「日本最後の内戦から学んだ台湾への教訓」(全訳)

2022年6月19日

著者:オブライアン・ビクトリア博士
オックスフォード大学仏教学研究センター上級研究員

先日シンガポールで開催された「安全保障シャングリラ対話」に出席した日本の岸田文雄首相は、武力による一方的な現状変更には、それがどこで発生しようとも反対する必要があると強調した。「私自身、今日のウクライナは明日の東アジアになるかもしれないと強く感じている」と警告した。言うまでもなく、岸田氏は中国による台湾侵攻の可能性に言及したのである。

ロシアのウクライナ侵攻による甚大な死と破壊を目の当たりにしている今、岸田氏の考えは合理的であり、非常に望ましいと思われる。しかし、岸田氏が言及しなかったのは、もし自分の国が岸田氏の訓示に従っていれば、今日、日本列島には少なくとも2つの独立国が存在していたであろうということです。

なぜか?それは、日本がかつて、中国と台湾の関係と多くの点で呼応する、あるいは予兆するような内戦を戦ったからである。

日本の歴史に詳しい人なら、中世の日本が15世紀半ばから17世紀初頭にかけて、「戦国時代」と呼ばれる内戦を繰り返したことを思い出すだろう。1615年、徳川家康の軍勢が敵を制圧し、徳川幕府が開かれた。徳川幕府の支配地域は、現在の日本の大部分に及び、その後250年にわたり支配が続いた。

その後、明治天皇の復権を目指す武士と、徳川幕府に忠誠を誓う武士との間で内戦が繰り広げられた。そして、1868年から1869年にかけての戊辰戦争で徳川幕府は敗れ、近代日本が誕生したのである。

しかし、この戊辰戦争の末期に、現在の台湾の状況を思い起こさせるような、あまり知られていないエピソードがある。それは、敗走する徳川幕府軍の残党が北海道(当時は蝦夷地)に北上し、第二の独立国家を建設したことである。そして、1869年1月27日、第二の独立国家「蝦夷共和国」を建国した。蝦夷共和国の最大の特徴は、当初から民主的な政治形態をとっていたことである。しかし、それまで天皇を頂点とし、武将を頂点とする封建的な体制が主流であった日本で、初めて選挙が行われたのである。

台湾では、敗戦した蒋介石率いる中国国民党の独裁的な統治により、民主主義が花開くまでに1949年から1996年までの47年間を要したことと比較される。しかし、蝦夷共和国の民主主義が限定的であったとしても、台湾と同じように、当時の住民が自分たちの故郷を引き継いだ政府の樹立に口を出すことができなかったことも事実である。

蝦夷共和国と台湾に共通する第二の特徴は、自国の有利な立場を維持、あるいは強化しようとする欧米人の存在であった。蝦夷共和国の場合は、徳川幕府の軍事訓練使節団の一員として日本に派遣された5人のフランス陸軍将校がその役割を担っていた。しかし、彼らは1868年9月末にフランスに呼び戻された後、帰国を拒否した。この時、フランス政府は徳川幕府の命運が尽きたと悟っていたからだ。しかし、フランス人将校は戦い続け、その武勇を認められて幕府の残党軍を事実上支配することになった。

ここで、岸田総理の「武力による一方的な現状変更に反対する」という言葉を思い出す必要がある。これを適用すれば、1949年に台湾に撤退した国民党の敗残兵が事実上の独立国家を樹立したように、幕府の敗残兵が作った蝦夷共和国も、同様に岸田首相の武力による現状変更反対の対象になるということだろう。もちろん、そうでなかったことは言うまでもない。

1868年から69年にかけての冬、北海道の函館半島南部では、五稜郭の星型要塞を中心に防衛力が強化された。陸上部隊は日仏共同司令部のもとに編成され、部隊は4つの旅団に分けられ、それぞれフランス人将校が指揮を執った。各旅団は2個大隊に分かれ、さらに4個中隊に分かれていた。フランス軍総司令官のジュール・ブリュネ大尉は、すべての将校に署名入りの忠誠の誓いを求め(そして受け取った)、フランスの考えを同化させるように要求した。

1869年4月、帝国陸軍は7000人の歩兵を乗せた艦隊を北海道に派遣し、箱館戦争の火蓋が切られた。陸上での快進撃に加え、函館湾での海戦でも勝利し、日本初の近代的な海軍同士の大規模な戦闘となった。その結果、五稜郭を包囲することになった。フランス人顧問は事態の絶望的な状況を悟り、箱館湾に駐留していたフランス船に逃げ込んだ。1869年6月26日、ついに幕府軍は降伏し、明治天皇の統治を受け入れることになった。これで蝦夷共和国は終わりを告げた。そして、同年9月20日、その地は現在の「北海道」と命名された。

蝦夷共和国に終止符を打つにあたって、当時の日本政府は、北海道が歴史的に日本の完全な支配下になかったにもかかわらず、軍事力の行使を躊躇しなかった。しかし、それ以後、北海道は日本帝国の一部となる。これは、台湾と中国大陸の歴史的な関係に似ている。蝦夷共和国の民主主義的規範は、むしろ、政治的・軍事的権力を天皇に委ねる憲法を持つ帝国国家にとって脅威であった。

もちろん、日本が自国の領土とみなしている地域の反政府勢力を武力で制圧したのは、決して日本だけではあるまい。歴史的に見れば、内戦の勝者がそのような力を持つときは、常にそうであった。台湾の場合、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発に関連して、米国が台湾防衛のために軍事介入を決定していなければ、現在の中国の一部になっていたことは間違いないだろう。

しかし、岸田氏が中国に対して「現状を変えるために武力を使うな」というのは、歴史的に見れば、"私がするのは構わないが、あなたがするのは許さない"ということである。同じことが台湾に関するアメリカの立場にも言える。1861年から1865年までのアメリカ自身の内戦の場合、敗れた南部連合が沖合の島(例えばキューバ)へ自由に移動することを北部州が許すことはありえないし、台湾政府が現在その意図を軽視しているとはいえ長い間宣言してきたように「本土を武力で奪還する」と脅迫することもありえないことであったからだ。

内戦は、他の戦争と同様、血生臭く、残酷で、破壊的であるため、可能な限り避けなければならない。しかし、私のように自決を信じるのであれば、つまり、一国の住民は外国の干渉を受けずに自分たちの将来を決定する権利を有するのであれば、部外者は一国の住民がどのように将来を決定するかを決める役割を担うべきではない。特に部外者の歴史が、彼らが「説くことを実践」したくないということを十分に明らかにしている場合はなおさらである。

そして、はっきりさせておきたいのは、台湾人の2.3%がこの島の先住民であることを除けば、残りの97.7%の住民の祖先は、何世代、何世紀も前に中国大陸の様々な地域からやってきたということだ。そのため、福建語や客家語のような中国語の方言を話すが、民族的には中国人である。また、1949年以降、台湾は国民党の支配下に置かれたため、台湾人も大陸の人々と同じように標準中国語(北京語)を話すことができる。このように、台湾に住んでいようと本土に住んでいようと、中国人は外国の干渉を受けずに自分たちの未来を切り開く機会を得る資格があるのだ。

*写真は、五稜郭 蝦夷共和国政府庁舎の現在の姿

元記事URL:
https://countercurrents.org/2022/06/lessons-from-japans-last-civil-war-for-taiwan/


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