巻一 山海経と論衡

論衡は、後漢の王充(27年-97年頃)の代表作であるが、この中に登場する“倭人”が、“倭人”に関する最も古い時代の記述である。
一方、一説では秦の始皇帝の愛読書であったとも言われている山海経は、B.C.4世紀から3世紀、即ち戦国時代から秦・漢両朝にかけ徐々に加筆され成立したと考えられている最古の地理書とされている。ここで言及されている“倭”は、最も古い時期に記述された“倭”となる。
論衡の“倭人”は、千年以上昔の伝承―21世紀の我々が藤原道長・頼通を語っているのに等しい、否、記録媒体の発達を考慮するとそれ以上かもしれないー、山海経の“倭”は、ほぼ同時代の情報(或いは伝聞)であることに留意して、各々の記載内容を見る必要がある。
 
1.      論衡の“倭人”
論衡には、“倭人”が3箇所登場する。該当箇所は次の通り。  
1)      巻五異虚篇
「人来獻暢草---夷狄獻之則為吉---暢草可以熾醸芬香---」 

(人が来て暢草を獻じた。夷狄のこれを獻ず、則ち吉と為す。暢草は、香り高い酒を醸造することができる)                 
2)      巻八儒増篇
「周時天下太平越裳獻白雉倭人貢鬯草食白雉服鬯草不能除凶」
(周の時、天下太平。越裳は白雉を獻じ、倭人は鬯草を貢ぐ。白雉を食し、鬯草を服するも凶を除くこと能わず)
3)      巻十九恢国篇
「成王之時越裳獻雉倭人貢暢」
(成王の時、越裳は雉を獻じ、倭人は暢を貢ぐ)
 
上記は、少しずつ内容及び表現が異なるものの、実質的に同じ出来事を記述している。内容をまとめると以下のようになる。
周の成王の治世、天下太平であった時、越裳が白雉を獻上し、倭人が鬯(=暢)草を貢いできた。白雉も鬯草も縁起のいい薬であるが、白雉を食し、鬯草を服用したが、凶事を除くことはできなかった(恐らく成王の病気を治癒することはできなかった―筆者意訳)。鬯草というのは、香り高い酒の醸造原料である。
 
成王(B.C.1042-B.C.1021)は、父の武王が牧野の戦い(B.C.1046)で殷を破って周王朝を立ててより実質僅か2年で崩御(B.C.1043)したため幼少にして王位を継承した。周王朝草創期にして幼君を戴き、東方には殷の残党も蟠踞し、王族間の確執等もあり政情は不安定であったが、武王の弟則ち成王の叔父である周公旦を摂政とし、三監の乱(B.C1042-39)なども乗り切り、周の封建体制を確立していった。B.C.1037頃、成王の成人にともない、周公旦が政権を奉還し、成王の親政が始まったとされている。成王の時代は、その子の康王の時代と合わせて“成康の治”と呼ばれる周王朝の安定期であった。
成王は幼くして王位に就いて20年余りで世を去っているので、30歳前後或いはそれより若くして亡くなったのかもしれない。論衡の記事は、成王が病を得、死の床に着いたときのことではなかろうか?すなわち、越裳や倭人はB.C.1021の成王崩御の前、臣従の証として病気平癒を願い吉祥の薬を貢ぎ物として献上したのだと考えて良さそうである。
B.C.11世紀、日本列島では九州北部に水稲農耕が伝播し、縄文時代が終わり弥生時代の黎明を告げようとする時期である。この辺りから、日本列島においても水稲農耕を軸とした社会形成が進み、クニの成立へと向かっていくことになる。
さて、ここに登場する越裳の場所についての定説はない。しかし、長江の南、浙江省から福建、広東更にはベトナムにかけて古来より、越、百越、南越、越南などの地名が残されており、南方地域にあったとするのが定説である。更に、裳という文字には、今日のスカートのような下半身を覆う衣裳という意味があることより、越の南方にあったと容易に想像される。
白雉も鬯(=暢)草も縁起の良いとされる薬材である。鬯(=暢)草は、多くの書物で酒を醸造する際の香り付けに利用する原料と説明されているが、論衡巻五の記述を受けての説明と思われる。酒の香り付けに用いることもできる、縁起の良い薬材と理解すべきではなかろうか?薬が主で、香り付けは副である。そして、それは今日我々がウコン(鬱金)と呼ぶ物である。
さて、では果たして倭人はどこにいたのか?唯一の手がかりは、ウコンの産地であるということである。ウコンの産地は中国南部とされている。とりわけ広西壮族自治区の桂林は、王充の同時代人で交流もあった班固の漢書地理志巻二十八下において鬱林郡と記載されており、鬱金(ウコン)を容易に連想させる。
論衡の倭人は、後の世に日本列島に現れる倭人の源流なのか?全部又は一部が移動して日本列島にたどり着いたのか?それとも別の人種・部族なのか不明である。両者を繋ぐものは、同一名称であるということ以外に見当たらないのである。
しかし、少なくとも論衡、或いは王充が論衡の根拠とした資料は、倭人を南方の部族であったと認識していたことは間違いない。
そしてこのような認識は、後々まで歴代中国王朝の倭人に対する認識に受け継がれ、朝鮮半島の先に居住する部族を倭人であると認識するようになってからも、倭人の居住地が実際よりも遥か南方あるとのイメージを抱き続けたのかもしれない。
 

2.      山海経の“倭”
山海経の“倭”記載箇所は、巻十二海内北経である。
「盖国在キョ(釒+巨)燕南倭北倭属燕」
(盖国は大燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す)
―キョ(釒+巨)=巨、大国に対する美称。大日本帝国の大に相当―
 
盖国記載のついでに、倭の影がチラつくといった扱いである。
“百度百科”によると、「盖国は、周王朝に対し何度か反抗の兵挙げ、周の成王によって平定されたとある。
(三監の乱に加わったか?だとすると殷の遺民か?―筆者)
又、凡そ後の世の三韓の前身となった辰国に相当し、漢江の南に都城があった可能性がある。」となっている。
B.C.11世紀に周に平定された盖国の残党が、朝鮮半島へ逃れてきて確保した居住地が盖国であったのかもしれない。(倭は、周の王族諸侯国である燕に属すと書いてあるが、燕と倭の間にある盖国は燕に属すと書いていない。尚、この後に続く朝鮮も燕に属すと書いてある。)
燕は、B.C.1044年に周の武王によって文王の庶長子(つまり武王の異母兄)の召公が燕の地に封じられてからB.C.222年秦王政(後の秦・始皇帝)によって滅ぼされるまで、800年余に渡って存続した王族諸侯国である。(斉に滅ぼされた時期がある)燕は、元々弱小国であったが、昭王(B.C.312-B.C.280)の時代に積極的人材登用を推進した(郭隗、楽毅等が有名)結果、強勢となり戦国七雄に数えられるまでに成った。このころ燕の版図は史上最大となり、燕の長城は現在のソウル付近にまで達していたと伝わっている。
以上の状況から察するに、山海経の言う倭や朝鮮が強大な燕に服属していた時代とは、B.C.3世紀頃と考えるのが妥当であろう。九州北部に水稲農耕が伝播して約700年の時を経て日本列島では、沖縄と北海道を除くほぼ全域に水稲農耕が普及したとされる弥生中期前半に相当する。
服属していたとは、定期的に朝貢の使者を遣わしていたということである。当時の倭には使者を送ることができる組織、大陸情勢に対する情報収集能力、外交儀礼等のノウハウ、経済力、交通手段等の技術が備わっていたことの証である。
倭の具体的な位置は言及されていないので特定することはできないが、朝鮮半島南端から九州北部或いは西日本の日本海側のどこかと思って大きな間違いはないであろう。
 

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