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科学と聖書にまつわる随想(1)

「シミュラクラ現象」

 あるお饅頭屋さんで、饅頭を蒸した際に多くの饅頭に亀裂が入ってしまい、売り物にならなくなってしまって困っていたところ、その店の奥さんが饅頭の亀裂の傍に黒ゴマを2つチョンチョンと並べて付けてみると、ちょうど黒ゴマが目で亀裂が口のようになってニコちゃんマークみたいで、亀裂の形も色々あるものだからいろんな表情の顔ができて、これがカワイイと大受けし、かえって良く売れるようになった、という話を聞いたことがあります。困っていた問題を、ちょっとしたアイディアで一発逆転して解決できた例として、面白いエピソードだと思います。

 2つの黒ゴマと亀裂のように、一般に、3つのものが逆三角形状に配置していると、何故か顔のように見えてしまうことがよくあります。これを“シミュラクラ(simulacra)現象”というそうです。“simulacra”は“simulacrum”(像、面影)の複数形です。アース付きのコンセントの穴や、板の木目の模様が人の顔に見えたり、建物の3つの窓が目と口に見えたり、車の正面が、ヘッドライトが目でフロントグリルやナンバープレートが口で顔のように見えたり、ということは日頃よく経験します。

 人の顔や動物の顔は日常的に目にするものなので、どの顔にも共通している“2つの目と一つの口”という配置の特徴に類似した特徴を持つ映像を見ると、自然と普段見慣れている物、この場合は“顔”、とリンクさせて想像してしまう、というのがこの現象のメカニズムのようです。顔のように見える現象に限らず、空に浮かぶ雲が何かの形に見えたり、満月の模様が餅をつくウサギに見えたりするように、自分の記憶の中に持っている映像とよく似た物に触れると、実際にはそれが無くても自然とそれを思い浮かべてしまう、という心理現象を“パレイドリア(pareidolia)”と呼ぶそうです。シミュラクラ現象は、パレイドリアの一種ということができるでしょう。

 割れた饅頭と黒ゴマの場合は、2つの黒ゴマで目を表す、という奥さんの意図が込められています、つまり、情報の発信者として奥さんが存在しますが、一般に、3つの物が逆三角形状に配置していても、そのように意図して配置されたものでない限り、その配置の形は、たまたまそうなった、というだけの話で、そこに特に顔の特徴を表す意味がある訳ではないでしょう。板の木目の模様がどうなるかには人の恣意は働いていないでしょう。木目がそう見えるようにわざと切り口を選んだ、というなら別ですが。つまり、そこには情報の発信者の存在は無い訳です。では、発信者がおらず何の意味も含んでいない場合でも、どうして見る人はそこから勝手に意味を読み取ってしまうのでしょうか?

 割れた饅頭と黒ゴマの場合は、2つの黒ゴマと亀裂で顔の特徴を表現しようという発信者の意図があります。顔を表現したいという意思を、黒ゴマと亀裂を逆三角形状に配置する、というルールに従うことで、それを見る人(受信者)に、顔に見せたいという想いを伝達できた訳です。ある一定のルール・規則性・特徴・約束など(具体的に言えば、例えば、どういう符号をどのように並べるかということ)によって意思の伝達がなされるのです。文字や言語はその典型でしょう。コンピュータによる情報通信の世界では、“プロトコル(protocol)”と呼ばれるものがこれに当たるでしょう。 
 
 ですから、そのルール・規則性・特徴・約束に形式的に近いものがあると、意図してそうしたものではなくても、自然とそこからそれによって表される意味を汲み取ろうとしてしまうのではないでしょうか。つまり、何がしかのルール・規則性・特徴・約束が見出されるところには、それを以って情報を発信しようとした発信者の存在を、無意識に認め、求めようとする性質が人間にはあるのではないでしょうか。ルールや約束などの決まり事は、二者の間で取り交わされるものですから、相手が居ないのは不自然だからです。

 ただ、発信者の存在を認めるかどうかは受信者に依存します。山から煙が立ち昇っているのを見て、“山火事”と思うか、“のろし”と思うかはその人次第です。しかし、煙がモールス信号のように、ある規則性をもって区切れて立ち昇っているとしたらどうでしょうか? イギリスのストーンヘンジ、ペルーのナスカの地上絵、イースター島のモアイ像など、それが何を表しているかは正確には分からないですが、これらが発信者無しに自然に出来上がったものだ、と考える人はいないのではないでしょうか。発信者が居ないとすると、これらは何の情報も含んでいない、ということになってしまいます。発信者の存在を認めるかどうかは受信者次第ではありますが、問題は、発信者がいると考えるのと、いないと考えるのと、どちらが合理的か、ということです。

 動物の中には、巧妙な“擬態”の技を持っているものがいます。ミミックオクトパスと呼ばれるタコは、体を様々な色や模様に変えて外敵の目を惑わすことができます。昆虫の中には、体の形や色・模様が木の樹皮や葉に紛れて見分けが付かないようなものがいます。多くの蝶や蛾は羽に眼状紋(目玉模様)を持っていて、捕食者である鳥を威嚇します。コノハムシは全く木の葉のような体をしていますし、ハナカマキリはまるで花のような体です。アンコウの仲間は誘因突起と呼ばれる長いトゲの先端に疑餌状体が付いていて獲物の魚をおびき寄せます。これらの動物たちは、鏡で自分の姿を見ることもなしに、どのようにしてこんな技を身に付けたのでしょうか? 進化の妙でしょうか? もし進化によるものだとしたら、進化は偶然の突然変異の連鎖によると考えられている訳ですから、そこには情報の発信者の存在はありません。しかし、これらの動物たちは“擬態”という特徴を通して、明らかに、外敵に対して「自分を攻撃するな」という意思や、獲物をおびき寄せようという意思を伝達、つまり、情報発信をしているではありませんか。“情報”の無いところから、自然に“情報”が生まれるでしょうか? もし、“情報”の無いところから生まれた“情報”があったとしたら、発信者の無いその“情報”はいわゆるフェイクでしかなく、全く無価値ではありませんか。他者の目から自分を見たらどう見えるか、ということを鏡も無しに知るには、自分以外の第三者の存在が不可欠です。つまり、“擬態”という技をこれらの動物たちに身に付けさせた存在があるはずです。進化論はこの存在を否定する訳ですが、果たしてどちらが合理的でしょうか?

 生物の体を構成する要素の大部分は“有機物”に分類される物質です。この“有機”という言葉は、生物の体の様々な“機能を持った”器官を形作る材料、というところから来ていると考えられます。有機物は、炭素・水素・酸素・窒素などからできていますが、これらの元素の原子が無数に組み合わさることで、特定の機能を発揮する組織が出来上がる訳です。
機能を発揮するということは、すなわち、無意味に寄せ集まったものではない、ということです。ということは、その意味を持たせた発信者が存在するはずではないでしょうか。
 聖書は次のように語ります。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

(ローマ人への手紙1:20)


(タイトル画像には「いらすとや」さんのフリー素材を使わせて頂きました。)


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