好きなことやワクワクすることではなく、「なんかやってしまうこと」を、やり続ければいい

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自分自身の使命とか、持って生まれた役割、みたいなものは何なのだろう。

ということを考えるときに、

自分は何が気になるのか

ということはひとつのシグナルになると思う。


しかし今の世の中には「感動させるために存在するもの」がたくさんある。

音楽、映像、物語の起承転結、様々組み合わせることで、「感動するためのスイッチ」を押せる人たちがいる。

そういう人たちがつくったコンテンツをみれば、じぶんなんかはコロッと泣かされてしまう。

でもそういうコンテンツで感動しちゃうのは「叩かれたら痛い」と同じくらい、生理的で受動的な反応なので、映画を観て感動したからって映画を作ることが自分の使命かどうかは判別するのが難しい。


しかし人間は、自然をみて感動できる。自然は人を感動するために存在しているわけではないのに。

武器を美しいと感じることができる。武器は美しさで感動させることを目的としてつくられたわけではないのに、そのフォルムの美しさに感動できる。

当たり前だけど、感動しようと思ってつくられていないものに、人間は感動することができる。心を動かされることができる。

しかしそういう「感動させることを目的にしていないもの」に対する感動はささやかなので、「人が作った人を感動させるためのコンテンツ」が与えてくれる感動にどうしても負けてしまう。


現代において自分のやりたいことを見つける難しさってここにある。


だからじぶんは、「ワクワクすることを仕事にしよう」とか「好きなことを仕事にしよう」という表現の仕方が、ここのところピンとこない。

ワクワクすることの中には、人にワクワクさせられていることがけっこう混じっている。

好きなことの中には、好きだと思い込まさせられていることがけっこう混じっている。


そんな世の中にあって、自分という人間のまま、納得感を得ながら生きていくための何かを、どのようにして見つけたらいいのか。


じぶんは「繰り返し」だと思う。

なんかよくわからないけど、小さい頃から何度も歌ってみたい、と思う。何度も「人前で話したい」と思う。youtubeとかやってみたり、人前で話す仕事をしたりしてしまう。

ついつい機械を分解してみたくなる。修理を頼まれて引き受けたりしてしまう。

なんか絵を描いてしまう。文章を書いてしまう。古い映画を観てしまう。ねこに関するものを集めてしまう。料理をしてしまう。

写真をとってしまう。写真の加工に何時間もかけてしまう。色んな味のアイスを食べたくなってしまう。ねこを観察してしまう。分析してしまう。難しい本を読もうと思って買ってしまう。レシートの整理を何時間もしてしまう。

そういう「なんか知らないけど繰り返している」「なんか妙に時間をかけてしまう」こと。

ここに使命とか持って生まれた役割は存在していると思う。

好きとか嫌いとか、ワクワクするとか、うまいとか下手とかって、けっこうノイズが多いので参考にならなかったりするんだけど、

なんか知らないけど繰り返している、ということは紛れもない「事実」なので、疑いようがない。

そして長い時間が経っているのに自分の中からなくなっていない興味関心、という意味でも、疑いようがない。


好きとかワクワクとかどうでもいいから、「なんか知らないけど繰り返していること」だけをシグナルにしてみるといい。

2020/08/13 05:45 追記

この考え方は「ロマン主義」という19世紀ヨーロッパで流行った思想に近いがけっこう違う気もする。内的必然性に従うべし、という点では共通するが、ロマン主義はもうちょっと情熱的だ。いまのじぶんのこの思考は、情熱とかそういう「感情に名前をつけて、その感情に従って、自分にとっての要不要を決めないようにしよう」というそんな感覚。


読みたい本がたくさんあります。