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科学と聖書にまつわる随想(9)

「能力の限界」

 私たちの目に見える光(可視光)は、およそ400nm~700nmほどの波長範囲しかありませんが、この範囲外の光に視感度を持つ動物もいるようです。例えば、昆虫には紫外線が見えると言われれています。夜、蛍光灯に虫が集まるのはこのためですし、蝶々は私たちが見るのと違った形の花を見ていると考えられます。また、鳥たちも紫外線が見えると言われています。

 嗅覚についても、犬の嗅覚は人の何千倍も、あるいは、それ以上の感度があるそうですし、熊は、さらにその何倍も鋭い嗅覚を持っているそうです。筆者はどちらかというと鼻が鈍い方ですが、人によっては匂いに敏感な人もいて、部屋の匂いなどに不快を訴えるような場合もありますから、犬はそんなに嗅覚が鋭くて耐えられなくならないのか?と心配したくもなります。おそらく、快と感じるか不快と感じるかは主観的な問題であるのと、感覚が飽和して麻痺してしまわないように、不要な感度はマスキングして特定のターゲットにのみ感覚を集中できる能力を持ち合わせているのではないかと考えられます。

 この他にも、人間では考えられないような能力を持つ生き物が多くいます。ノミは自分の体の大きさの何十倍もの高さと距離を跳躍することができます。ワニの口を噛み締める力は何トンもの大きさがあるそうです。残念ながら、口を開く方の力は非常に弱いそうですが。イルカは哺乳類ですので人間と同じ肺呼吸ですが、呼吸を止めて何分間も水中で泳ぎ続けることができます。渡り鳥の長距離飛行能力とナビゲーション能力、鮭が生まれた川に戻る帰巣本能、など挙げ連ねればキリがありません。

 人は神(創造主)の“似姿”として創造された訳ですが、少なくとも身体能力の点では、他の動物の方がはるかに優れているところが多い、ということは否めないと思います。その分、“知恵”が与えられている訳ですが、神(創造主)の“似姿”としての尊厳を自覚するとともに、自らの限界を知る謙虚さをも求められているように思います。自然界を見渡して、それを鑑として己を見つめる、というのが科学者の持つべき姿勢だと思います。ただ、いくら科学を追究したところで、現象を説明するモデルを立て、数式で表現し、論理的な推論の結果、演繹的な解として神(創造主)に至るという訳ではありません。自然界はあくまで神(創造主)の作品です。テーブルに置かれた陶器を眺めてあれこれ品評することはできますが、周りから見ただけではそれを作陶したのが誰かまでは分かりません。
 聖書には、次のようにあります。

「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。」 

(コリント人への手紙第一1:21)

 しかし、その陶器を手に取って、裏を返して銘款を見れば誰の作陶かが明らかになります。自然界を見渡して、その素晴らしさに驚き、畏れを抱いてその造り主に対する敗北宣言をした時、神(創造主)が見えてくるのだと思います。

「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主ですと言うことはできません。」

(コリント人への手紙第一12:3 )

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