだよ。ご苦労様でしたっつって深々と頭下げられてだなァ。いやあ参ったね。アンタが今まで頑張ってきてくれたおかげでアタシはのうのうと生きてこれました。どうもありがとうございましたっつうんだなァ。私ァもう腰が抜けるかと思ったさね。でもなあそういってもらえるとなァ。私もじんときましてね。三十二年間の疲れがさあっと抜けるような思いがしまして----」
 おじさんは眼鏡をはずすとその小さな目を幾度もぬぐった。
「これからはアタシもパートに出るなりして頑張りますので、もう一度一から今度はいっしょにやり直しましょうって。私ァ嬉しくてね。ついわあっと泣いてしまったさね。これから何ができるかわからんけどもとにかくもう一度頑張ってみようかってね。いやパチンコ何かァもうやらねえ。今はお前、実をいうと私ァ世界一の掃除夫を目指して修行の身ってところさね。あははは」
 おじさんはもう以前のおじさんとは違っていた。どこか暗く陰があって気難しい----そういう雰囲気は姿を消し、今やあか抜けない底なしの楽天家のようにすら感じられる。
「しかしアレだなァ。人間っつうなァ真面目なことを話す時、急にかしこまって丁寧な言葉になったりするんかねえ。いや実のところ清掃業っつうのは奥が深い。気持ちをいれずにただ作業してっとあっという間に腰にくる。ただ綺麗にするんだってがむしゃらにやっても足腰やられちまう。新米の私がいうのも気が引けるが、そうだなァ。堂々と胸張ってだな。こう自信をもって清掃するとなぜか不思議と体にこない。大丈夫なんだなァ。いやァ奥が深い」
 おじさんは目に光を取り戻し、これから先の人生のことを楽しそうに僕に語った。そして僕はこのおじさんは本当に世界一の掃除夫になるんじゃないかと思った。
 枯れ葉が風に流され、僕とおじさんの前を泳いでいった。

          *

 みいは相変わらず元気で、少し痩せたような気はしたもののいつものお喋りは止まることがなかった。
 最近は決まって運動会の練習の話である。
 伊崎君というクラスのアイドル的存在の美男子と二人三脚でペアを組むことになり、もっぱらその話題が話の大半を占めていた。
 多くの女子の羨望と妬みを一心に受け、非常にやりづらい状況になっているというのである。
 みいは遅くなるとはいっても夕方には必ず公園にやってきていた。
 僕とホワイトファングはゴミ箱をあさったりして朝昼をしのいでいた。
 ゴミ箱から取ってくる食糧は衛生的に良くないものが多く、僕らはそのおかげでしょっちゅうお腹を壊しては吐いていた。
 そんな生活がしばらく続いていた。

 そんなある日のこと。
 我が家で休んでいた僕に、ホワイトファングが血相を変えながら戻ってきてはこう語った。
「まずいよ寅太。非常にまじィんだ。実は今朝御銀の奴から聞いたんだが、どうやらあのブラックシャークが巨大池の公園からこっちに引越してくるみてえなんだ。それで俺は今その公園に出向いて色々確かめてきたとこなんだ。そしてそれはどうやら本当らしいぜ。もしも奴がこの先この公園に居つくようなことがあったら、そん時ゃあ今までのように楽しく暮らすってわけにはいかなくなる。奴はあの公園じゃすべての浮浪者を従えて君臨してたし、それだけじゃあきたらず手下を召使いのようにこき使っていやがったんだ。俺達がそうならねえという保障はどこにもねえ」
 ホワイトファングは緊迫した面持ちでいうと僕に意見を求めた。
 僕は何とかそれをうまく回避できる方法はないものかと考えたが、良いアイディアは一向に浮かんでこなかった。
「この話が本当なら、奴は二三日中にはこっちへ引っ越してくることになる。俺は何とかそいつを阻止してえ。寅太、お前も少しだけ力を貸してくれ。俺とお前であいつを叩きのめすんだ。そしてここにはあいつの居場所がねえってことを思い知らせてやりてえんだ! それしか他に方法はねえ」
 ホワイトファングは自分でも無茶なことをいっているのは重々承知なのだろう。
 ホワイトファングはこれまで僕にずっと良くしてくれていた。だが僕は一度もその恩を返したことはなかった。みいが持ってきてくれるご飯をわけ与えてあげていたが、それは僕の働きによるものではなかった。
 僕に何ができるかはわからない。けれど今度ばかりは逃げるわけにはいかないだろう。
 僕はゆっくり深呼吸をするとホワイトファングに向けてこういった。
「力を貸すよホワイトファング。ブラックシャークをやっつけよう」
 ホワイトファングは満面に笑みを浮かべると、頼りにしているぜといって僕の背中を軽く叩いた。
 僕も笑みを戻した。
 そして僕は以前からずっと気になっていたことをホワイトファングに聞いてみることにした。
「ところでホワイトファング。この公園はいったい何ていう名の公園なんだい? 巨大池の公園みたいにシャレた名前があるんじゃないのかい?」
 急な話の展開にホワイトファングは意表をつかれたようだったが、それでも僕の問いに丁寧に答えてくれた。
「名前かァ、そりゃ聞いたことがねえなあ。うむ、そうだな。俺とお前の公園なんだから、ホワイト寅公園、いやちょっと語呂が悪りィ。白寅公園なんてのはどうだい?」
 僕は、それはいい。そうしようといって笑った。
 ホワイトファングもいっしょになって笑ってくれた。

          *

 それから幾日かが過ぎ、みいは運動会の練習から解放されていた。
 みいの話は深刻で、僕はそれを聞いて胸が張りさけそうになった。
 みいは言葉をつまらせながら強く僕に語った。
「誰かがあたしの脚を引っかけた!」
 みいの瞳にたくさんの涙がたまっていた。
「ひどい。本当にひどいよ。あれさえ無かったらうちのクラスは優勝してた。あたしはミスして転んだんじゃない。絶対違う」
 みいは悔しそうに話すと、両手をぎゅっと握り締めた。僕は声を失くし、ただみいにより添うことぐらいしかできなかった。
「伊崎君と二人三脚を組んだの、あたしの意志じゃない。リレーだってそう。なのに誰も口を聞いてくれない。もう誰もあたしと口を聞いてくれなくなった」
 僕は小さく震えるみいの膝に手を当て、より添った。
 僕の手にみいの涙がこぼれてはたまる。
 大丈夫、大丈夫だよ。僕はみいにそういった。
 でも僕の言葉は届いてなかった。
 いや、届いていたのかもしれない。僕にはわからない。
「またね----。とらちゃん」
 そういい残すとみいは僕を避けるように、うちへと帰っていった。
 僕の手元にはいつもの綺麗な包みが残された。
 空を見あげるとぶ厚い雲は今にも泣きそうになっていた。
 噴水は静かに音を立てていた。

 雨が降りださないうちに、と僕は急いで我が家へと戻っていった。
 ホワイトファングはどうしているだろう。我が家で眠っているのだろうか。
 我が家の隣、池のほとりに差しかかったところで僕は御銀に呼び止められた。
 何やらご馳走があるから来いというのだ。
 御銀はあふれんばかりの幸せそうな笑みを浮かべ、僕に語った。
「寅太さん。いつぞやはありがとうございました。今日はその、あの時のお礼とでも申しましょうか。この上物の肉をぜひあなた達に召しあがって頂きたくて」
 何だか嫌な予感がした。そしてその予感は的中した。
「実は巨大池のとあるお方がこちらへ越して来られますの。そのお方は----」
「何だって!」
 僕は話を最後まで聞かずに御銀の言葉をさえぎった。
「まさかそいつは真っ黒な服を着て目は片目。頬に傷があるんじゃないだろうな!」
 気がつくと僕はホワイトファングのような口調で御銀に詰め寄っていた。
 御銀はびっくりして目を丸くし僕を見つめると----次にその目を細め、寅太さんももう少し利口な生き方をしないと後で痛い目におあいですよと警告した。
 僕はその上物の肉とやらを御銀の手元から奪うと、それを思いきり地面へと叩きつけた。
 御銀は仰天して悲鳴をあげ一瞬僕を見やると、その視線をすぐ僕の真後ろに移した。
 振り返るとそこにホワイトファングが立っていた。
「よう兄弟。だが肉に罪はねえからなァ。こいつは頂いておくぜ」
 ひしゃげた上品な肉を拾いあげるとホワイトファングは不適な笑みを浮かべ、さらにこうつけ加えた。

「今宵は決戦らしいぜ」

          *

 秋も深くなってきたのか夕刻を過ぎるとだいぶ冷える。
 僕とホワイトファングは来たるべき決戦に備えて作戦を練っていた。
 どちらかがおとりになる方法や待ち伏せをして木の上から石を落とす方法、相手に取り入ったと見せかけては寝床を襲う方法、その他考えられることはだいたい話しあった。だがどれもホワイトファングの気には入らなかったようだ。
「どうにもなァ、そういう面倒臭ェのは俺は苦手なんだ。なんつうかその、卑怯じゃねえのかな」ホワイトファングはそういって一歩も譲らなかった。じゃあ奴に勝てるのかと僕が話すたび、話は平行線をたどった。
 なるようになれという気持ちで固まった頃----空は夜の闇で黒く塗りつぶされ、その闇は静かに水滴を落としはじめていた。
 僕はそれを眺めているうちに、何だかみいが遠くへいってしまわないかと急に心配になってきた。
「ちょっと出てくる」とホワイトファングに告げると、彼が止めるのも聞かずに僕は昼間みいと別れた場所へと急いでいった。
 もちろんこんな夜だからみいがそこにいるはずはない。いるはずはないのだが僕はいかずにはいられなかった。
 嫌な汗をぬぐいながら、昼間みいといた噴水の付近までたどり着いた。
 誰もいるはずのない噴水の脇を見やると、僕の希望が叶ったかのように誰かがしゃがんで泣いているようにそれは見えた。
 だが陰になっていてよく見えない。
 みいなのか----。
「みい!」
 僕はそのしゃがんで見える影に向かって叫んだ。
 影はゆっくりと立ちあがると、それは思っていたよりもはるかに巨体で堂々としていた。
 みいじゃない。
「寅太、奴から離れるんだ!」ホワイトファングの声だった。
 ----奴。   
 そう思った瞬間、頭が何かにぶつかり急激に温かくなった。何とも嫌な温かさだ。
 それは空からの水滴で急激に冷めていくと僕の頭には鈍い痛みだけが残った。
「うわあああ」
 僕が叫んだのか、ホワイトファングが叫んだのか。
 そしてその叫びに悪魔のような大きな笑い声が低く重なった。

 ----決戦だ。

 ホワイトファングが空にはじき飛ばされる。
「ふふ。いつだかの坊や達じゃないか。君らは少しばかり邪魔なようだね」
 低い声の持ち主は、明らかに僕とホワイトファングに敵意を持っているようだ。
 御銀の奴がこいつに何かを吹き込んだのか?
 僕はもう御銀を信用できなくなっていた。
「黒の旦那よ、ここは貴様の来るべき場所じゃねえ。大人しく巨大池に帰るこった!」
 ホワイトファングは少しも負けていなかった。
 巨大な塊に向かっていくその小さな姿は勇猛で、少しばかり大きく映った。
 再びホワイトファングが空に飛ぶ。
 彼の白い服は次第に紅く色を変えていく。
 僕は大声で叫びながらその黒い塊、ブラックシャークに飛びついていった。
 ホワイトファングも立ちあがり、その塊の脚に噛みつく。
 僕も腕に噛みついた。
(離すんじゃねえぞ、寅太!)
(ああ、離すもんか)
 ごん。ごん。ごん。
 鈍い音と同時に何かが僕の頬に飛び散る。
 温かい----。
 脇腹に数度、鋭い痛みが走る。
 殴られているのか。
 気のせいなのか。
 それすらもう僕にはわからなかった。
 胃の中から何かが込みあげては口からこぼれる。
(痛ェ----)
 目の前にあった黒い塊は遠ざかり、空と地面が交互に映る。
 吹っ飛ばされたのか----。
 ホワイトファングが叫んでいる。
 負けてなるものか!
「威勢がいいな、坊主ども。だがこれまでだ」
 ブラックシャークがそういうと、ホワイトファングは宙高く投げ飛ばされた。
 どすん。
「クソ野郎。舐めやがって」
 体じゅうを紅く染めたホワイトファングが牙をむく。
「手前ェ。俺様がその脚を食いちぎってやるぜ!」
 僕もホワイトファングに負けじと向かっていった。
(今度は離すんじゃねえぞ。何があってもな!)
(まかしとけ)
 どんなに殴られようと蹴られようと離してなるものか。
 僕は再び黒い塊に噛みついた。
 至るところに痛みが現れる。
 僕は遠のいていく意識を必死でたもとうとしていた。
 ごん。ごん。ごん。
 雨が火照った体を冷やしてくれる。
 この公園に来て、住みついて、僕と生活を共にしてくれたホワイトファング。
 だから僕は負けない。
 負けられない。
 負けるわけにはいかないんだ。
 どすん。
「ちくしょう。負けるかああァ!」
 僕はこの公園があったからこそ生きてこられた。
 ここにホワイトファングがいてくれたから楽しくやれてた。
 だから僕はここを侵略者の手になんか渡すわけにはいかない。
 何としても守るんだ。
 守りぬくんだ。
 守らないといけないんだ。
 体じゅうの感覚が薄れていく。
 ブラックシャークが苦しそうに唸っていた。
「へへ。悪霊の脚の肉を食いちぎってやったぜ!」
 ホワイトファングは僕のほうを向き片目を閉じてにやりと笑った。

 兄ちゃん、僕は生きている。
 この公園で、友達といっしょに戦っている。
 僕らの居場所を守るため。
 ここで楽しく暮らすために。
 でも兄ちゃん。兄ちゃんはいったいどこにいってしまったの。
 あの幸せな日々はもう戻らないの。
 兄ちゃん。兄ちゃんは今どこにいるの。
 兄ちゃん----。
 僕はとても仲の良い友達ができたよ。
 ホワイトファング。
 彼の名はホワイトファング。
 僕の大切な友達だよ。
 いつか兄ちゃんに会わせてあげたい。
 口は悪いけれどとても素敵な奴なんだ。
 兄ちゃんもきっと仲良くなれる。
 虜になるよ。
 それは間違いなしだ。
 僕の兄ちゃんだから。
 ホワイトファングだから。

 ごん。ごん。がん。ごん。
 体が麻痺してしまっているのか、もう痛みは感じない。
 そのかわり体じゅうが燃えるように熱かった。
 ホワイトファングがブラックシャークの顔面を引っかいている。
 僕も噛みついて離さない。
 優勢だ。
「うわああああァー」
 ホワイトファングが雄叫びをあげる。
 僕も吼える。
 持久戦なら一人より二人のほうが有利だ。
 血と汗と雨が混じり、僕らはびしょ濡れになっていた。
 黒い巨体が唸り声をあげ、ゆっくりと地面に倒れ込む。
「こ、このクソ餓鬼ども----」
 倒れこんだ巨体はそうこぼすと、負傷した脚をかばいながら逃げる姿勢に入っていた。
 ホワイトファングが威嚇する。
「手前ェ。今度ここに来たらこの程度じゃ済まさねえぜ!」
 ホワイトファングの口元は真紅に染まっている。
 ブラックシャークも全身紅黒くなっていた。
 ホワイトファングがとどめとばかりに体当たりをする。
 僕も巨体の至るところに噛みついてやった。
 勝負はついた。
「クソ。お、覚えてやがれ!」
 その黒い巨体は、今や弱々しく脚を引きずりながら去っていく。

 ----勝ったのだ。

 僕らは奴を追い返すことに成功したのだ!
 ホワイトファングは僕のほうに向き直り、満面の笑みを浮かべてみせた。
 そして最後にこう締めくくった。
「けっ。悪霊もてえしたことなかったぜ。俺様と寅太の手にかかればイチコロよ」
 まさにホワイトファングのいう通りだった。
 僕の貢献も認めてくれてたことが何より嬉しかった。
 ブラックシャークの後姿は敗北感に満ちていて、それを見て僕らはさらに満足した。
「ひゃっほう!」
 僕とホワイトファングは歓喜の声をあげた。
 僕は当分の間ブラックシャークがこの公園に来ないことを確信した。
 それはきっとホワイトファングも同じだったことだろう。
 雨は相変わらず僕らに降りそそいでいた。
 僕らの血と汗は静かに洗い流された。
 僕らはだいぶ負傷していて、傷だらけになっていた。
 とりわけホワイトファングはひどくやられていた。
「さて。我が家に戻ろうじゃないか。寅太」
 ホワイトファングはかなり息をきらしている。
「クソ。ずいぶんと蹴ってくれたもんだぜ。ちくしょう、腰もやられたか」
 僕も全身傷だらけだったが、ホワイトファングはずっと重傷なようだった。
「手を貸すよ。ホワイトファング」
 僕がそういうとホワイトファングは、一言ありがとよといった。
 雨の音がやけに耳についた。

「我が家だよ。ホワイトファング」
 僕はもうくたくたになっていた。体じゅうが痛かったが特に左の脇腹が強く痛んだ。
 ホワイトファングも疲れきっているようだった。
 それも当然だ。あの巨体、ブラックシャークを二人で追い返したのだから。
 ホワイトファングは特に腰や背中の痛みを訴えていた。放り投げられた時に強く打ってしまったのだという。
「なあ、寅太。何だか腹がへったなァ」ホワイトファングが気の抜けた声で僕にいう。
 そりゃあそうだ。今日、僕らはうんと働いたのだから。もっともこれが労働だとしたのならばだが。
 僕はホワイトファングに何か食べ物を探してきてあげようと思い、重い腰をあげた。
 僕も疲れきっていたがやっぱりお腹が空いていたのだ。
 ホワイトファングはしばらく動けそうにないし、みいが持ってきてくれた僕らのご飯はもうとっくに食べ終わってしまっていたのだ。何より僕はホワイトファングが傷だらけでお腹を空かせている様を見ていられなかった。
「寅太。又吉の兄貴を捜すんだ。奴はすべてを知っている----」
 とう突にホワイトファングが妙なことを口走った。
 僕はそれを気にとめず、今何か食べ物を探してくるからと返した。
 僕は痛む脇腹を押さえながら、ゴミ箱やベンチの側に食べ残しが置いてないかと丹念に探し歩いた。その結果僕が我が家に持って帰れたものはシーチキンのサンドウィッチ、それとお弁当のご飯が少しだった。
 ご飯にはカツオのふりかけがかかっていて美味しそうな匂いがしていた。どちらもそれほど傷んでなくて、ご飯としてはじゅうぶん過ぎるものだった。
 早くこれをホワイトファングに食べさせてあげたい。
 僕がそれらを持ち帰りホワイトファングに差しだすと、彼はただ旨そうだというだけで一口も口にしなかった。よほど疲れているのだろう。
 だがホワイトファングはとても嬉しそうにそれを見つめ、僕に笑顔をくれた。
 僕もひどく疲れていたが精一杯の笑顔を返した。
 そして気がつくと僕らは深い眠りの中に落ちていた。

 ちゅんちゅんと鳥の鳴き声が耳につき僕は目を覚ました。
 まだ少し眠かったが何とか起きようとすると----脇腹をはじめ、昨日はあまり痛まなかった腕だとか首、肩などもひどく痛んだ。
 雨はすっかりあがっていて空気はとても澄んでいるように感じた。
 そして気がつくとまた僕は眠りの中に入りかけていた。
 うとうととした意識の中で僕は、昨日の戦いぶりを兄ちゃんが褒めてくれた場面をたくさん想像していた。だがどうしても鳥の声がうるさく感じられて調子がでない。おそらくすずめか何かだろうが、かなり近くで鳴いているに違いない。
 僕は二度寝をするのをあきらめて、早くホワイトファングが起きないものかと思っていた。けれどそうこうしている間に結局僕はまた意識が遠のいていって、鳥の声も遠ざかっていった。
 そして僕がようやく起きだしたのはおそらく昼をだいぶ過ぎた頃だと思う。
 ホワイトファングがちっとも起きてこないから、僕はみいに会えないものかと思い噴水のところまでいくことにした。
 みいはこのところ全然元気がなかったし、僕は僕で食糧をもらえたらとても助かるのである。
 僕は疲れているだろうホワイトファングを起こしてしまわないようにそうっと出かけ、噴水の近くまで歩いていった。
 時々ひどく脇腹が痛むから少し辛かったが、脚や腰はどこも痛まなかったので歩くことはたいして苦にはならなかった。
 噴水のそばのベンチでずうっとみいを待っていたが、結局夕方近くになっても現れなかったので、僕はゴミ捨て場をあさって食糧を仕入れて我が家へと帰ることにした。
 ゴミ捨て場にあった食糧は何とフライドポテトで、それは僕の大好物の一つだった。
 フライドポテトを残して、さらにそれを捨てる人がいるなんて僕には想像もできなかったが、おそらく虫や何かが容器の中に入ったかしたのだろうと考えた。でも今の僕にはそんなことは少しも気にならず、ただありがたいことだと感じるだけだった。
 食べ物はあるに越したことはなくて、それが美味しいものなら僕にとっては最高だったのだ。
 他には何も調達できず量は多くはなかったが、ホワイトファングが喜んでくれるだろうと思うとわくわくした。
 そして僕はそれを手に、少し早脚で我が家へと帰っていった。

 我が家に着くと、もう陽も暮れるというのに未だにホワイトファングは眠っていた。
 僕はホワイトファングの枕元にフライドポテトを置き、彼がその匂いで起きてくれることを望んでいた。
 僕はお腹が空いてたまらなかったので、ホワイトファング、もう夜になるよと告げた。ホワイトファングは一向に反応がなかったのだが、さすがにいくら何でも起こしても構わないだろうと考えて、彼の肩をゆすってみることにした。

 ----そして僕は気がついたのである。

ホワイトファングの肩は冷たく冷えきっていたのだ。
 僕は悪い夢でも見ているのではないかと我を疑い、彼の体の至るところを触ってみた。
 けれどホワイトファングはどこもかしこも冷たくなっていた----。
 僕は彼の体を大きくゆすり、必死になって起こそうとした。
 それでもホワイトファングは起きてはくれなかった。
 ホワイトファング!
 僕はそう叫びながら必死にゆすると、その体はごろんと固まった状態でうつ伏せになった。
 ホワイトファングの背中が真っ紅になっていた。

 悪い夢。
 僕は----悪い夢を見ているに違いない。
 そうに違いない。
 
 うつ伏せになった彼を仰向けに起こし、フライドポテトだよホワイトファングと告げた。
 体じゅうの血が引いていく。
 僕は唾を飲み込みながら、フライドポテトを彼の口に押し込んだ。
 口が固まってうまく開かない。
 あり得ない。
「食べてよ。ホワイトファング----」
「起きて。食べてよ----」
 嘘だ。
 嘘だ----。
 僕は怖い夢を見ているに決まっている。
 こんなことがあってはならない。
 起きてはならない。
「ホワイトファング----」
 ホワイトファングは食べてくれない。
 涙が、込みあげてくる。
「うわああああ----」
 嘘だ!
 嘘だ!!
 嘘だ!!!
「ホワイトファング!!」

 ホワイトファングは眠ったまま逝ってしまったのか。
 安らかな顔をしている。
 それはまるでただ寝ているだけのように見える。
 成し遂げたことの大きさに満足しているかのように笑みを浮かべている。
 ホワイトファング、君は最期にどんな夢を見ていたの----。
 僕はホワイトファングの口からフライドポテトを取り去り、口元の血をぬぐった。
 そして髪の毛を綺麗に整えた。
 二人でいっしょに木登りをしたことを思いだした。
 楽しかった。
 幸せだった。
 あの日に戻りたい。
 楽しかったあの夏の日に----。

 ----この木は十五メートル、いやもっとあるかもしれねえぞ。 
 ----だ、大丈夫だったかお前!
 ----お前といっしょにいたら、命が幾つあってもたりねえ。
 ----幾つあってもたりねえ。
 僕が殺した。
 いや、そうじゃない。
 違う。
 ----俺の名はホワイトファング。この白シャツが目印だ。
 ----寅太。あの娘はずいぶんと無理して食いもんを調達してきたんじゃねえのか。
 僕は君に気づかせられたことがいっぱいあった。
 ----いいからお前枕元を見てみろ。な、ちょっとすげえだろ。
 ----お前には散々世話になってるから。いいってことよ。
 世話になっていたのは僕のほうだった。
 ホワイトファングは僕のことをまるで兄弟のように優しく接してくれた。
 兄ちゃんが僕にそうしてくれたみたいに。
 ----俺とお前の公園だから、ホワイト寅公園、いやちょっと語呂が悪りィ。
 ----白寅公園なんてのはどうだい?
 白寅公園。
 僕とホワイトファングの公園だ。
 でも、ホワイトファング----。
 君がいなくなったら。
 君がいなかったら。
 ただの寅公園になっちゃうじゃないか----。

 僕の目から後から後から涙があふれこぼれ落ちてくる。
 僕は----ホワイトファングが大好きだ。
 大好きだったよ。
 兄ちゃん----兄ちゃんにどうしても会わせたかった----。
 ホワイトファング。
 ホワイトファング----。
 兄ちゃん。
 にぃちゃあああーん----。

 僕は涙が渇れるまで泣いた。
 泣いて泣いて、泣き疲れるまで泣いた。

 気がつくと僕は眠っていて、夜もだいぶ遅い時間になっていた。
 僕の隣ではホワイトファングが眠っている。
 けれど彼はもう決して起きることはない。
 二度と僕に話しかけることも、冗談をいいあうこともない。
 彼は眠っている----。
 僕はホワイトファングの冷たく固まった手をとり、ぎゅっと握った。
 今日でお別れだね。ホワイトファング----。
 そして朝になったら君を素敵な場所に葬ろうと思う。
 そう。僕といっしょにあの夏の日、登った高い木の下----。
 あそこならホワイトファングも大喜びに決まってる。
 どうせ僕らに身よりなんていないんだ。
 誰にも知られずにそっと埋めてあげる。
 他の誰にも知らせるもんか。
 大人に知らせたら、僕は施設か孤児院送りだ。
 何より、ホワイトファングがどこだかもわからない見知らぬ場所に埋められてしまうことが耐えられなかった。
 僕はそうっと彼の前髪を撫でる。
 彼の顔が滲んで歪んだ。

 この公園では朝方に人なんて来やしない。
 うんと早い時間に、太陽が昇る前から始めよう。
 だけど---だけどそれまでの間はこうして二人でいようね。
 いっしょに話そう。
 君が疲れているなら、僕だけ話すから。
 そしていつものように、またいっしょに眠ってしまおう。

 これが僕とホワイトファングの最期の夜だった。

 僕は朝までほとんど眠ることができなかった。
 でも、少しだけ眠ったのだろうか。
 わからない。
 だけど----。
 夜はあんなに神聖だったにも関わらず、太陽はまるで何事もなかったかのように昇っていく。
 いつもと何ら変わりないその陽射しに、僕はとても恐ろしい感覚を抱いた。
 鳥もいつもと変わりなく鳴いている。
 その清々しい朝に吐き気を覚えた。
 僕は完全に陽が昇ってしまわないうちにホワイトファングを埋めてあげたかった。
 いつもはあんなに堂々として体も大きく見えたホワイトファングが、少し丸くなった体勢のせいか小さく見える。
 僕と背丈は変わらないか、僕よりも小さいように感じられてひどく悲しかった。
 僕はホワイトファングを背負い、二人でいっしょに登った大きな木のもとへと向かった。
 僕の歩調にあわせ、ホワイトファングが肩で小さくゆれていた。
 それはまるで彼がまだ生きているように感じられて僕にはたまらなかった。

 昨夜の雨のおかげで地面はとても柔らかくなっていて最初はとても掘りやすかった。けれど深く掘るにつれてジャリや大きな石コロにぶつかった。
 それでも僕は無心に掘り続けた。
 時々涙がじわりと込みあげてきたが、それをこらえた。
 これからどうやって生きていけばいいのだろうか。悲しみと不安が同時に僕を襲った。
 陽は昇り、すっかり朝になるとかなりの深さまで掘ることができた。
 僕は穴の深さに満足し、ホワイトファングをそうっと抱えながら慎重にその中へと入れた。
 もうこれでお別れなのだと思うと本当にやりきれなかった。
 僕を受け入れ、とても良くしてくれたホワイトファング----。
 この公園で生活ができたのは彼がいてこそだった。

「ありがとう。ホワイトファング----」

 彼は幸せだったのだろうか。
 彼の昔のことについて彼と話すことは叶わなかった。
 おそらく彼の過去は話すこともできないようなものだったのだろう。それはいつか彼と喧嘩してしまったあの夏の日の件のことから僕にはわかっていた。
 そして彼はこの公園にやってきた悪霊----ブラックシャークとの戦いで命を落とした。
 彼は幸せだったのだろうか。
 僕にはわからない。
 ただ僕にわかっていたことは、彼はいつどんな時でも活き活きとしていて、生きたいように、やりたいように自分の人生を生きてきたことだ。
 だから僕が考えるに、彼は決して後悔はしていなかったと思う。
 後悔することなく生きることができたとしたら、それこそが幸せなことなんじゃないかと僕は思う。
 そうなら、彼はきっと幸せだったに違いない。
 僕は胸が痛くなった。
 それはきっと彼にしかわからないことだろう。
 けれど僕は思う。
 ----ホワイトファングは生きたいように生きたんだ。
 それだけは間違いない。
 だからきっと彼にとっては幸せな生涯だったに違いない。
 貧しくても、身よりがなくても、美味しいものをめったに食べられなくても、綺麗な服が着られなくても、きっと楽しかったに違いない。
 僕は祈りを込めた。
 ホワイトファングの顔は安らかだった。
 天国にいったら、美味しいものをたくさん食べて幸せに過ごせますように。
 そう神様にお祈りをした。

 そして僕は彼の体に砂をかけた。
         
          *

 その日から幾日が過ぎたのか、僕にはわからない。
 僕はただずっと我が家で眠っていた。
 寝ても寝ても眠気はいっこうにおさまってくれなかった。
 何日もの間、食事もとっていなかった。食欲が全然湧かなかったのだ。 
 気がつくと寝て、怖い夢を見ては飛び起きて----また眠った。
 そんな日々の繰り返しだった。
 我が家の中に入る光の加減で、昼なのか夜なのかが何となくわかった。
 秋もだいぶ深まってきており、寒さが身にしみてきた。

 ある日のこと。
 久しぶりにみいが我が家を訪ねに来てくれた。
 僕にとってはあのブラックシャークとの決戦以来、ずいぶんと時が経っているように感じられた。
 みいの顔を見て、とてもなつかしいような気持ちになった。
 心配そうにみいが僕の顔を見つめている。
「あらあら、とらちゃんってば。あたし以上に元気がないのねぇ」
「なかなか来られなくってごめんなさい。お腹空かしてたでしょう」みいはそういうといつもの綺麗な包みを僕に渡してくれた。
 その包みを見ながら、僕はホワイトファングに食べさせてあげられたらどんなに良かったろうと強く思った。
「今日は白ちゃんはどうしたのかしら。いないのねぇ」
 白ちゃん----。白ちゃんとはホワイトファングのことだろう。
 僕は自分の名前もホワイトファングの名前も遠からず当ててしまうみいに対して何か神がかり的なものを感じた。
 ホワイトファングはもう死んでしまったのだと教えてあげたかったが、僕は口を開く元気がなかった。
 そして気がつくとまた眠ってしまっていて、起きた時にはもうみいはいなくなっていた。
 僕の枕元に綺麗な包み紙が置いてあった。
 それを見つめながら、また深い眠りの中へと落ちていった。

 それからまた幾日が過ぎただろう。わからない。
 だが気がつくと僕は次第に食欲を取り戻しつつあった。
 僕はみいが置いていってくれた包みの中身を食べながら、ホワイトファングが死んでしまったというのに自分はお腹が空いてきてしまうことに妙に悲しくなった。
 久しぶりに食べたご飯はとても美味しかったが、喉の辺りに引っかかるような違和感を感じて少ししか食べることができなかった。
 今までは起きたら隣にホワイトファングがいてくれたが、今はもういない。僕は我が家の中で一人ぼっちになってしまった。
 ご飯が半分になってしまってもいいからそばにいて欲しかった。
 僕は本来ホワイトファングがいるべき場所を見つめ、僕と最期に言葉を交わしたあの夜のことを思いだしていた。
 彼は、又吉の兄貴を捜せ。奴はすべて知っている----と妙なことをいい残して死んでしまった。
 ----どういうことなのだろう。いったいその又吉が何を知っているというのだろう。
 ホワイトファングは僕に最期に何を伝えたかったのだろうか。
 僕は急にその言葉の意味が気になりだし、何かそれを知る手掛かりはないものかと考えをめぐらせた。
 又吉を捜すにも、漠然としていて当てがない。
 これまで一度も会ったことがないのだからそう簡単には見つからないだろうし、この寒い中を捜し歩くのはかなり気が引けた。
 だとしたら他に何か方法はないものだろうか。
 ホワイトファングに連れられて一度だけ会ったことがある----生地蔵御老なら何かわけを知っているかもしれない。ホワイトファングは御老は何でも知っていると以前に教えてくれていた。
 僕は生地蔵御老の家の訪ねてみることにした。
 僕はみいからもらったご飯の残りを丁寧に包むと枕元に戻し、その脚で生地蔵御老の住む丘へと向かっていった。

 我が家から御老の住む丘はそう遠くない。歩いて十分程度だろうか。
 そう遠くはないのだが、急な斜面の丘を登らないといけない。
 御老はその丘の小さな山の頂の巨木の根元----穴蔵に住んでいるのだ。
 この辺りになると木がたくさん生い茂っていて薄暗い。寒さもずっと身にしみる。
 丘は傾斜がきつい上に枯れ葉や木の枝がたくさん落ちていてとても歩きにくかった。

 ほとんど陽が射さないために地面はどことなくぬかるんでいた。
 と、その時、僕の鼻を異様な感覚が襲ってきた。
 僕は御老の住む丘を登りながら、妙な異臭がすることに気づかされた。

生地蔵御老の住む丘、穴蔵へ

    何だ。この臭い----。

 その臭いは御老の住む山の頂に近づくにつれ、どんどんと増していった。
 僕は何かいい知れぬ不安を抱えたまま歩を進めた。
 湿った枯れ葉が脚にまとわりついてひどく重く感じる。
 ようやく御老の住む穴蔵にたどり着くと、僕はそれに向かって丁寧に挨さつをした。
「生地蔵様。お久しぶりです。あの、寅太です」
 異臭はすでにとても耐えられないものになっていて、僕の鼻は曲がりそうになっていた。
 だけど。
 ----何か、おかしい。
 寝ているのだろうか。こんな悪臭の中で?
「御老。生地蔵様!」
 何か食べ物を腐らせてしまったようなその臭いに負けじと、僕はもう一度御老を呼んでみた。
 だが、何の返答もない。
 僕の不安はますます強くなり、急いで御老の家----穴蔵を覗いた。
 するとその穴の中から大きな鴉が二羽凄まじい勢いで僕のほうへと飛んできた。
「むあああぁー!」
 僕はすっかり怖くなってしまって声にもならない声をあげた。
 だが鴉は僕に襲ってきたのではなかった。
 そのまま何事もなかったように遠くへと飛んでいってしまった。
 胸を撫でおろす間もなく僕の視界に入ってきたもの----。

 ----それは、朽ち果てた御老の無残な姿だった。

「い、生地蔵様!」
 僕は腰を抜かしてその場に倒れ込むと、あまりの惨状に思わず目を覆った。
 生地蔵御老はもうとっくに死んでしまっていて、その死体を無残にも鴉が食べていたのだ。
 う、うええぇぇ!
 僕はほとんど何も入っていない胃の中から何かをもどした、のだと思う。
 生地蔵御老が、こんな無残な死に方をしていたなんて。

 いったいなぜ----。

 これが僕ら浮浪者のたどる行く末か。
 僕らホームレスは、こんな悲惨な死を遂げなければならないのか----。
 鼻をつく悪臭と、鴉の羽根。死体。
 僕はもう耐えられなかった。
 すぐにでもその場を去ってしまいたい気持ちを必死にこらえ、僕は御老の遺体を急いで枯れ葉で隠した。
 こんな姿は誰にも見せてはいけない。
 誰も見てはならない。
 そう強く感じだ。
 もうじき冬になるというのに、僕の体からは変な汗が出てきては止まらなかった。
 ----悔しい。
 僕らホームレスに生きる資格はないのか。
 これがホームレスの実態なのか。
 未来はないのか。
 なぜこんなことが起きなくてはならないんだ。
 僕には理解できなかった。
 もう嫌だ。
 嫌だ!
 嫌だ嫌だ嫌だ!!
 兄ちゃん。
 ----兄ちゃん。助けて。

 僕は急いで丘を駆け下り、叫びながらその場を去った。

 僕はすっかり混乱していた。
 ホワイトファングは又吉の兄貴を捜せといって息絶えた。
 生地蔵御老は以前に----森の奥には決して行くな。陰の男にじゅうぶん気をつけろといっていた。僕の記憶が正しければだが----。
 陰の男のことを僕はブラックシャークだと思って疑ったことはなかったが、そうじゃないのかもしれない。なぜならばブラックシャークは巨大池の住人だとわかりきっているからだ。この公園とはほとんど関係がない。
 だとすると、御老が以前にいっていた陰の男とは誰のことなのか。
 それが又吉なのだろうか。
 やはり又吉は森の奥深くに住んでいるのか。
 ----又吉の兄貴を捜すんだ。奴はすべてを知っている。
 ホワイトファング、又吉は何を知っているというんだ。
 僕らホームレス、浮浪者の行く末なのか。
 又吉はどこだ。
 どこにいるんだ。
「又吉ーー!」僕は叫んだ。
 叫びながら森の奥へと進んでいった。
 けれど、捜しても捜しても又吉どころか誰も現れない。
 人の気配も生き物の気配もまるでなかった。

 風がびゅうと大きく吹いた。
 僕の呼吸が荒くなる。
 頭には激しい痛みがつき刺さる。
 僕は急に凄まじい寒気と吐き気を覚えた。
 そして目の前の景色がどんどん歪んでいく。
 僕は平衡感覚を失くし、その場に倒れ込む。
 視界に微かに入ってくるもの----白いもの。
 又吉はどこだ。どこにいる。
 体の至るところに冷たい感覚が走る。
 ----白いもの。  
 雪だ!!

 それは雪だった。
 空からゴミのように降ってくるそれは、今の僕にはまるで天使のように見えた。

 この汚い世界をすべて埋めつくしてしまえ。
 白く、白く。真っ白に埋めつくせ!
 世界を真っ白に----。

 白寅公園に、本格的な冬がやってきた。


   第四章    冬

 雪は公園を真っ白な姿に変えていく。
 大粒の雪が僕の体に降りそそぐ。
 僕はこのまま死んでしまうのだろうか----。
 寒いのか温かいのかわからない。僕の体は熱を持っていた。
 けれど感覚がおぼつかない。
 熱があるのに寒くて仕方がない。
 僕の体は震えが止まらなかった。
 このまま眠ってしまえばホワイトファングに会えるかもしれない。
 それも悪くないと思った。
 けれどそうしたらもう二度と兄ちゃんには会えないんだと思った。
 兄ちゃんが僕を見つけてくれないかな。
 僕は帰りたくても自分の家がどこにあるのかさえもうわからなかった。
 そしてあの家に帰ったとしても----誰にも会えないのだ。
 僕にはそれがわかっていた。
 兄ちゃんの顔が頭をよぎる。
 それにホワイトファングの顔が重なって妙な感じだ。
 遠くで誰かが呼んでいる。
 兄ちゃんかな。
 兄ちゃんだといいのに。
 でも違う。
 やっぱり違う。
 ほら、僕の知らない人だ。
 ----あなたは。
「お前ェ。こんなとこで横になってると死んじまうぜ」
「あなたは----」
 ----誰。
 僕はもうろうとした意識の中でその青年に答えていた。

                 
 それから僕はまる三日ほど寝込んでいたのだという。
「気がついたか?」
 その青年は僕に問いかけた。
「なに、心配するこたァねえ。ここァ俺の家だ。家っつっても粗末なもんだがな」
 僕は周囲をぐるりと見まわすと、壁も天井もなくただ木の枝や葉で覆われている小さな囲いの中にいることに気がついた。
 そして囲いの外では雪がしんしんと降りそそいでいた。
「もう少しでお前ェは命を落とすとこだったんだぜ」その青年は乱暴な口調で僕に語った。その話し言葉はどこかホワイトファングの口調と似ていた。けれどそれよりももっと激しい感じがした。ホワイトファングと比べてはっきりと違う点は、その青年はあくまでも見かけは、青年----だったのだ。
 外はまるで吹雪といった感じで、森の中はどこもかしこも真っ白になっていた。
「ところでお前ェ、俺を捜してたみてえじゃねえか。寅太クンよ」
 あ、あなたは----?
「俺の名は又吉だ。あちこちで俺の名前を聞いたかい?」
 その青年----又吉はそういうと軽く微笑んだ。口が悪いせいかかなりの威圧感を感じる。
「どうして僕の名を----」
「確かに僕はあなたを捜していました。ホワイトファングのいっていた、その----又吉さんは世界のすべてを知っている人だと----」ホワイトファングはそんな風にはいわなかったが、当たらず遠からずな気がしたのでそのまま会話を続けることにした。
「ふむ----そうか。だがな。俺ァ何もかもこの世のことを全部知ってるってわけじゃあもちろんねえ。だがお前ェの名を知ることくれえそりゃア簡単なことだったぜ。情報なんつうもんはそこらじゅうに落ちてるんだからな」
 又吉は相変わらず乱暴な口振りで淡々と語っている。
 だがどこか不思議な魅力を持った青年----。青年というには歳がいっている気がするが、大人というにはまだ若い気がした。
 又吉の語り口調は明らかに乱暴で攻撃的なのに、どこかとても澄んだ透明な雰囲気を持っているように僕には思えた。
「なに、池のほとりに住む女に聞いたまでのことよ」
 そういうと又吉は声をあげて笑った。
「----情報?」
 僕は普段まったく考えないこと、そしてその言葉になぜか強く反応した。
「そう、情報よ。情報っつうもんはすべての輪郭を整えてくれるもんだ。例えば俺ァお前ェがどんな人間でどんな野郎なのか。どんな暮らしをしてんのか。もしかしたらお前ェ自身よりも細かく知ってんのかもしれねえってこと」
 そして又吉はこうつけ加えた。
「だがお前ェが本当に人間かアそりゃ疑わしいもんだがな」
 又吉は何をいっているのか----。
「ど、どういう意味ですか!」
 僕には何のことだか話の内容がさっぱりつかめなかった。だがこころの中に大きな不安がのしかかっていたことは確かだった。
 又吉の話口調はホワイトファングと凄く似ていたが、話している内容はどこか不思議と知性が感じられ、そのギャップに僕はかなり混乱させられていた。
 そして又吉はまた淡々とその乱暴な言葉を僕に投げかけてくる。
「お前ェは自分のことを普通の人間だと思ってんのかもしれねえが、その実は本当は猿かもしれねえ。いやァ鴉なのかもしれねえ。例えどこの誰と親しく話してたっつってもそりゃアお前ェの中の記憶でしかねえかもしれねえ。お前ェはただの空気で相手ァ独り言をいってただけかもしれねえ」
 僕は又吉の話の意味がつかめなかった。彼が何をいっているのか僕には半分も理解できていなかったのだ。そんな僕に構わず彼は話を進めていった。
「存在っつうもんはよ。それくれェ儚くて不確かなもんだろうよ。違うか?」
「だいたいお前ェは人間らしい暮らしをしてきたのか? そうじゃアねえだろうよ」
 ----確かに、そうではなかった。
「よくわかりません。でもいくら僕でも自分が人間だということくらいは知っています」
 僕はわからないなりに、わかることにだけに口をはさんだ。
「そうかい。それじゃアお前ェは人間だっつうことにするか。だがな。そらアお前ェがそう思ってるってだけで、本当はお前ェしか知らねえ事実なのかもしれねえぜ」
「僕しか知らない事実----!」
「そうよ。お前ェしか知らねえ事実よ。そらアお前ェの中だけでの事実って風にも言い換えられるんだぜ」
「----人間にゃァ二百四十の骨があるっつうことだがお前ェはそれより四つほど多いのかもしれねえ。そんな風に考えたこたアねえか?」
 僕は又吉の話を聞いていて、何だかこころの奥底が凍りついていくような恐怖を覚えた。
「な、何がいいたい」
 精一杯の抵抗だった。僕は言葉を失くしていた。
「お前ェが知りたかったことっつうのはそういうことじゃアねえのかい? そのお前ェの事実とこの世の現実が同じだっつうことにはならねえだろう。お前ェの友達もまだ生きてるのかもしれねえし、もともとそんな友達ァどこにもいなくてお前ェの頭ん中の幻想が作りあげた虚像なのかもしれねえ」
「ほ、ホワイトファングはいた。いたに決まってるじゃないか!」
「そして、死んでしまったんだ----」
「そう。ホワイトファングは確かにいたんだろうよ。そしてお前ェのいう通り奴ァ死んじまった。だが己に自己なんつうもんがある以上、世界に確かなこたァねえのもまた現実だろ。わかるか?」
 ホワイトファングはいた。いたに決まっている----。
「ホワイトファングは以前あなたと会って話をしてるんじゃないんですか? だったら彼はいたに決まってるじゃないですか」僕はホワイトファングの口ぶりを思いだし、それを推測で話した。
「確かに俺ァ奴と話したよ。だがそれも昔の話よ。互いが忘れちまえば、そのことを誰も知らなけりゃア----その事実もそのうちぱァっと消えちまうもんだろうよ」
 --------。
「寅太クン、いいかい? 一つだけヒントをやるぜ」
「自分が何ものなのか、それを知りたきゃアそらァ外から自分を見ることだけだろう」
「そ、外から」
 外から自分を見る----。
「そうよ。ホワイトファングがいたっつう現実は外から見て初めてわかった事実じゃねえか。俺とお前ェが外から見て初めて奴ァ現実にいたことがはっきりできたんだぜ」
「お前ェの思い込みはそうとう強えみてえだから、一つだけ教えといてやる」
「俺ァ、人間じゃアないんだぜ」

 僕の心臓は激しく波うっていた。
「ど、どういうことです! 又吉さん----」
 これ以上の不安はそうあるものではない。
 僕は又吉の世界観にどっぷりとひたってしまいそこから抜けだすことができなくなっていた。
 そして最後に彼はこう締めくくった。

「寅太クン。お前ェは本当の自分の年齢って奴を知ってるかい?」
 
 ----僕は絶句した。
 頭が真っ白になった。
 それはこの公園では僕しか知らない事実----うちの特殊な家庭環境----によるものだったからだ。
 僕はそういう家庭で育ち、自分の年齢がいったい何歳であるのかを知らされていなかった。学校にも通うことなく過ごしてきた。そしてそのことを誰かに話したことは一度もなかったのだ。
 僕が覚えていることといえば、僕の家族のこと。
 そしてこの公園でのこと----。
 僕はこれまで親戚に会ったこともなければ同年代の友達がいたことも一度もなかった。 
 そう、ホワイトファングに出会うまでは----。

「そのうちお前ェにもわかる日が来るだろうよ」
 又吉はそういうと、また軽く微笑んだ。
 その笑みはまるで悪魔のように僕には映った。
 そしてそのことについて僕が幾ら答えを求めても、彼は何も教えようとはしてくれなかった。
 ----この場所にはいられない。

 僕は命を助けてもらったことに関して礼をいい、我が家へと帰ることにした。
 ここにいては体よりもこころがもちそうになかったからだ。
 又吉は一言、体ァ大事にすんだぜと僕に告げた。

         *
   
 雪は相変わらずその勢いをたもったまま降りそそいでいた。
 けれど風がおさまってきていたので、吹雪という感じではなくなっていた。
 かなり積もっていて歩きにくかったが、僕は一刻も早く又吉の家から離れたかったのだ。
 体じゅうが震えるように寒かった。実際僕は震えて凍えていた。手や脚、耳は寒いというよりもむしろ痛かった。
 しんしんと空から落ちてくるそれは、僕の体からたくさんの熱を奪っていった。
 生地蔵御老の住んでいた丘を通り過ぎた辺りで僕はひどいめまいに襲われた。
 このところ体調が良くなく、急に頭が痛くなったりお腹が痛くなったり、食べ物を食べても吐いてしまうことが多くなっていた。
 
 帰宅した僕を待っていたのは----。
 ----毛布!
 そしてたくさんの食糧だった。
 我が家の中にはとても温かそうなふっくらとした毛布がしいてあり、枕元には僕が残しておいたご飯の他にたくさんの食糧が増えてそこを彩っていた。
 僕の体は冷えきっていた。
 僕は急いで毛布にくるまると、その中で丸くなった。
 この毛布とたくさんの食糧はいったいどこからやってきたのだろうか。
 ----神様が与えてくれたのだろうか。
 ----兄ちゃんなのか。
 僕は兄ちゃんに会いたくて仕方がなかった。
 僕が家族に棄てられ、ダンボールの中で過ごしていた日々。あの時もそう----こんな風にダンボールの中に温かい毛布とたくさんの食糧が置かれていたのだ。けれどよく見るとその食糧は、フライドポテトでもソーセージでも缶詰でもなかった。
 あの美味しかったクッキー。
 そう。これはいつもみいが僕に持ってきてくれるあの素敵なクッキーだった。
 ----僕はようやく理解した。
 僕が我が家を空けていた幾日かの間にみいがここを訪れてくれて、毛布や食糧を置いていってくれたに違いない。十中八九間違いないと思った。僕はみいに感謝した。
 それでも僕はあの時----家族に棄てられた時に兄ちゃんがそうしてくれたことが頭から離れず、毛布や食糧を持ってきてくれたのが兄ちゃんだったらどんなに良かっただろうと思った。そしてそんな風に考えてしまう自分が嫌になった。
 僕はみいに対してひどく罰当たりで、そのことをとても申しわけなく感じた。
 みいが持ってきてくれたであろう毛布のおかげで、僕の冷えた体はすぐに温まっていった。
 僕はあまり食欲がなかったので、そのまま何も食べずに眠ってしまった。

  
 翌朝目を覚ますと雪はすっかりやんでいて、外は陽が射していた。
 空気はとても澄んでいて清々しく感じられた。
 ずいぶんとたくさん眠った気がしたのだが、なかなか疲れが取れてくれない。
 体はだるいままで、お腹の辺りに妙な鈍い痛みが感じられた。
 けれど気分は悪くなかった。やはり我が家が一番だと思った。ただ、今僕はここに一人で暮らしている。ホワイトファングはもういない。そのことがとても寂しく感じられた。
 僕はこのところほとんど何も食べていなかったので、これではさすがに体がもたないと思い、食欲はなかったのだがご飯を食べることにした。けれど案の定、食べたものは皆吐いてしまった。せっかくみいが持ってきてくれた毛布も汚してしまった。
 お腹の痛みはひどくなる一方で、体じゅうが熱を持っていた。
 僕はこうなるといつも、このまま自分が死んでしまうのではないかと不安に襲われる。僕の悪い癖だ。けれど幾ら食べようとしても体が受けつけない。 すぐに戻してしまう。だから僕は今度こそ本当に死んでしまうのかもしれないと思った。
 僕は又吉が話していたことを思いだしていた。
 彼は自分のことを人間ではないといっていた。僕には幾ら考えてもその意味がつかめなかった。
 又吉は究極の人間不信に陥っているのだろうか。自分を人間だと認めたくないということなのか。これはいったいどういうことなのだろう。僕は考えをめぐらせた。
 彼は過去に犯罪でも犯して、そのせいであんな森の奥に身を隠して暮らしているのだろうか。
 又吉はとても謎の多い人物だった。けれど彼は僕を助けてくれた。犯罪を犯すような悪い人間が人助けをするものだろうか。いや、又吉があのブラックシャークのような悪人だったとしたら僕を助けてくれるはずはないと思った。
 だとしたら彼は過去に何かしらの過ちを犯して自らの罪を悔いているのかもしれない。自分の存在を否定しているのかもしれない。そして彼はおそらく人間が大嫌いなのであろう。
 僕はわからないなりに自分の中で又吉という人物を理解しようと努めた。なぜなら彼は一応僕の命の恩人だったからである。
 そしてそれ以外のわからないことに関しては----僕は考えることをせずに逃げてしまった。

 僕の体の調子は日に日に悪化していった。
 熱がどれくらいあるのかわからなかったが、かなりの高熱が出ていたのだと思う。瞬きをするといちいち目の中がぼうっと熱くなるので僕はずっと目を閉じていることにした。いや、目を開けていることさえ苦痛だったのである。そしてお腹の痛みはどんどんとその激しさを増し鋭くなっていった。
 僕はこのまま自分が死んでしまう夢を何度も見た。そして目を覚ますと、自分がまだ生きていることを高熱やお腹の痛みで感じとった。
 僕はこんなに苦しい思いをするのなら、いっそのこと本当に死んでしまいたいと思った。
 でもまだ死ぬわけにはいかなかった。どうしても一目兄ちゃんに会いたかったからだ。そして僕がこの公園でホワイトファングと体験したことや、みいのこと。ネジのおじさん、生地蔵御老や御銀、ブラックシャークとの死闘や又吉のこと----。兄ちゃんに報告したいことが山ほどあった。
 だから僕は踏ん張る。死んでなるものかと思った。
 僕はご飯を食べて栄養をとってまた元気になろうと決意した。そしてみいが置いていってくれたご飯を無理やり食べてはまた吐いた。

 お腹に激痛が走る。
 込みあげてくる。
 やはり僕はだめなのか。
 僕は大量の血を吐いた。
 苦い。
 それは何ともいえない感覚で。
 生温かかった。
 みいの持ってきてくれた毛布が、紅くその姿を変えた。
 ----兄ちゃん。苦しい。
 目の前が白くなり意識が遠のいていく。
  
 ----神様。
 ----どうか。
 ----もし神様がいるのなら。
 ----このまま死んでしまうのなら。
 ----最期に一目、兄ちゃんに会わせてください。

 そして目の前がすうっと暗くなっていった。 

          *

 再び意識が戻ると、僕は見慣れぬ景色の中にいた。
 ここはもはや我が家ではなく、そう。しいていえば僕が昔住んでいた家の中に似ていた。
 ----家の中。
 ----ここはどこなのだろう。
 けれど同じ家の中といっても僕が住んでいた家とはだいぶ違う。豪華なのである。
 僕が兄ちゃんや母ちゃん達と暮らしていた家はとても古くて、壁もところどころはがれ落ちていて----だけどいい換えるとそれはいい意味で生活観があってとても住み心地が良いものだった。例えていうと、少しばかり家の中を汚してしまったとしてもほとんど目立たないであろう安心感がそこにはあった。
 そして今僕がいるこの場所は----。
 ----どこ?
 ここは同じ家の中といってもだいぶ種類の違うもので、とても綺麗であり、生活観はほとんどなく整理整頓もいき届いていた。壁も天井も電燈も家具もすべてが真新しくて、何ともいえない質感がその清潔な香りを放っていた。
 僕は自分の身に起こったことを考えるだけのこころのゆとりがなく、漠然とこの部屋の景色を眺めていた。
 けれどここが天国ではないことくらいはすぐにわかった。どう見てもそれは現実的で、裕福そうな家の部屋の中に違いないのである。

 冬だというのに少しも寒くない。
 僕は小さなベッドの温かい綺麗な毛布の中にいた。
 床は見えなかった。けれど床もきっととても綺麗で豪華なのだろうと思った。
 そして僕の隣にはもう一つベッドがあった。それは僕の寝ているベッドよりかなり大きい。
 そこにみいが寝ていた。
 ----みい!
 僕はびっくり仰天した。
 隣りあわせでみいといっしょに、この豪華な部屋の中で寝ていたのである。
 僕のぼうっとした意識は急にはっきりと覚醒した。
 僕はまた考えをめぐらせていた。この頃はわからないことだらけである。
 みいはこれまで何度も僕を助けてくれた。今度もおそらくみいが助けてくれたのだろう。それはもはや疑いようがなかった。
 ----ここはみいの家なのだろう。そうに違いない。
 みいは僕が白寅公園で暮らすようになってからというもの、いつも美味しいご飯を用意してくれていた。それはホームレスの僕らにとっては考えられないほどありがたいものだった。
 もっとも最近はほとんどみいの姿を目にしていなかったのだが----。
 みいはいつの日か、あの台風の日でさえ僕にご飯を持ってきてくれていた。それなのにこのところほとんどみいの姿を目にしていなかった。だから僕は僕なりに頭の隅でみいのことを心配していた。けれどみいは僕と違って、この裕福な家で身の危険や餓えなどとは無縁の生活をして暮らしている。だとしたらみいはなぜ白寅公園に来なくなってしまったのか。僕はそのことが少しだけ気になっていた。

 ----その時だった。
 突然ドアの開くような音がして一瞬にして僕は現実に引き戻された。
 中年の小綺麗な女性が部屋の中へ入ってくる。
 この人は----。
 前に一度だけ話をしたことがある。
 それは、みいのお母さんだった。
 僕はここにいてはいけないような気分になって思わず毛布の中に顔を埋めた。今さら隠れても仕方がなかったのだが。
「あんた。まだ寝てるのね?」
 みいのお母さんは少しだけいたずらっぽい声でみいに話しかけた。みいのお母さんはみいのことを、あんた----と呼ぶのだ。
 そして僕のことは----。  
「起きなくていいのかしら? 黄色ちゃんが隣にいるのにねえ」
 そう。僕は----黄色ちゃんと呼ばれていたのだ。
 みいのお母さんはそっとみいの肩をゆすると----といっても僕は布団の中にもぐってしまっていたからこれは想像なのだが----みいを起こした。
 みいはやや眠そうな声をあげながら、母さん。もう少し寝させてといった。
「起きなさい。あんたの隣には黄色ちゃんが」みいのお母さんがそういうと、みいは僕の存在にすぐに気がついたらしく、急に飛び起きて元気な張りのある声をあげた。
「とらちゃん。どこにいたの! どうしてここにいるの?」みいの瞳はまん丸に大きく見開かれた。
 僕は毛布の中から少しだけ顔を出し、その瞳にウィンクをして挨さつをした。
「母さん! どうして。ねえどうしてとらちゃんがここにいるの?」みいはまだ信じられないといった表情で、今度はお母さんに問うた。
「あんたねぇ。あんたが学校にもいかずに寝てばかりいるからじゃないの」お母さんは呆れたような声でそういった。
 ----僕は気がついた。
 ということは、みいは僕がここにいることを知らなかったことになる。
 じゃあ僕をここに連れてきたのは----。
 「元気を出しなさい。もう学校では運動会のことなんか遠い昔よ。決まってるじゃないの」
 僕をここに連れてきたのはみいのお母さん----なのだろうか。 
 みいはあの件----運動会のリレーで転倒して以来ずっといじめにあっていたのだろうか。みいはクラスの皆からまったく話しをしてもらえなくなったといっていたように思う。それがずっと続いていたのだろうか。それでみいは深く傷ついてしまったのか。
 何にしても学校とはそうとうやっかいで危険なところなのだと感じた。みいのような明るい女の子でさえこうなってしまうのなら、僕などは最初から誰一人口をきいてはもらえないだろうと思った。
 僕は学校へ通わせてくれなかった両親に対して少しだけ感謝をした。
 みいはお母さんの励ましの言葉を聞くと、急に何かを思いだしたようにうつむいて元気を失くした。
「母さん。あたしやっぱりあそこにはいけない。勉強なら通信でもできるっていってたでしょう?」みいは暗い顔をあげてお母さんにいった。
 みいのお母さんは少し考えて黙り込むと、その後----そうはいってもやっぱりねえなどといった。
「学校でなくちゃ学べないこともあるのよ。まァ、あんたがもう少し元気になったらまた考えましょうね」
 お母さんの言葉にみいは顔を背けた。
 学校でなければ学べないこと----。
 僕にはそれが何なのか見当もつかなかったけれど、ほとんどすべてのこどもたちは学校にいっているので、勉強以外のことで何かしら学べることがあるのだろうと想像した。
「せっかく黄色ちゃんを連れてきてあげたんだから、早く元気出しなさいね」
 お母さんはこの話をそういって結んだ。 
 ----やはり僕をここに連れてきてくれたのはみいのお母さんだった。
 おおかたの謎が解けると僕はようやく安心することができた。
 みいのお母さんが僕をここに連れてきてくれたのならば、逃げも隠れもする必要はない。僕は堂々とこうしてここに寝ていて構わないのだ。
 その安心感といっしょに僕のもとにやってきたのはひどいめまいと吐き気だった。
 体じゅうがまた急に熱くなった。
 天井がぐるぐるとまわったかと思うと胃の中から急に何かが込みあげてきて、そしてまた僕は吐いた。
 もはやお腹の中には何も入っていないのだから、吐くものとしたら胃液か血ぐらいしかない。
 吐くたびに意識が遠のいていく。
 そしてとても苦いのだ。
 部屋じゅうがぐらぐらと動いてまわっていく。
 ----とらちゃん。どうしたの?
 みいが僕の顔を覗き込む。
 ----まあ。とらちゃん!
 ----母さん。とらちゃんがたいへん。血を吐いちゃった!
 ----だいぶ良くないみたいだわね。
 ----そんな呑気なこといってないでとらちゃんを助けてよ。
 ----電話帳で調べてみましょう。待ってなさいね。
 ----すぐよ。 すぐにお医者さんを呼んで!
 ----とらちゃん。とらちゃん!
 ----とらちゃん!
 
 みいの声がだんだん遠くなっていった。

          *

「気がついた? とらちゃん----」
「ごめんね。近くのお医者さん----。来週の水曜日までずっとお休みなんですって! これってひどくない? ひどいわよね」
 みいが大げさに僕の様子を心配していた。
 そしてさすがの僕も今度ばかりは自分のことが心配になってきた。
「お休みっていったい何考えてるのかしらね。病人にお休みも何もないわよね。だったらお医者さんは休業なんかしてないで交代制で働くべきよ。そうよ! そうに違いないわ。とらちゃんだってそう思うわよね?」
 僕は最近あまりに意識を失うことが多いので、本当に自分はもうじき死んでしまうのかもしれないとその覚悟を決めた。けれどそれは何というか----ぼんやりとした覚悟だった。
 食べ物はまったく受けつけないし吐くものといえば血ばかりで。こんな状態が続いてしまえば、大の大人でさえいずれ近いうちに死んでしまうだろうと思った。そして僕が死んでしまうとしたなら、ここ最近の体調の悪さの理由がすべて辻つまがあって説明できるように感じたのだ。
 僕はいったいこれまでに何回意識を失ったのだろう。そしていつの日かきっと意識が戻らない時がやってきてしまうのだろう。その時僕は天国へいけるだろうか。
 僕はホワイトファングのもとへいきたかった。
 ----神様。
 ----どうか。僕が今まで悪いことをしていたならそれをお許しください。
 ----そして僕が一人ぼっちになってしまわないように、道に迷わずにホワイトファングのところへいけるように導いてください。
 僕はぎゅっと目をつむってお祈りをした。
 その時、みいのお母さんが僕とみいを心配してか、部屋を覘きにきた。
 僕はこの部屋のドアの音が少しだけ苦手だった。気配も感じられないのに急に音がして人が出入りするからだ。そして訪れるのはみいのお母さんと決まっていた。そのせいなのかもしれない。
 ここはみいの部屋なのかな----。
 こどもの部屋にしてはずいぶんと大人っぽくて整理がいき届いている。そのことが僕にはあのお喋りなみいと結びつかなかった。けれどみいはいつも清潔そうな服装をしていたし、もしかしたらみいはとても綺麗好きできちんと掃除をする子なのかもしれないと思った。みいのお喋りと綺麗な部屋----。僕にはこの二つを結びつけて考えることが難しかった。
「片付いてるわね。これで学校にいってくれたら何も文句ないのよ」
 どうやらここはみいの部屋に違いないらしい。
「母さん。他のお医者さんはいないの? どこにもないの? 少しくらい遠くても来てもらえるんじゃないかしら! ねえ今すぐ探してきて」みいが不満そうにお母さんに当たった。
「そんなこといってもねえ。あんた。大丈夫、男の子はそう簡単に死なないのよ」
 そう簡単に死んでしまったらたまらないのである。
「どれ、あんた。黄色ちゃんといっしょにお写真撮ってあげるから、起きなさい」
 みいは、もう、母さんといいながらも僕の隣に肩を並べるとにこりとしてポーズを取った。
 僕も一応笑ってみた。
 ----カシャっと小さな音がした。
「あら。ちょっと可愛く撮れたかもしれないわね。プリントアウトしてきていいかしら」
 本当に呑気なお母さんだと思った。僕は重病人なんだと叫びたくなった。 もちろんそんな元気はなかったのだけれど。
 もう、母さん。お医者さんは! とみいが変わりに叫んでくれた。そしてみいは少し深刻な顔つきでこういった。
「母さん。もしとらちゃんをこのままずっとうちに置いてくれたら、あたし----学校にいっても構わないわよ」
 ----僕はみいの言葉にドキッっとした。 
 みいのお母さんは、私の作戦勝ちかしらねと妙なことをいって笑顔を見せた。みいもいっしょになって笑ったので僕も何となく笑ってみた。その笑みは、お母さんよりもみい、みいよりも僕のほうが引きつっていたに違いない。
「その約束。守ってもらいますからね」
 お母さんは機嫌良さそうに、だが真面目にそういうとカメラを片手にみいの部屋を後にした。

 僕は考えていた。
 たった今起こったことについてである。
 些細な会話の中でいとも簡単に交わされてしまった約束----。そう。僕がこの家に住むことになればみいが学校にいくというこの約束だ。
 正直にいってしまえば、こんなことはあり得ないのである。
 しかしこんな些細な簡単な会話の中で僕はみいの家の養子になることが決まってしまったのである。
 ----養子?
 ----それはきちんとした手続きを踏むのだろうか。
 ----そんなことはあり得ない。
 普通ではあり得なかった。
 いや、養子になるとかそういうことではなくて単に置いてくれるだけなのかもしれなかった。おそらくそのほうが答えとしては正解に近いのだろう。
 どっちにしても僕にはみいのお母さんの言動が理解できなかった。つい釣られてこっちも可笑しな方向へと思考が向かう。けれど誰だって僕の立場に立ってみたならそうなるに違いない。
 僕は再び思考の奥底へともぐっていった。
 いってみれば僕は赤の他人なはずなのである。
 みいと僕は確かに仲良くしていた。
 けれどみいのお母さんとはほとんど話をしたことがなかったのもまた事実なのだ。
 みいのお父さんはどうしているのだろう。そもそもいるのだろうか。
 みいとの会話にも出てきたことはなかったし、今のところ僕がこっちへやってきてからは会ったことがない。
 ----いる気配もまるでない。
 そのことはとりあえず今は置いておこう。
 それにしても----。他人を住まわすという----これはいったいどういうことなのだろうか。
 僕が少しばかり可愛いからみいのお母さんに気に入られて----というのは的はずれな気がするし。
 じゃあ他にどんな理由があるのだろうか。
 そう。もしかしたら。もしかしたらである。
 みいの病気は----実はそうとう良くないものかもしれない。
 みいのお母さんのあの言動はかなりおかしい。
 普通の親ならば娘がずっと学校にもいかずにいたらあんなに呑気にしているはずはないだろう。
 もしかしたら----。
 みいは僕に引けを取らないくらい重病で、命もそう長くはなくて----。
 だからみいのお母さんは学校のことについても、僕を住まわせてくれることについても簡単に許してくれたのではないか。
 あり得ないだろうか? いや、これはあり得るのだと思う。
 そしてみいのお母さんは娘が重病に罹っていることを知られたくないがために、あんな呑気な演技をしているのではないだろうか。
 あり得る。これならばじゅうぶんにあり得るのだ。
 そして娘の最期の願いを聞いてあげる形で僕をこの家に置いてくれることになったのだろう。
 みいのお母さんは、そう。あまりに寛大過ぎるのだ。
 僕は何か大きなパズル----難題を解いているような気分になっていた。実際それは難題だった。
 そしてもしも僕の予想通りにみいが重病----いや難病なのかもしれない----だったとしたら。
 だとしたら僕は、みいのお母さんと同じようにみいに対して温かく接するべきではないか。
 そう。そして気づかれないように普段の僕も交えて演技をしながら----。
 僕は何だか僕よりも重病で難病の可能性が高いみいのことを考えるとひどく悲しく思えてきた。
 ----なぜならば、みいは。
 ----何も知らないからである。
 僕は気がつくと目に涙があふれていた。
 そしてみいに見られてしまったらたいへんだ思い、そうっと涙をふいた。
 これからは今まで以上にみいに対して良くしてあげよう。
 みいはずっと僕に良くしてきてくれたのだから。
 ----僕はそう誓った。
 そして幾日かの間、僕はその決意の通りに行動し、みいはそれをとても喜んでくれた。
 だがその間も僕はまるで食べ物が受けつけなくて、意識こそ何とかたもっていたものの、自分でもそれとわかるくらいに痩せ細ってしまっていた。
 みいのお母さんは僕がかなりお腹が緩いことを察してくれて、僕に布でオムツを作ってくれた。
 僕はこれまで実はずうっと隠してきたのだけれど、いつもひどい下痢でそれは汚かったのである。
 ----どうか、ないしょにしていて欲しい。

          *

 僕は最近、すっかり空想癖がついてしまったらしい。
「ねえとらちゃん。とらちゃんってば?」
「起きてるのかしら」 
 僕はこのところ自分の世界に浸ってしまうことが多いらしく、その時もみいの呼びかけによって現実の世界に呼び戻された。
 みいは上機嫌で僕の横に座ると、起きてるのねといって満面の笑みを見せた。
「とらちゃんいいものを見せてあげるわ」
「可愛く写ってるのよ。あたしじゃなくて特にとらちゃんのほうが!」
 僕は一瞬何のことだか忘れていたのだが、すぐにそれを思いだした。
 先日みいのお母さんが僕とみいを写真に撮ってくれたのだった。
 みいは、これ見たらすぐに元気が出ちゃうわといって僕にそれを手渡してくれた。
 僕が写真を見るのは、兄ちゃんがお姉ちゃんの写真を見せてくれた時以来だったから、何となくドキドキした。
 自分の写真なんて、実は一度も見たことがなかったのである。
 それは僕がいかに両親に可愛がられてこなかったかの証明のようなものだった。
 僕のうちは複雑な家庭の事情があって、僕は僕の兄ちゃんやお姉ちゃんのような当たり前の待遇をいっさい受けてこなかったのである。
 だから僕は写真を撮ってもらったことも自分が写っているものを見たこともなかった。
 みいの手渡してくれた写真には----。 

 そこには一人の少女----これはみいである。
 ----と。その横に、何とも可愛らしい一匹の猫が写っていた。

「とらちゃん。あなた最高に素敵でしょ!」
 みいが僕の頭を軽く撫でた。 
 僕はどこに写っているのだろう。
 どこにも写っていない。
 写っているのは、ただの猫。
 茶寅のシマ模様。
 確かに可愛い。
「あたしね。とらちゃんほど可愛い猫ちゃんって今まで見たことなかったのよ?」
「あなたはこれから、うちの子になるの!」
 
 え----。
 
 僕は----。
 僕は----人間だよ?

 そしてまたドアの開く音。
「母さん! 母さん。とらちゃんったら写真見て固まっちゃってるの。可愛いわあ」
 みいが笑う。
 みいのお母さんも笑う。
「馬鹿ねえ。猫に見せたってわかるわけがないじゃないの」
「母さん。とらちゃんは他の猫ちゃん達とは違うのよ。ちゃんとわかってるんですからね」
「はあ。そうなのかしらね」
「それよりあんた。黄色ちゃんを置いてあげるんだから、この間の約束は必ず守ってもらいますよ!」
 はあいとみいが答える。

 猫。
 僕は---。
 猫だというのか----?

 僕の両手に毛が生える----。
 顔が----。
 体が----。
 耳が----。
 髭が----。

 ぬあああああぁぁぁ----。
 に、兄ちゃん----。

 ----寅太、こんなところにいたのか。
 ダンボール----。
 僕はダンボールの中が大好きだ。 
 ----どうして寅太を連れていけないんだ!
 ----バカ。あんなの連れていけるわけがないだろう。
 ----寅太を置いていくなら俺も残る!
 兄ちゃん。僕は。
 ----そんな聞きわけのないこといわないの。
 ----今のうちの状況を考えたら。
 僕は----。
 ----お前、初めて見るね。
 ----大丈夫、何もしやしない。
 野良に話しかけてた?
 ----お腹空いてるの?
 ----何か持ってきてあげるからちょっと待っててね。
 餌をくれてた?
 ----あんた、初めて見るけどどこから来たの?
 ----名前がないなら、あたしがつけてあげる。
 人に話しかける言葉じゃなかった。
 ----そうね。とらちゃんっていうのはどうかしら。
 僕の服は茶色のシマ模様。茶寅。
 ----俺の名はホワイトファング。この白シャツが目印だ。
 ホワイトファングは!
 池のほとりの御銀、生地蔵御老、ブラックシャーク。ホームレスだった僕らは皆?
 又吉の兄貴は?
 ----あんたこの子にご飯をあげるのもいいけど、お弁当くらいきちんと食べなくちゃいけないわよ。
 僕と彼らは皆猫--------?
 僕はどこから来た?
 ----だいたいお前ェは人間らしい暮らしをしてきたのか? そうじゃアねえだろう。
 そうだった。
 ----お前ェがそう思ってるってだけで、本当はお前ェしか知らねえ事実----。
 もういい。
 ----お前ェは本当の自分の年齢って奴を----。
 本当の年齢----。
 僕はいったい何歳なのだ----。
 もういい。
 もういい。
 たくさんだ!
 ----ごめんな、寅太。
 ----ごめん。

 にぃちゃああああーーん。

 僕のお尻にくびれた短い尻尾が生えた。
 僕は、再び気を失った。

          *

 それから幾日が過ぎたのだろう。
 もう僕に日付の感覚などはなかった。
 そして----。
 僕は再びホワイトファングに会えるなんて考えたこともなかった。
 けれどホワイトファングは帰ってきたのだ。
 
 最初のうちは彼にかなり責められた。
 僕が埋葬したことに関してである。
 死んでもないのに埋めやがったとか、地面に這い出るのにどれだけ苦労したとか、ひでえじゃねえかとこういうのである。
 僕はホワイトファングがまだ生きていたなんて考えたこともなかった。そんなことわかるはずもなかった。
 だから僕は、仕方がないだろうと応戦した。
 ホワイトファングは、冬なんだから朝方体が冷えきってることくれえ当たり前ェだろうと僕にいった。
 僕はとんでもない間違いをしてしまったのか。
 その後はただひたすら彼に謝った。
 ホワイトファングは一通り僕を責めると気がおさまったのか、今度は腹が減ったといいだした。
 僕は、そうだねと答えた。
 雪もやんで、空気が澄んでとても綺麗だった。
 それでも僕は雪が大好きだった。
 ホワイトファングは僕が雪が好きだと聞くと、お前は犬ッコロみてえなことをいうといって笑った。
 それにしても、ホワイトファングが生きていてくれて本当に良かった。
 またいっしょにたくさん遊ぼうと彼にいった。
 ホワイトファングは、お前の体が良くなったらなと返した。
 僕は気がついたらみいの家にいて、自分が猫になってしまったという長い夢の話を彼に話した。
 ホワイトファングは、お前が見そうな夢だ。ああ怖いといった。
 いちいち気に触ることをいうのだ。けれど僕は彼が生きていてくれただけで本当に嬉しかった。少々のことは気にならない。
 僕はもう多くを望まない。
 それにしても----。ああ、お腹が空いたのである。
「寅太。お前は具合が悪ィんだからじっとしてろ。俺が何か探してきてやるからな」
 ホワイトファングは僕のことを察したのか、そういうと元気良く我が家を後にした。
 我が家が急に静かになると、すぐ外でコオロギが鳴いていることに気がついた。
 やけに耳につく。
 うるさい。
 この寒いのにコオロギ?
 僕は痛む体にむちを打って外へ飛びだす。
 僕の反射神経はちょっとしたものだ。
 あっという間にコオロギを捕まえると、それを遠くへと放った。
 いくら虫でも殺すことは好きではなかった。
 そして、また吐く。
 苦くて生温かくて紅いもの。 
 あまりの痛みに、冬だというのに汗をかいた。
 ホワイトファングが急いで駆けてくる。
 僕を見てびっくり仰天している。
 彼が来てくれたからもう大丈夫だ。
 僕は少しも怖くはなかった。
 ----寅太。大丈夫か!
 大丈夫だよ。
 ----ゴミ箱でから揚げ見つけてすっ飛んできたんだが。ああ、それどころじゃねえ。
 ----とにかく。う、動くんじゃねえぞ。
 ----俺がどっかで医者呼んで連れてきてやるからな。
 僕は、君がいてくれたらそれでいいといおうとした。けれどお腹の痛みのせいでうまく声が出せなかった。
 地面があっという間に紅くなる。
 血が止まらなかった。
 ----し、死ぬんじゃねえぞ。踏ん張って生きるんだ。 
 ----俺がついてるから。
 ----安心して待ってんだそ。今ァ世界一の医者連れてきてやっからな!

 ホワイトファング----。

 気がつくとホワイトファングが僕の隣に横たわっていた。
 ホワイトファングは冷たくなってる。
 あの日の朝と同じだ----。 
 やっぱり死んでいたのだ----。
 でも、あの日と違うのは。
 ホワイトファングのとがった耳。鼻には髭。
 そして、長い尻尾。

 ああ----。
 やっぱり君も猫だったんだ。

 
 夢から覚めると、僕の意識を醒ますもの----。
 それは----。
 遠くで微かに声がする。
 それは----。
 安らげる、そしてとてもなつかしい声だ。
 僕の名前を叫んでいる。
 意識はもうろうとしていたがひどく心地良い。
 声が大きくなってくる。
 聴き慣れた、僕の大好きな声だ。
 それは----。
「寅太----」
 そう、僕は寅太だ。
 兄ちゃん!
 それは、まぎれもない兄ちゃんの声だ。
 兄ちゃん!
 そういおうとしたが声が出ない。
 兄ちゃん!
 兄ちゃん!!
「先生。この子は助かるんでしょうか?」
 兄ちゃんが誰かにそう聞いている。
 その知らない人を見ると、その人はゆっくりと数回首を横に振った。
 でも、目が霞んでうまく見えない。
「後は投薬が効くことを祈るばかりです」
 投薬----。
 僕はお医者さんに診てもらっているのだろうか。
 でも今はそんなことなどどうでも良かった。
 兄ちゃん。
 ずっとずっと会いたかったんだ。
 兄ちゃん----。
 僕は嬉しさのあまり、ぽろぽろと泣いてしまった。
 兄ちゃん。僕はずっとこの時を待ちわびていたんだ。
「寅太、必ず助かるからな」
「頑張るんだぞ。負けるんじゃないぞ!」
 兄ちゃんの声は信じられないくらい心地良かった。
 離れて暮らして初めて兄ちゃんの大切さが身にしみた。
 そんな一年だった。

 僕はとうとう----兄ちゃんと再会したのだ!

「先生、どうかこの子を助けてあげてください。お願いします!」
 そうだ。
 僕はまだ死ぬわけにはいかない。
 やっと。
 やっと兄ちゃんと再会できたんだ。
 これはもう、夢じゃないよね?
「できることはすべてやったという感じです」
「後はこの子の生きる力を信じるしか」
 夢にまで見た兄ちゃん----。
 夢なんかじゃ----。
 僕は----。
 話したいことが山ほどあるんだ----。
「寅太、死んだらだめだ!」
 わかってる----。
「頑張って----ついに見つけたんだ」
 うん。
「この一年。俺は。俺は----」
 兄ちゃん。泣かないで。
 僕は大丈夫。
 とても幸せだよ。
「俺、この近所に引っ越して。それから----」
「昔みたいに----」
 うん。うん。
「だがら頑張るんだ! 寅太」
「早く。早く病気を治して元気になるんだぞ」
 うん。頑張る。
 兄ちゃん。

 僕を見つけてくれてありがとう----。
 大好きな、僕の兄ちゃん。

 ----先生。どうしたら。
 ----どうしたら、早く元通りになりますか?
 兄ちゃん。少し痩せたかな。
 目が霞んであまりよく見えない。
 ----とらちゃん!
 ----死んじゃったらあたし許さないから!
 ----何とも。体力が持つことを祈るばかりですね。
 ----か、母さん。ねええ。血が止まらないよう。
 皆が僕を囲んでる。
 ----あんた。静かにしてあげるのよ。
 皆とても温かい。
 僕は映画スターのような人気ものだ。
 ----寅太の、寅太の病気は何なのですか?
 ----とらちゃん。あたしがずっとついてるから。
 うん。みいも泣かないで。
 ----伝染性腸炎といって、非常に感染力の強いウィルスによる感染症です。
 ----それはもう助からないのですか!
 もう、助からないのかな。
 それでも僕は幸せものだ。
 ----ウィルスに汚染された猫や虫などからうつったのでしょう。
 ----とにかく安静が大切です。それから部屋を温かくしていてください。
 皆、ありがとう。
 僕は猫で、幸せだったのかもしれない。
 人間になるのは、次に生まれた時にとっておこう。
 ----母さん。メモとった?
 ----寅太。きっと大丈夫だからな!
 でも、少しだけ疲れちゃった。
 ちょっと休みたい。
 そして元気なって帰ってくるよ。
 ----。
 ----。
 ----。
 聞こえない。
 ----。
 
 兄ちゃんが何か僕に話してかけている。
 兄ちゃんの声が小さすぎて僕には聞こえない。
 ----何ていってるの。兄ちゃん。
 ----。
 ----。

 窓から見える空は青く澄んで、もうじき春がくるのを知らせている。
 ぼやけた空には幾つもの雲が重なり、大きいのや小さいの、中くらいのと皆綺麗に並んでいる。
 目が霞んでその雲が兄ちゃんやみい、ホワイトファング、そして僕の姿のように映った。
 皆笑顔で素敵だった。
 僕の隣には兄ちゃんとみい。
 ホワイトファングが甘えん坊の僕を呆れ顔で笑っている。
 僕とホワイトファングの顔は猫だった。
 皆の顔が滲んでぼやけた。
 部屋が暗くなり空が暗くなり皆の顔は消えてなくなる。
 暗くなった兄ちゃんが僕に話しかけている。
 声が遠すぎて僕には聞こえない。
 兄ちゃんとみい、僕とホワイトファング、皆が仲良く暮らせる場所があったらいいなと思った。

 目をつむるとホワイトファングが呼んでいた。
 ホワイトファングは猫じゃない。
 あの凛々しい姿のままである。
 またいっしょに木登りしようといっている。
 僕もどうやら人間らしい。
 髭もなければ耳もとがっていない。
 僕らは木に飛び移る。
 見たこともないほど大きな木だ。
 どこよりも高く、上へ上へ----。
 風が僕らを歓迎してくれた。
 今度は君が落ちる番かもしれないと脅してみた。
 ホワイトファングが笑う。
 僕も笑う。
 空が綺麗だ。
 最高にいい気分!

 音が消え光が消え、静かになった。


   終章

 あれから半年が過ぎ、暑い夏ももうじき終わろうとしていた。
 去年の秋や冬はとても辛かったけど、今は悠々自適に暮らしている。
 正直、僕はあのまま自分が死んでしまったと思っていた。
 ところが僕はまだ生きている。
 病気の疲れがピークに達して、単に眠ってしまっただけみたいなのだ。
 あの後獣医さんの薬がうんと効いて僕はどんどん回復していった。
 それから兄ちゃんやみいの看病もあって日に日に元気を取り戻していった。
 今僕はみいの家の飼い猫になっていて、自分のことを----猫であると認めての新生活が始まっていた。
 僕はみいとみいのお母さんといっしょにみいの家で暮らしていた。
 けれどみいのお父さんとは未だに一度も会ったことがなくて。というのも実はみいのお父さんは外国で暮らしているのだそうだ。海外出張なのである。
 みいのお父さんについて一言だけいわせてもらうと----僕は写真を見せてもらっただけなのだけど、みいのお父さんはそれはとても太っていておまけに頭もちょっと薄いのである。みいのお母さんは美人なほうだから僕にはそれが何とも可笑しなコンビに映った。でもその写真のお母さんもみいもとても楽しそうに笑っていたから、お父さんは楽しい人に違いないと思う。
 みいの難病に関しては、これはまったくの僕の思い違いだった。
 今ではどうしてみいが難病だと思い込んでしまったのかほとんど思いだすことができない。
 みいはみいのお母さんとの約束通り、今では元気に学校へと通っている。
 そしてごくたまに友達を家に連れてくるようになった。
 一安心である。 
 
 兄ちゃんはみいの家の近所に引っ越してきて、僕とはいつでも遊んでくれる。
 引越しの仕事は体力的にかなり厳しかったようで、今はお弁当屋さんにその職を変えている。
 兄ちゃんの悩みは一つの職場に慣れてくると、急に気分が落ち込んで辛くなってきてしまうことらしい。そしてまた新しい職場を求めては転職を繰り返している。
 兄ちゃんがいうには、職場の人とある程度親しくなってくる時期が一番辛いらしくて、なかなかそれを乗りこえることは難しいのだそうだ。親しくなればなるほどデリカシーのないことをいわれたりして、非常に辛くなるんだとこぼしていた。
 それでも兄ちゃんはいつも僕のことを気にかけてくれて、休みの日じゃなくても仕事の後には僕に会いに来てくれる。兄ちゃんが連休の時は一日じゅう遊んでくれることも多かった。
 そして兄ちゃんと僕とみい----皆でよく白寅公園へ日向ぼっこをしにいく。
 僕にとっては至福の時だ。
 みいのお母さんは相変わらずちょっと気難しくて苦手だが、根は優しく----その証拠にいつも美味しいご飯を用意してくれる。でもみいのお母さんが時々笑うと、僕は何かぞくぞくと嫌な予感がしてたまらなかった。それについては何の根拠もないんだけど、そう思ってしまうんだから仕方がない。
 それから僕は一度だけネジのおじさんと会うことができた。
 ネジのおじさんは掃除夫としてすっかり自信を持ったようで、第二の人生を楽しんでいるのだそうだ。そして明るくとても元気になった。僕はネジのおじさんに、人生あきらめちゃいけないぞと教訓めいたことをいわれた。
 でも、そう。今はもうネジのおじさんではなくて、掃除のおじさん----になったのだ。掃除のおじさんは少しだけ若返って見えた。
 又吉にはあれから一度も会っていなかった。
 僕は命を助けてもらったことのお礼をきちんといいたくて捜しまわったのだけれど、以前に彼が住んでいた場所にはもう何もなくて。彼は引っ越してしまったのだろうか。相変わらず謎の多い人物である。けれどまたひょっこりと彼のほうから現れるかもしれない。

 そして----僕は白寅公園で密かに恋をしているのだ。
 新顔の野良だがとてもキュートなお嬢さんだ。
 
 僕は飼い猫として新しい人生を歩んでいる。
 時おり、ニャァなどと鳴いて猫らしくしてみたりもする。
 もっともこれまでも僕の話していた言葉は、人間にいわせればニャァとしか聞こえなかったのかもしれないけれど。
 それと。
 僕ら猫は、一般的に記憶力が劣っていて一週間くらいしか物事を覚えていられないなんていうけれど、僕は決してそんなことはないと声を大にしていいたい。なぜならば僕は兄ちゃんのことも、それに家族のことも、まあ細々としたことはほとんど忘れてしまったけれど、しっかりと胸の中に覚えていたからである。
 だからこの一年間の出来事もこの先ずうっと忘れないと思う。
 
 そして僕は時々ホワイトファングに想いをよせる。
 あの高い木に登ってそうっと目を閉じて風を感じると、僕の隣にはいつでもホワイトファングが来てくれる。
 彼と暮らした季節は最高だった。僕のこの一年で一番の宝物だった。
 ----兄ちゃんと同じくらいに。
 そして今ではみいのことも同じように大切に思っている。
 ホワイトファングと暮らした我が家は、そのキュートなお嬢さん----僕は勝手にもあちゃんと呼んでいるが----に明け渡している。
 なぜそのお嬢さんがもあちゃんなのかというと、いかにも、もあーっとしているからである。
 そして僕とみいがあの美味しいご飯を例の綺麗なティッシュペーパーに包んで彼女に渡しにいくのだ。
 彼女はそれをとても喜んで食べてくれる。
 これも僕の至福の時である。
 
 僕ら猫の何割かは----特に僕のように飼い猫だったことのある猫は、自分のことを人間だと思って暮らしている。
 もあちゃんが自分のことを猫だとわかっているのかどうか、実は僕はまだ知らない。
 もし彼女が自分のことを人間だと思って暮らしていたとしても、それは何も心配はいらない。
 僕がそれを乗りこえられたように、彼女にもきっとそれができると信じているからだ。それは猫本来が持っているであろう楽天的な性分のせいや、例え彼女がそのことで傷ついてしまったとしても、僕がそばにいるから大丈夫なのである。
 だけどあの公園で一人厳しい冬を過ごすのはたいへんなことだから、近々僕は彼女を僕のようにみいの家で飼ってもらえないかと皆に話すつもりだ。ああ見えてみいのお母さんは猫が大好きなのである。
 そしてここでもう一言だけいわせてもらいたい。

 ----兄ちゃん、ホワイトファング。人生は最高だ!

 僕はホワイトファングの分まで一所懸命に生きていくつもりだ。
 飼い猫になったけれど、こころまで売ったつもりはない。
 僕は僕、どこにいてもそれは僕なのだ。
 立場や環境が変わっても、例えそれが人間であろうと猫であろうと、僕は僕。
 そう、寅太なのだ。
 僕は胸を張って精一杯、一度しかない人生を楽しんでいこうと思う。
 そしてそれを空の向こうからホワイトファングも見てくれているに違いない。
 彼のためにも、兄ちゃんのためにも、人生を楽しく幸せに生きるんだ。

 そして。
 僕に会いたかったらいつでも白寅公園に遊びにおいで。
 僕とホワイトファングが木登りしたあの大きな木も、池のほとりも、生地蔵御老の住んでいた丘も、噴水も、そして我が家も変わらずそこにあるから。
 公園の近くには大きな川もあるよ。夕陽が川に落ちるととっても綺麗なんだ。
 そしてホームレスの猫を見かけたらそうっと話しかけてごらん?
 きっと話を聞いてくれるよ。
 もしかしたら、それは僕かもしれないよ?

 それじゃあ、待ってる。 
                                                            ----寅太。


    おわり


過去に2社、この企画を検討し携わってくれた方々に感謝の気持ちを込めます

また、世に出せなかった私自身の能力の低さと様々な対応力の欠如、しかし真剣に向き合って検討をし助言をしてくれた元職場のプロデューサーさんにこころから感謝をしてます

また、当作品の他に2作品ほど企画を提出していますが、何れも通すことが叶いませんでした
そのうちの1つは漫画原作の方との共同企画でしたが…

私は成功したことのない人生なのですが、爪痕として、1円にもならなかったこの作品を此処に残しておきたいと思います
哀愁が漂う心象、あとがきをどうかお許しください

全編を最後まで読んでくださった方が居てくださいましたら、こころより感謝申し上げます
ありがとうございました

※禁  無断転載、禁  掲載、禁  無断複写です( 著作物のためです)

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