小論|TVアニメ・再生産総集編・劇場版『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』寸感

付記
初出は、冊子『むさしのメディア文化研究会 研究報告 第1号』(コミックマーケット101 1日目東リ-05a で無料頒布)掲載記事。これをウェブ掲載用に編集した。

 強度のある、どこかのいつかの誰かを射貫くような、眩しくて見えない、キラめきのある表現をはじめるには、自分と向き合うこと、つまり、何をどのように表現したいのか、そしてそれ以上になぜ表現したいのか、その必然性に触れること、至ることが欠かせないのだと思う。その行為は、ある種の苦痛を伴うことも多い。純粋さや喜楽を超えたところにある、嫉妬や執着や、あるいは運命や。ここには観念的な死と再生があって。

 私的な体験ではあるけれど、美術にかかわっていると、そして美術大学という、社会のなかで「自由」と呼ばれるようなやはり何らかの不思議な特異性をもった場にいると、表現するということについて深く考えざるを得ない。そして美術も演劇も、表現することでつながっている。演じる、という点では異なるのかもしれないけれど。

 その上で、その過去から目をそらしたままに再演を続けること、または、そこで出会ったものと和解する、飼い慣らすか叩きのめす、あるいは一歩を踏み出して逸脱して、は軽やかに超越する、さらには劇的に価値の逆転的転換をするなど、それぞれのやり方で表現は行われていくのではないか。そこでは、「私たちはもう舞台の上」。

 そこからは、なによりもやめないことと続けること、しかも常に移り変わって新鮮で居続けることが重要なこととなる。ここでは一見したところ緩やかな、優雅なようで、しかしやはり野性的で爆発的な、喪失と死と再生が意味を持ち、賛美されるべきなのではないか。そのたびに、新しいほんとうの身体を手に入れるような行為なのかもしれない。成長するにせよ老いるにせよ、毎秒ごとに変化し続けるのが人間の、とても人間らしい、心も思考も含めた体なのだと思う。

 「私も、ひかりに負けたくない」という最後のセリフが満載の美しさと、激情と決別の決意に溢れていて、この上なく尊いのは、理論や辻褄を度外視して展開されてきた、彼女たちが再生産を繰り返してきたレヴューに、地下の激情で私たちが愛情と熱狂を持って伴走しつつ、また、全国各地の劇場で欲望を注ぎ込みつつ、その継続と、彼女たちとの再会を熱望してきたからにほかならない。

 アニメーションの世界から、現実の身体を得て生きている9人のそれぞれの卒業へ。再び、「私たちはもう舞台の上」で。私たちと共有されている同じ「本日今この時」に、彼女たちは演じて、表現していて。そして、私たちも、それぞれの舞台でそれぞれの表現をしているのだと気付かされて。キャラクターたちの2次元と私たちの3次元が、その中間を跳躍してつながる、すばらしい作品だと思う。

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