科学と聖書にまつわる随想(3)
「組み合わせパターンとそれが表す意味の関係」
「言語(ことば)」は、限られた数の数種の“駒”(つまり、単語、あるいは、文字)の組み合わせ方で様々な意味を表す訳ですが、組み合わせのパターンとそれが表す意味との繋がりは、どのようにして生まれたのでしょうか?
言葉は文化ですから、その土地に住む人々の生活の歴史を通じて、人々が互いに意思疎通を行うために、人と人との間の約束・ルールとして培われてきたものでしょう。多くの人が使うものを、他の人と異なる使い方をしてしまうと、上手く意思が伝わらなかったり誤解されたりする危険がありますから、最大公約数的に自然とあるところに収束する、というプロセスを経て、歴史と時間をかけて言葉とその意味とが結びついて行ったのだと思います。ですから、言葉は時代とともに変化する訳です。したがって、どういう言葉がどういう意味を表すかということについては、もちろん、結果論として様々な由来や因果関係などを辿ることはできるでしょうけれども、その対応関係は一意的でも必然的なものでもないでしょう。つまり、ある言葉が、今使われている意味とは別の意味に紐づいていたとしても何ら不思議ではない、ということです。例えば、ボディランゲージでも、日本では首を縦に振るのは“YES”、横に振るのは“NO”という意思表示ですが、面白いことに、世界にはこれが逆の意味になる国もあるそうです。
一方で、“言葉”と等価なコンピュータのプログラムの場合はどうでしょうか。コンピュータのプログラムは、機械語レベルでは“0”と“1”の組み合わせの2進数で表され、一般に、8桁の2進数(これを8ビット、あるいは、1バイトと呼びます)を基本単位として取り扱われます。コンピュータのCPU(Central Processing Unit:中央処理装置)は、メモリに記録された2進数のデータを読み取って、その数値が意味する動作を実行します。CPUに動作を指示する2進数のデータを“命令(instruction)”と呼びます。目的を実現するための一連の動作をCPUに行わせるように命令を並べたものが機械語の“プログラム”です。どういう2進数の値がどういう動作の命令になるか、ということはCPUの種類によってまちまちです。これはCPUの設計思想(これを“アーキテクチャ”(建築様式の意)といいます)に依存します。コンピュータの設計思想のお話は難しい話なので、聴く人は“飽きてきちゃう”かもしれません。それはさておき、とにかく、2進数の数値と、CPUに対する命令としての意味との関係は、同じ値の2進数でもCPUが異なれば別の意味に解釈されますので、一意的なものでも必然的なものでもなく、CPUの設計者が独自に決めたこと、ということです。どの数値がどういう意味を表すかを決めるに当たっては、もちろん、それを実現するためのハードウェアの都合も勘案されているでしょう。
つまり、製作者、設計者が存在し、その人物が何等かの媒体に意味を込めて意思を伝達しようとする場合は、媒体のどういう状態がどういう意味を表すか、というルール・約束はその製作者・設計者が決めることです。新しいゲームやスポーツが考案される時、そのゲームやスポーツのルールを(少なくとも最初に)決めるのは、その考案者でしょう。
“言葉”とその意味の関係は、人と人とがお互いに理解し合うために生まれてきた、コミュニケーションのための約束、別の言い方をすれば“契約”です。一方、DNAの塩基配列とそれに込められた意味との関係は、したがって、DNAの設計者である“創造主”が決めたこと、DNAによって造り出される人間と“創造主”との間の“契約”である訳です。その契約内容を決める主権は、作者である“創造主”にあります。いずれにおいても、“言葉”という、文字で表せば“目に見えるもの”と、それが表す“意味”という“目に見えないもの”、また、DNAという“目に見えるもの”と、それが持つ遺伝情報という“目に見えないもの”、それぞれの間は“契約”によって結びつけられている、と言うことができるのです。
人と人との間の約束は変化します。人が作りだした文化ですから、場所によっても異なりますし、時代とともにも変化します。しかし、DNAに刻まれた“言葉”、つまり、“創造主”と人間との“契約”は、主権が“創造主”にある以上、“創造主”が不変であれば変わることは無いでしょう。聖書も、“創造主”と人間との“契約”を、人が理解できる言葉を用いて記した書物です。聖書には次のような言葉があります。
DNAだけでなく、自然界の物理法則は、その作者である“創造主”が決めたことであり、変わることはありません。自然界の状態は、その物理法則に従って時間とともに変化はします。しかし、全般的に言えることですが、自然界は急激に変化することを嫌う性質を持っているようです。例えば、力学における「慣性の法則」は、「静止している物体は静止し続け、運動している物体はその速度で運動し続けようとする。」ということを主張しています。平たく言えば、“現状維持”を自然界は望む性質がある、と言えるでしょう。物体の速度を変化させるためには、外部から力を加えなければならず、そこにエネルギーのやり取りが生まれます。そして、物体の持つ慣性の程度を表す指標が“質量(慣性質量)”です。質量が大きい物体ほど、静止状態から動かし始めるには大きな力を要し、一旦動き出したら止めるのにも大きな力が要ります。
電磁気学の分野でも同じようなことがあります。電流が流れるとその周りに磁界が生じることは小学校の理科でも学びます。これを定式化したものをアンペールの法則といいます。そして、磁界が時間的に変化する時、その変化を打ち消す向きに磁界を発生させるように電流を流そうという力が働きます。これをファラデーの法則といいます。電流を流そうとする力のことを起電力(または電圧)といいますが、起電力の大きさは磁界の時間変化のスピードに比例します。そして、その向きは、磁界の変化を打ち消そうとする向きです。つまり、急激な変化が起きると、それを打ち消そうとする反作用が働く、という性質を自然界は持っていることがここにも表れています。
進化論では、DNAの突然変異が進化の原動力と考えられている訳ですが、自然界の持つこの普遍的な性質を勘案するならば、進化論は理にかなった思想とはとても言い難い、と思います。突然に変化したものは打ち消されるのが定めなのです。スーパーで売っている納豆などの大豆製品には大抵、原材料の欄には「丸大豆(遺伝子組み換えでない)」と書かれています。「遺伝子組み換えでない」とわざわざ表記されているのはどうしてでしょうか? 遺伝子組み換え技術を用いて性質を改変された大豆が使われていたら、なんとなく気持ちが悪い、という思いが消費者に起きる懸念があるからではないでしょうか? では、どうしてそれが気持ち悪いのでしょうか? DNAに人為的な操作を加えたら、何か良くないことが起こるかもしれない、という本能的な感覚を皆が持っているからではないでしょうか? 人為的な操作によってDNAに急激な変化を与えると、必ず、それを打ち消そうとする反作用が自然界には働くのです。人がDNAを操作することは、“創造主”に主権のある“契約”を、人が一方的に書き換えようとすることに他ならないからです。主権者は、“契約”を変えることはないと宣言されているにも関わらず.....
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